8.女の子になった話⑥
悪魔からの告げ口を聞いたミラーの反応
この日以降、カイムは新たな秘密を抱えて、女神様の自宅に通うことになった。グラシアの態度は気になるものの、あの様子では、問うたところでまともな返事は期待できない。向こうからの呼びかけを待つしかあるまい。今のところ、カイムにとって最重要の問題は、いつ、夫の夜遊びの実態をミラーに報告するか、である。
〈さっさと報告しろ。そうすりゃ、女神様も愛想をつかすだろ〉
〈そもそも女神様は、とっくに夫の娼館通いに気づいているかもしれないよ。気づいていてあえて、友達に打ち明けていないんだとしたら、そのことを人には知られたくないってことになるよね〉
〈話しを振るとしても、タイミングは慎重にね。いい? 間違っても、何かで舞い上がったはずみに言ってしまうなんてことはないようにね。絶対だめだからね〉
〈しばらくはそうやって葛藤して、好きなだけ「彼女の秘密を自分の手に握っている」という快感を、貪るといいさ〉
数日経った頃。文字の授業の合間、ミラーは日常の取り留めのない話を友人に語った。しかし、夫の話は省略されている。しばらく沈黙。やがて彼女は隣に座っている「ポエラ」の肩にもたれかかり、振り返ってその頬を指の関節でそっと撫でた。そして悪魔に息がかかるくらいの距離まで近づき、細い声でささやいた。
「……ねえポエラ……あなたって、本当にきれいね……ずっと見ていたいわ……今すぐ私のものにしてしまいたい……」
一瞬にして、悪魔の心は太陽の高さまで上昇させられ、地上のすべての苦悩も、呼吸することもすべてを忘却させられた。
「私があなたみたいに、上品で美しい女の子だったなら、夫は毎晩私を愛してくれていたかしら……」
女神様は悪魔に顔をさらに近づけ、うるんだ瞳で彼を見つめた。悪魔は真っ白な光に包まれた心地だった。
〈上品で美しい(笑)……なんてもったいないお言葉……こんな至高の時間を、あのクソ野郎にみすみす返してやる必要はないわな〉
〈そうだ、不貞浪費家の夫に比べたら、上品で美しい(笑)友達の方が、断然いいに決まってる!〉
カイムは、彼女を抱きしめてしまいたくて、両手がうずくのをこらえるのに必死だった。しかしどうにか、さりげない親切心を装って、「夫婦の義務を果たさない男に、あなたが好かれようとする必要は無い」と告げた。そこでミラーの表情が一変したことに、いい気分になっていた悪魔は気づかず、さらに「あなたはあの男が毎晩、どこに行っているか知っていますか」と尋ねた。
それを聞くと新妻の表情はさらに険しくなり、唇が震えだした。そして、友人の両肩を掴んで激しくゆすった。悪魔は彼女の力に身を任せて、頭を前後にゆすられながら、彼女の言葉を聞いた。
「どうしてあなたが『あの女』のことを知っているのよ。あなた『あの女』と何か関係があるの?」
彼女のあまりの剣幕におされた悪魔は、ちぎれんばかりに首を横に振った。彼女は何度も「本当に?」とたずねたが、終始、悪魔はその動きを止めなかった。
「あなた、『あの女』について何を知っているの?」
悪魔は必死に、自分は「イドラが娼館に出入りしているところを、たまたま見ただけだ。あなたが言う、『あの女』がどの女なのか、まったく分からない」と弁明した。
「娼館? 『あの女』は娼婦なの?」
悪魔は再び首を振って「あなたが言う『あの女』というのを、自分は全く知らない」と大声で繰り返した。(彼はこの時ほとんど地声で叫んだが、ミラーは気づかなかった)
〈だから言ったじゃない……〉
〈しかし、女神様の言う「あの女」とは一体……〉
〈さしずめ元王子様は、娼館で特定の一人に籠絡されているんだろう……〉
〈そして、どこかのタイミングで、妻の前でその名を口にしてしまったと……〉
〈でも、新妻は夫の娼館通いのことは知らなかったんだな……〉
〈ねえ「あの女」って本当に娼婦なの?〉
〈それ以外誰が考えられるんだよ〉
〈うーん、この……〉
友人が無関係であることを納得したあとも、ミラーの感情は収まらなかった。
「何をやってもイドラは私のものにならなかった! 遠くから想っているだけの時よりも、駆け落ちをして、お互いの身体を触れ合わせた後の方が、彼はずっと遠ざかってしまった! そして遠ざかれば遠ざかるほど、彼が恋しくなるし、ほんのちょっとの思わせぶりな仕草で、虚しい希望を持ってしまうの! あなたも恋をしているんなら分かるでしょう!」
彼女は、大きな泣き声をあげたかと思うと、友人の膝に突っ伏した。
カイムは、自分のスカートが女神様の涙で濡れていくのを感じながら、彼女の痙攣する細い肩を眺めた。
〈本当に女神様は、元王子が好きなんだな〉
〈彼女の眼中にあるのは、ずっと元王子だけ。彼女を満たすことができるのも、元王子だけ。ヤツが嘘つきだろうと浮気者だろうと、それは変わらない〉
〈そもそも多大な罪をかかえた悪魔が、つけいる隙なんてなかったのさ〉
〈悪魔はしょせん悪魔(糞)。男の子になったポエラではない〉
悪魔はここ数日見ていた、ほんの少し希望を含んだ夢から覚めた気がした。しかし一方、自分の恋についての現実をはっきり思い出すことで、落ち着きと冷静さを取り戻してもいた。
「この人間は今、とても危うい状態にある」と彼は気づいた。誰かが寄り添ってやらなければ、近いうちに壊れてしまうだろう。そしてそれができるのは、彼女の現状を知っていて、かつ片思いの辛さを現在進行形で存分に知り尽くしている自分だけなんじゃないか。
――「あなたも恋をしているんならわかるでしょう!」
ええ、ええ、そりゃあもう!
一瞬、彼の中で、目の前の人間に対する共感が、激しい恋心を上回った。同時に、彼の魂は、世界の中で暫定的に地位を得たように錯覚した。
この瞬間、悪魔は、いくら贄を捧げても和らぐことのなかった魂の葛藤を、いくらか鎮めることに成功したのである。
それからの数日間は、ミラーに召喚されて以来、カイムが一番おだやかな日々だった。
新妻の身でありながら、片思いに身を焦がすはめになってしまった彼女は、自分の分身なんだと、悪魔は思った。今のミラーと自分は、片思いという呪いに耐える同志である。「ポエラ」は、ミラーの良き理解者として必要な存在だ。やがて彼女が立ち直って、新しい幸せを見つけ、自分の役目が不要になるまでなら、この悪魔が、罪を隠して彼女の世界に存在することも許されるだろう。
今なら「召喚者の一番になれなくてもいい」と言っていたグラシアの気持ちが分かるような気がする。こんな穏やかな気持ちで、彼女の心の安寧を願っているのは、召喚されて以来、初めてだ。始めから、ミラーのすべてがほしいなんて、欲張らなければよかったんだ。きちんと自分の立場をわきまえて、分相応の役割に甘んじればよかったんだ。
ここ数日、酒場に生贄を漁りに行っていない。本当に、もう本当にごくごくたまに、夜な夜なうっかり欲情してしまったときだって、自分の腹を刀で切って痛みを感じれば、すぐに落ち着く。
この均衡がずっと続きますように。
〈おい悪魔、おまえは女神様を幸せにするために召喚されたんだろう? なぜ、彼女から夫を奪った憎き女性は、娼館にいるって目星がついているのに、さっさとそいつを探し出して消してしまわないんだい? それこそ彼女のためってもんだろう?〉
〈できないよなあ。こいつはいつまでも、彼女に片思いでいてほしいのよ。「良き理解者」のくせに、彼女が夫のものに戻るのは、結局耐えられないのよ〉
〈罪を隠しながらさらに罪を重ねる〉
〈どこまでも業の深い悪魔よのう〉
〈なんだかんだ理屈をつけて自分を去勢したつもりでも、悪魔はしょせん悪魔。こんな演技、あと三日も続かんよ〉




