8.女の子になった話⑤
元王子の秘密
それから悪魔は、女神様の家にいくたびに、手に入れた限りの財布をテーブルへ置いて帰ることにした。
さらに数日後、ついにミラーから決定的な言葉を聞く日が訪れる。その日の彼女は、いつになく思い詰めたような顔をしていた。
あえて自分からは口を開かず、こちらをうかがっている彼女の様子を察した悪魔は、何かあったのか尋ねた。すると、答えとは言えない返事が返ってきた。
「……毎日ありがとう……とても助かったわ……」
カイムは一瞬、何のことか分からなかったが、やがて自分が押し付けている財布のことだと気付いた。女神様の深刻な様子から、緊張して彼女の言葉を待っていた彼は、たいした話じゃないことが分かり、すっかり気楽になって、あれくらいでよければ、これからも持ってくると言った。
「……でも……これ以上借りても、私には返せるあてがないの……」
女神様の役に立てたことで舞い上がっていた悪魔は、笑顔で身振りを交ぜながら、返す必要なんてないと言った。彼女は確かめるような上目遣いで、友人を見た。
「でも……お金のことはちゃんとしなくちゃだめじゃない?」
彼は、大仰に片手を振って、再度、気にしなくていいという身振りをした。
「あなた、本当にいい子ね」
ミラーは、安心したような笑顔を見せ、友人の側へ立ち、その頭に手を乗せた。久々に触れられた悪魔は、あまりの気持ちよさに、今すぐ地獄から自分の全財産を取り寄せて、差し出したいと思った。
〈悪魔から「返さなくていい」という言質を取るとは、なかなかやるな〉
〈こりゃ、女神様に金を返す気は、はじめから無かったな〉
〈ま、いざとなったら、身体で払ってもらえば?〉
悪魔は思わず声が聞こえたダイニングテーブルの脚を蹴飛ばしてしまった。一方のミラーはそれには気づかず、再び意味深な顔に戻ってソファーに移動し、落ちるように腰を下ろした。もう一度自分から何か聞くべきか悪魔が迷っていると、ミラーから疲れたような声がした。
「ポエラ……あなた今、恋している?」
唐突な質問に驚く友人をよそに、女神様は窓の外を見ていた。悪魔は、窓からの光が、好きな人の横顔を照らしているのに見惚れながら、黙って頷いた。
彼女は、友人の返事を横目で確認すると、また窓に目をやって独り言のように相槌を打った。
「……そう……」
結局悪魔は、もう一度、何があったのか尋ねた。
ミラーは首を振って答えず、さらにこちらから質問をした。
「……あなたの好きな人は、あなたのことを好き?」
悪魔は返事に困った。
〈好きなわけないだろ。何で答えを迷ってるんだよ〉
友人の顔に陰を見たミラーは、答えを察した。
「そう……」
しばらく沈黙。
やがて彼女は身体の向きを変え、今度は暗い床を見つめた。悪魔は三度、何があったのか尋ねようとした。しかし彼女の険しい表情に気づき、尻込みしてしまった。やがて彼女の唇が震え出し、こらえきれずに言葉を漏らした。
「ポエラ……あなたが男の子だったら、よかったのに……」
悪魔は一瞬、みぞおちを殴られたような気分になった。自分の変装がバレたかと思ったからである。しかし言葉を少しずつ咀嚼するにつれ、自分に都合の良い解釈にたどり着いた。彼はそれを全力で否定しながら、女神様の次の言葉を待った。
「あなたが男の子で、もっと前に出会っていたら、私達は恋をして結婚して幸せになっていたかもしれないのに」
彼女の口から、あまりにも直球に最もそうであってほしい解釈をそのまま聞かされた悪魔は、逆に何を言われたのか理解するのに手間取った。彼が、浮足立つような気持ちと、好きな人の深刻な様子に板挟みになっていると、ミラーは突然声を上げて泣き出し、ソファーの背に突っ伏した。
驚いた彼が、落ち着かせようと屈んでその背中に触れようとすると、嗚咽に混じって彼女の声がした。
「……ねえ……毎日、男の人が妻をおいて、一晩中遊びに行くって普通のこと?……」
悪魔が何か言おうとすると、ミラーは激しく頭を振り、声を強い調子に変えた。
「いいえ、彼の言うとおりよ。全部私が無教養で粗野なせいよ……大丈夫……私が字を覚えて、彼にふさわしい女になれば、必ず彼は私の元に戻ってきてくれるわ……そうでしょう、ポエラ……」
ミラーは突然振り返り、屈んで自分の肩に触れている友人を、泣き腫らした目で見つめた後、たまらず自ら手をのばしてその首にすがりついた。そして、声を上げて泣きながら無礼な質問を詫び、これからも自分の友達でいてほしいと訴えた。
悪魔はしばらく思考を停止させていたが、久々に存在を思い出させられた元王子のろくでもない一面に、怒りと希望が同時に湧いてきた。
〈一体、あのクソ王子は、女神様をどんな言葉で侮辱したんだ! なんの覚悟も無く、宮殿暮らしを捨てた結果、溜まった鬱憤を彼女にぶつけているんじゃないのか!〉
〈なんたる悲劇的な朗報! 放蕩者の夫は女神様を、なかなか愛してやっていない! つまりあの晩より後、彼女の貞操は、守られている可能性がある!〉
〈待て待て、彼女が悲しんでいるのに喜ぶなんて、最低じゃないか〉
〈そうだ! 女神様の悩みの種である、元王子の夜遊びの実態を探ることこそ早急の課題〉
〈それで、元王子が救いようもない愚か者であることが判明し、女神様が「これ以上、添い遂げることができない」なんて、思ってくれたら最高だしな!〉
こうしてカイムは、ミラーの夫である元王子の夜の動向を調べることに決めたのである。彼女の告白があった晩、悪魔は夕日が地平線にかかる時間を待って、千里眼で町を俯瞰しやすい、高い建物の屋根の上に立った。
〈最初から、おまえが帰った後の二人の様子も、千里眼で覗き見していればよかったのに〉
〈だからそんなことしたら、見たくもないものを見ちゃったかもしれないだろうが〉
〈夫婦の営みがないって分かったからこそ、こうやって安心してヤツの動向を覗けるようになったのよ〉
悪魔は煙突の影にうずくまり、雑音を排して、新婚夫婦の家の前に千里眼を集中させた。やがて星が出始めた頃、視界の中心に帰宅した元王子が現れた。カイムは飛び起きた。
元王子は、すぐにドアに手をかけると思いきや、その場で腰を曲げて地面の砂を拾った。そしてそれを、自分の汚れのない服にまぶし始めた。悪魔は数秒、その意味を考えたが、すぐにこれは、ヤツが港で仕事をしてきたように偽装するためだと悟った。
その後、この家の主人はドアの奥に消えたが、ものの数十分で再び姿を現した。きれいな服に着替えを済ませている。
道のほとりで自分が召喚した悪魔、グラシア・ラボラスと合流した「イドラ」は、俯いて無言のまましばらく夜の町を徘徊した。グラシアは、彼の三歩後ろをやはり黙ってついていく。彼らはしばらく、灯りも人通りもある大通りを、デタラメに行ったり来たりしていたが、やがて暗い裏道に入った。
裏道に入ってからは、彼らの足取りには迷いが無かった。ついに元王子は、奇抜な宿屋のような、一つの建物に姿を消した。その建物が何であるか察したカイムは、絶句した。
この町で一番大きい娼館だったのである。
〈裏道に入ったから、賭博だろうと思ったら、より悪いほうじゃないか(怒)〉
〈なんていうことだ! 女神様をこんな形で裏切っているなんて(怒)〉
〈毎晩娼館なんて通ったら、いくらかかるんだ! 新婚夫婦の貧乏の原因はこれだ(怒)〉
〈これはもう、やつが女神様に愛想をつかされるのも時間の問題だぞ(怒)〉
〈もっと早く調べればよかった(怒)〉
〈嘘つけ。おまえ、喜んでるんだろ(笑)〉
カイムはしばらく、口元が緩んでしまうのを我慢しながら、一生懸命眉間に皺を寄せていたが、ふと、誰かの視線を感じた。
おかしい。屋根の上にいるのに、真横から誰かに見られている感じがするなんて。悪魔か
天使以外、あり得ないじゃないか。そして、悪魔か天使なら、そばで見ているとは限らない……。
カイムが、娼館の内側を覗いていた千里眼を、建物の外に移動すると、壁際に、主人が出てくるのを待つグラシアが視界に入った。
二人の悪魔の視線が出会った。
彼もまた、千里眼でカイムを観察していたのである。小さい方の悪魔は、思わず目を逸らした。
一瞬だけ交わしたグラシアの視線は、これまで散々見てきたような友好的なものではなかった。彼の灰色の右目とシェリー酒色の左目は、明らかにカイムを睨んでいた。人懐っこいいつもの様子とは、まるで別人に見え、一言の会話すら拒絶しているようである。
カイムは、あわててこの数カ月の自分の行動を自省し、友人を怒らせた原因を探した。しかし多少反省すべき点はあるものの、ここまで態度を急変させるようなことは思い当たらなかった。




