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8.女の子になった話③

カイムとミラーの邂逅

 この日以降カイムは、好きな人の幻影から逃れるように、自堕落な生活を送るようになった。昼間は町をうろつき、夜は自分を買ってくれる人間を探した。その後は、前述したような過程を経て、買い主を始末し、最後には一人きりになってベッドの上で過ごした。

 ここまでしても、興奮と疲労で何も考えずに過ごせるのは、ほんの一時だった。


〈今頃、新婚夫婦は二人きりで一体、何をしているんだろうねえ〉

〈こっちは、汚え死体と二人きりで寝るしかないのになあ〉

〈強姦魔に、嫉妬する権利なんてねえよ〉

〈……なあ、あの時のキスは気持ちよかったかい?〉

 

 心中に余計な回想がよぎるたびに、彼は虚空に向かって大声で罵った。




 数カ月過ぎた頃である。いつも通り悪魔が、目立たぬようにフード付きマントを羽織って、うつむきながら、町を徘徊していると、誰かにぶつかった。ぶつかった相手は身が軽かったのか、弾かれて尻もちをついた。

 顔を上げ、衝突した相手を見た悪魔は、自分の妄想に取り込まれてしまったのではないかと思った。片時も逃れることができなかった顔がそこにあった。彼の召喚者、ミラーだったのである。

 彼は自分が仕える「女神様」の痛さで歪む顔を前にして、自分でも気づかないうちに手を差し出していた。

「ありがとう」

 女神様は、悪魔の手を取って立ち上がり、そのまま目を合わすことなく、彼の横を通り過ぎた。

 悪魔は、自分に何が起こったのかわからなかった。分からないながら、自分の震える手に残る彼女の感触と、「ありがとう」という言葉の甘さを反芻することは怠らなかった。陶酔の時間が過ぎると、彼に彼女の姿を冷静に分析する余裕が戻った。


――彼女の手は、あんなに細かっただろうか。頬もこけていたし、目の下にクマもあった。なにより、どうしてあんなに暗い顔をしていたんだ。ちょっと前まであんなに元気そうだったのに。彼女は、幸せの絶頂にいるんじゃないのか?


〈こうしてお姫様と王子様は、幸せに暮らしましたとさ〉

〈ところが、その幸せは長くは続きませんでした〉

〈なんと、物語には続きがあった!〉

〈そりゃそうさ。悪魔はまだこの世界に存在しているんだから。不幸は何度でも蘇るさ〉



 その日の日没の時間、気になって仕方なかったカイムは、事情を聞くために、相変わらず新婚夫婦の家の見張りをしているはずのグラシアを訪ねた。

 しかしいつも彼がいるはずの窓の下にきても、誰もいない。カイムはそこに腰を下ろして待ったが、真夜中になって上弦の月が西に沈んでも同僚はこない。星が巡り、空が白み始めた頃、誰かの気配で微睡みから起こされると、グラシアが立っていた。

「グラシア、今までどこに行っていたんだ」

「カイムこそ、何の用?」

 この家の玄関のほうで、ドアを開ける音。小さい方の悪魔は、反射的にそちらを振り返ると、この家の主人が中へ消えた。

「元王子は、今帰ったのか? 彼は一晩中、何をやっていたんだ」

「君の召喚者はミラーだよ。イドラが何をしようと、君には関係ないでしょ」

「二人の間に何があったんだ」

 カイムは立ち上がって、グラシアに掴みかかった。

「知らないよ。もう二人にはかかわらないんでしょ」

 グラシアは、食い下がろうとする友人を振り払い、その場に腰をおろした。そのまま顔を上げずにつぶやいた。

「何度も言うけど、俺の召喚者はイドラで、君の召喚者はミラーだ。俺達は一番大事なものがそれぞれ別なんだよ」



 小屋に戻ったカイムは、大の字に寝転がって考えた。


――彼女の現状を把握しなくちゃ。


〈そんなこと、千里眼で夫婦生活を覗き見すれば簡単だな〉

〈「覗き見は趣味が悪い」〉

〈覗くタイミングを間違えて、夫婦の営みなんか見ちゃったら、嫉妬で頭がおかしくなるだろ〉

〈じゃあ、彼女に直接会って聞くしかないな〉


 煩悶の中にいたカイムは、グラシア・ラボラスの態度がおかしかったことを考える余裕はなかった。



〈あれ? 彼女にもう一度会うのは「無理」なんじゃないの?〉

〈いや、正当な理由があればその限りではないのだ!〉

〈たしかに。女神様のためとあっちゃあ、強姦魔が被害者の家に入るのだって許されるよなあ〉

〈そりゃ、久々に御本尊を拝んじまってよ。御手に触れて、匂いまで嗅いじまったからには、もう一度、会いたくて会いたくて、我慢なんてできんよ〉

〈人妻を警戒させないように、女装はしていけよ〉

〈変装せずにそのままの姿で親しくしていたら、女神様がせっかく封印している、恐ろしい悪魔の記憶を刺激しないとも限らないからな〉



 恋する悪魔は地獄へ戻り、再び友人のオリアスから女性の服とかつら、化粧道具を借りた。オリアスは、友人のやつれた様子を見て心配したが、彼の求めに応じた。

 彼女は帰りかけの友人に、ふと思い出して、忠告をした。

「カイム、知っていると思うけど、あなたがミラーさんに飲ませた忘却の薬は、完全なものではなく、大きなショックが与えられるとすべて思い出す可能性があるから、十分注意してね」

 カイムは一応「ああ、ありがとう」と答えたが、終始別のことを考えている様子で、聞いているのか聞いていないのか、いまいち判然としない。オリアスは、ため息をついて彼を見送った。


 少女の姿に変装を終え、人間の世界に戻った悪魔は、千里眼で愛しい人を探した。やがて、前回会った時と同じ通りで、彼女を見つけた。悪魔は先回りして、建物の角に潜み、胸から内蔵が飛び出すような気持ちで、彼女がこちらに近づくのを待った。

 来た。彼女は買い物の小さい包みを抱えて、うつむき加減で歩いてる。同じ通りに姿を現した悪魔は、宙に浮くような足取りで、その横を通りすがり、わざと肩を少しかすめてから、派手に倒れた。

「大丈夫ですか」

 差し出される彼女の手。その手を取り「足が痛くて立ち上がるのもやっとだ」という演技をすると、案の定、彼女の方から「自分の家で休んでいかないか」と提案してくれた。

 女神様の手を取り、足を引きずる演技をしながら歩き始めた悪魔は、左手の幸福感と、みぞおちに滞る罪悪感で、わけがわからなくなった。彼女と肩を並べて歩くことを遠慮した彼は、繋いだ手の腕をできるだけ伸ばして、後ろを歩き、彼女と一定の距離を保つように心がけた。


 二人そろって、そのまま新婚夫婦の家に入る。家の中の様子を見た悪魔はおかしいと思った。この家はもともと備え付けられていた家財道具一式とともに購入した。どれも、そこそこ高級なものだったはずである。しかしそのほとんどが無くなっており、粗末なものと入れ替わっている。

 ミラーは、不審そうにあたりを見渡すお客を、ニスの剥げた椅子に案内した。

「足の痛みが引くまで、休んでいってちょうだい」

 悪魔はしゃべることができないふりをして、忍ばせていたペンとメモで筆談を試みた。しかし、彼女は受け取ったメモをにらみ、アルファベットをつぶやきながら熟考し始めた。

「私、最近文字を勉強し始めたばかりだから読めないのよ」

 舞い上がって、人間世界の識字率を考慮するのを忘れ、彼女に恥をかかせてしまったと思った悪魔は猛省した。

 彼は、なるべく女性らしく声音を変えて、言葉少なに謝罪をすると、ミラーはお客の手を取った。

「あなた、声を出すことが難しいんでしょ……無理しなくていいのよ」

 女神様の見たことがないような同情に満ちた表情を見た悪魔は、赤面してしまったので、あわてて下を向いた。


〈いいか、その視線はおまえにそそがれたものではない〉

〈百篇となえろ〉

〈「この視線は私にそそがれたものではありません」〉


 新妻はため息をついて、自分もお客の向かいに腰を下ろし、再び来客の渡したメモをにらんだ。

「私も夫の横にいて恥ずかしくないように、文字くらい覚えたいんだけど、なかなか一人だと勉強が進まないのよ」

 悪魔は、夢中だった。どうにか、手振りを交えながら「あなたさえよかったら、これからは自分が教えたい」と伝えると、女神様はいきなり立ち上がって、彼のそばで床に膝をつき、すがるような顔で彼を見上げて、その手をとった。

「ありがとう。ねえ、あなた、私のお友達になってよ。私はミラーよ。あなたの名前は」

 彼女の視線に完全に捉えられてしまった悪魔は、その目の光に吸い込まれてしまいたいと願った。そしてこの瞬間を永遠に、二人だけのものとして印し付けたいと思った。彼は我知らず、以前王子に会うために使った偽名を捨て、二人の間の秘密にするために、新しい偽名をつぶやいていた。

「分かったわ、あなたの名前はポエラね。ポエラ、これからよろしくね」


〈ポエラとは「罪」という意味〉

〈おまえは我欲のために、この新しい偽名を創った〉 

〈幾度名を変えようと、おまえは神様に吹き込まれた、たった一つの魂(糞)への信仰を捨てられない。おまえが名乗った、すべての名によって結ばれる因果を、おまえの魂(糞)は引き受けなければならない〉


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