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1.秘密⑤

仲良くなった二人の日常。ずっと遠慮がちな悪魔だが、たまに「魔がさす」。


 それからの毎日は、楽しいものでした。私たちは、昼間はおしゃべりをしたり、おやつを一緒に食べたりして過ごしました。

「チョコレートは、あなたが飲んでね。嫌いなの」

 例の椅子に座った彼の前のテーブルに、レリーフが入った厚手の白磁のカップをおきました。

「嫌いなのに、出してくれる人に断らないのか」

「……いろいろ事情があるのよ……」

「そうか……」

 私はうつむいて、友達がカップに口をつけるのを横目に見ながら、事情を話そうか悩みました。

 しかしようやく何か言おうと息を吸った時、彼が急にむせだしたので、私は立ち上がって背中をさすってやりました。彼が「失礼した」と言って、ポケットからハンカチを出して口をふいているのを見るうちに、思わず笑ってしまいました。そしてもうこれからは、楽しい話しかしないと、決めました。

 私はお皿の上に積み上がった、きつね色の焼き菓子を指差しました。

「ねえ、このフィナンシェが全部本物の金塊だったとしたら、私たちは大金持ちね」

「そうだったら、何が欲しい?」

「そうね、お城が欲しいわ。古くて、森の深いところにあって、誰も来たがらないようなところに建ってるの」

「そこで何するんだ」

「一番いい部屋で、あなたと暮らすの」

「たくさん部屋があるのに、一つしか使わないのか」

「そうよ」

「じゃあ、ここにいるのと変わらないな」

「そうね、ここは私たちのお城ね」


 夜は、並んでベッドへ入って、彼に本を読んでもらいます。彼が持ってきたのは、『ガリバー旅行記』と『オデュッセイヤ』でした。この小さな部屋にいながら、時間を超えて世界中を旅できるので、私たちにぴったりです。外国語で書かれたこれらの本を、彼は一文一文フランス語に翻訳しながら、読んでくれます。すでに翻訳されている本だって、探せばおそらく手に入るのでしょうが、親友の言葉で聞きたかった私は、そのことについて何も言いませんでした。彼はたまに止まって、どう訳せばいいのか、少し考えこむことがありますが、そういう時に私は、ほっぺたをそっと触って邪魔してやるのが好きでした。また、ギリシャ神話の奔放な恋愛描写にあてられて、気まずい雰囲気になってしまった時も同じことをしました。たまに楽しくなってやりすぎると、真っ赤になった悪魔が、混乱の末に声を上げて本を放り投げ、いつの間にか盛大なくすぐり合いになり(と言ってもほとんど一方的でしたが)、声を立てて笑ってしまうことがありました。そんな時に、廊下で足音がするのに気付いて、あわてて口を押さえたこともあります。結局堪えきれずに、低い笑い声をもらしてしまいましたが。

 二人とも本に夢中になってしまい、女中が照明を消しに来てくれる時間を忘れてしまったこともあります。急なノックの音に驚いて、私はあわてて本と悪魔の頭を布団の中に押し込みました。そして、踏み台に乗ってシャンデリアを下ろしている彼女に、平静を装って「夜の時間に人が入ってくると眠れなくなってしまうから、これからは自分で消す」ということと、今までのお礼を言いました。女中は不思議に思ったのか、詳しい事情を聞きたいようでしたが、私は眉間に皺を寄せ、ひたいに手を当てて具合が良くないようなふりをしたので、追求せずに部屋を出てドアを閉めました。

「名演技だな」

 布団の下から、笑いを堪えたような声が聞こえてきたので、私は手探りで悪魔の額を指で弾きました。

 照明が消えた後は、初めて一緒にベッドに入った日と同じように、私は親友の腕の中で眠ります。(いつの間にか寝間着は用意したようです)

「ねえ、もっと強く抱いてよ」

「だめだ、人間は壊れやすい」

「いつまでも、そんなに遠慮がちにそっと触られてると、ちょっとくすぐったいのよ……」

それにしても、悪魔というのはとても綺麗好きなのでしょうか。身体からいつもジャスミンの香料を入れた石鹸の香りがします。彼の胸は体温が感じられず、心臓の音もしません。顔を押し付けて、およそ生命が感じられない身体に、自分の体温が伝わってまた返ってくるのだけを感じていると、お人形に抱かれているような気持ちになります。

 しかしそれが幸せな時間であるだけに、その時間が失われる死を思い出してしまい、振り払い切れずに泣いてしまうこともありました。すると彼は、決まって私の髪を恐る恐る撫でてくれました。泣き止むまで根気良く撫でてくれる悪魔の手を感じながら、その身体に包まれていると、私の呼吸は次第に落ち着きました。そして、このまま自分が彼の中に溶けてしまうのではないかという想像に襲われました。怖いけれど、それ以上に素敵な想像です。死がこういうのものだったらいいのにと思いました。

 やがて、私の顔にくっついてた彼のみぞおちが、ゆっくり少しだけ離れました。悪魔の指が私の頬に触れ、それが這う感触があります。くすぐったさを堪えていると、私の顎が少し持ち上げられました。彼は小さい声で独り言のように、私の名をささやきました。私が動かずにいると、悪魔は顔を近づけました。私は心臓の音が彼に伝わってしまわないか緊張しながら、成り行きを待ちました。しかし、彼は急に動きを止め、我に返ったように首を振って、私を元通りに抱き直しました。

 私は落胆してしまったので、彼の太ももを軽くつねってやりました。すると思いがけず、彼が声を上げて飛び上がったので、こちらがびっくりしてしまいました。

「申し訳ない……魔がさした……」

「……魔がさしたって……あなた悪魔でしょう……そんなに痛かった? ……ごめん……」

「……いや……」



 もちろんこうした時間とは別に、寝ている最中に動悸が激しくなってしまうこともありました。病魔は私の恋など、お構い無しなのです。そういう時、何かに気づいた彼は、急いで私の額に触った後、私を優しく退けてベッドから出ていってしまいます。悪魔が呼び鈴を鳴らすと、すぐに廊下で女中の足音がしました。こうして、貴重な親友との添い寝の時間が奪われてしまうこともありましたが、私はおおむね幸福です。以前は病魔に取り憑かれている時の方が、楽だと思っていたのですから。そして、何日間か死の淵をさまよった後、ようやく現実に戻った時、天井の幾何学模様を見ている私に蘇ったのは、恐怖や不安の黒い手ではなく、優しい石鹸の香りでした。

 頭を動かすと、私の親友は何かラテン語の題名が付けられたとても古い、難しそうな本を鬼気迫る様子で読んでいるところでした。

「それ、そんなに面白いの」

 急に話しかけらたことに動揺したのか、彼はツノを出して飛び上がり、本を落としました。

「ジュリエット、目を覚ましたのか……具合はどうだ。水を飲んだ方がいい」

「一山越えたみたいよ……その本、面白いんだったら今度私にも読んで聞かせてね」

 私は床に落ちたままの本を見つめながら、テーブルの水さしからグラスに注いでくれている彼の背中に呼びかけました。

「いや、全然面白くない。ちょっと調べたいことがあっただけだ」

 少し裏返った声で答え、グラスを寄越すとすぐに本を拾う様子が面白かったので、私は思わず吹き出してしまいました。


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