7.犬になった話⑩
悪魔の失恋。
彼は新たな自分の役目を全うするため、地獄にいるオリアスの元へ向かう。
カイムがこの友人からもらった、特別な薬。
水道橋の上に戻ったカイムは衣装箱を置き、腰を下ろしてそれに寄りかかって星空を見た。
――ユリエットが言った通り、ミラーも、手に入る地位や財産で、家族を楽させてあげたいだけで、本当はそこまで王子様を好きなわけでは無いのかな……。
だとしたら、地位や財産だけ手に入れて、本当に好きな人と結婚するのが、ミラーの一番の幸せってことになる。
〈「本当に好きな人」だってよ。まさかこいつ、この後に及んで、それが自分になるとか、かすかな期待を抱いてるんじゃないだろうな〉
続いて起こった笑い声につられて、悪魔は一人、引きつったように笑い声を上げた。
*
「ミラーこれは、私が正当な契約に基づいて、報酬として受け取ったものだ。だから安心して受け取ってほしい」
いつもの水道橋の上で、「犬」は革張りの大きな衣装箱を私の前に置くと、ひざまづきました。私が箱を開けると、生地をふんだんに使って優雅なひだを作った、空色のドレスがありました。開いた胸元を金糸のレースが飾っています。ドレスとおそろいの色のサテンを使った尖った靴。花の形をした髪飾りには、南国の鳥の羽と真珠もつかわれていました。
私は触れたこともなかった、ドレスを持ち上げ、自分の体に当てました。
「……これ、本当に私がもらってもいいの?」
「もちろんだ。これは、元の持ち主から直接、私がもらったものだ」
私はドレスのなめらかな手触りに舞い上がってしまい、思わず「犬」の頭に触れました。
「ありがとう」
「犬」は少し気が緩んだような幸せそうな顔をしましたが、やがて立ち上がり、表情を引き締めました。
「ミラー、聞きたいことがあるんだ……おまえは本当にイドルが好きなのか。もし、そうじゃなくてお姫様になって、贅沢をしたいだけなら、他にも色々な方法が……」
突然浴びせられたとんでもない侮辱に、私はドレスを彼に投げつけました。
「私はドレスが欲しかったんじゃないの。彼にふさわしくなるためにドレスが必要だったのよ。私が欲しいのは、イドルだけなのに……イドルさえ手に入れば、私の持っているものなんて全部、犬にでもくれてやる……」
私はその場に突っ伏して、大声で泣きました。
「あんたは、少しは私のことを分かってくれてると思ったのに……」
私の泣き声は、夕方の空気を通して森の上空に響きました。
「ごめん、ミラー。おまえを傷つける気は無かったんだ。おまえの気持ちは十分わかった。だからお願いだ……ドレスは受け取ってくれ……」
*
泣き疲れたミラーにドレスを持たせて帰した後、カイムはうつむいたまま水道橋の縁に腰を下ろした。
〈「犬にでもくれてやる」だってよ。犬ってこいつのことじゃん〉
〈つまり女神様にとって、この悪魔は王子様への愛を証明するための、ゴミ箱ってことですな〉
〈ゴミ箱かあ、せめて便器だったら、よかったのにね〉
悪魔は無理矢理、笑おうとしてみたがうまくいかず、目を閉じると、彼の手の甲に涙が落ちた。
――これでミラーの王子に対する気持ちは確認できた。でも、イドルだかリフレクシオだかとかいう王子の方はどうなんだ。彼の世界の中に、ミラーはどんな姿で存在するんだろうか。もし王子が、ミラーを好きではないのなら、彼を消してしまうことには十分意味がある……。
だって彼女がそいつの気持ちを知って、こんな気持ちになったら、かわいそうじゃないか……。
犬小屋に戻る気になれなかった悪魔は、その場で横になり、星を見上げながら王子の意思を確かめる算段をした。
次の日、地獄(五臓六腑)に戻ったカイムは、少女の姿をした悪魔であるオリアスの元を訪れた。
「あら、カイム。この前はすてきなお土産をありがとう。保存液に漬けて、キッチンに飾ってるわ。今日はどうしたの」
「オリアス……頼みがあるんだ……」
ダイニングキッチンに通され、家主の向かいに腰を下ろした悪魔は、事情を説明した。
「……つまり、女装したあなたが、エピフィルム家の新しいお姫さま候補者になりすまして、王子様の寝室に呼ばれるようにするってこと?」
「ミラーを出し抜くことにはなるが、少なくとも王子が他の女と一晩過ごすのは、回避できるから、彼女を傷つけなくてすむ」
〈ついでに、女神様の操も守れるしな〉
「……もし、王子がちゃんとミラーを好きなら、寝室を訪れた直後、私は死んだことにする。その後、私と入れ替えで、彼女をエピフィルム家の養子にすることは出来ないことではない。これで、彼女が当選確実の最有力候補者になる」
「私は何をしてあげればいいの」
「おまえの服を貸してほしい」
「お姫様にふさわしいドレスなんか持ってないよ」
「なんでもいい、女性として説得力のある姿になれれば、それでいい。むしろいざと言う時に、返り血を浴びても惜しくない、一番いらない服を貸してくれ」
「……わかった。次に来るときまでに、あなたの身体に合わせて服を手直ししておく。あと、かつらとお化粧道具も……アンドレに頼めればいいんだけど、彼女、今忙しいから。三日あればなんとかなると思う」
「ありがとう……」
席を立とうとしたお客を、オリアスは先に立ち上がって引き止めた。
「待って、カイム。あなたにあげたいものがあるの」
彼女は、薬箱の所へ行き、何かを探し始めた。
カイムは所在なく、飾り棚を見上げた。家主が瞑想用に飾っている「皇帝」のタロットカードの横に、自分があげたお土産がある。二重ガラスの器の中、薄黄色の液体に漬かった人間の耳が左右片方ずつ、入れ違いに浮いたり沈んだりしていた。
〈悪魔の手に落ちた私たちは、いずれ邪悪なものに取り込まれて怪物になってしまう……私を殺して、私が私でなくなる前に……〉
〈いやいやいや(笑)〉
〈だいぶ重症ですな〉
〈これまで一度たりとも、「私が私」であったためしなんか無いのに……〉
やがてオリアスは、栓をした試験管に入った透明な液体を手に戻った。
「……これ、あなたにあげる」
「なんだこれは」
「……これに、血液を混ぜて飲むと、飲んだ人は血液の持ち主のことを忘れてしまうの。両用の薬よ……もしも、その王子様がミラーのことをなんとも思っていなかったら、王子様の血液を混ぜて、気づかれないように彼女に飲ませてあげて」
両用の薬とは、人間にも悪魔にも(ついでに天使にも)効果があるということである。反対に、それぞれにしか効果が無い、人間専用、悪魔(天使)専用の薬もある。
「どうしておまえがこんなもの持ってるんだ」
「……マルバスに処方してもらったの……でも、自分じゃ飲めなかったの。
……恋でどんなに苦しんでも、好きな人を忘れるなんて、どうやっても自分じゃできないのよ。彼女を救えるのは、誰よりも彼女のことを考えている、あなただけなのよ」
カイムは、受け取った薬を眺めながらつぶやいた。
「……おまえの詳しい事情は、聞かない方がいいか」
オリアスは、相手の顔から視線を反らし、下を向いた。
「……ごめん……」
カイムは薬をジャケットの内ポケットにしまって、立ち上がった。
「わかった。話したくなったら、いつでも話せ」
「うん、ありがとう……」




