7.犬になった話⑧
見知らぬ少女と悪魔の出会い。
彼女から教えられた新たな「仕事」は、彼の得意とするものである。
次の日の昼間、カイムが広場におもむき、候補者一覧が書かれた看板を見上げると、彼を絶望させる事態が待っていた。これまで彼がせっせと減らした候補者の数と同じだけ、新しい候補者が増えているのである。エピフィルム家の候補者も、フォーオークロック家の候補者も、ユウガオ家の候補者も、全部始末したはずなのに。同じ貴族の家から、めげずに新しい候補者が出てくるなんて。
「候補者だけを狙ってもダメよ。候補者の家自体が無くならないと」
これまでの苦労が徒労に終わり、がっかりして、その場で崩れて四つん這いになった悪魔に、上から女の子の声が降ってきた。聞いたことの無い声である。
「私、あなたのことを知ってるのよ。でも、安心して。誰にもあなたがやっていることを言いつけたりしないから。私はあなたの味方よ。あなたに協力してあげたいの」
カイムは、相手が何者なのか疑う気力も無くし、その場で正座をして相手をぼんやり見上げた。フード付きのマントで周囲から顔を隠すように立っている、ミラーと同じ年くらいの女の子がいる。彼女は続けた。
「あなたは、候補者たちが、みんな純粋な恋心から立候補してると思っていた? 違うのよ。候補者の意思なんて、関係無いの。貴族の候補者たちはみんな、他に結ばれたい人がいたとしても、その気持ちを殺して、両親や親戚の期待に答えるために立候補しているのよ。
お姫様の選考会は候補者の家同士の戦いなの。そして、お金やなんらかの見返りと引き換えに、推薦人をたくさん買収できるのは、財力と権力がある家だわ。お姫さまの選考会は、誰が一番相応しいかで決まるのではなく、どの家が一番力があって、一番お金を使ったかで決まるの。
その家の縁者であれば、候補者なんて本当は誰だっていいのよ。前の候補者が死んだら、その子の姉妹とか、いない場合は養子が準備されて、すぐ次の候補者が立つわ。だから女の子を、一人ひとり手にかけたところで無駄なの。
嘘だと思うなら、貴族の家長に直接聞いてきなさい。
あなたが望むなら、エピフィルム家の長に接触できる仕事を得る方法を教えてあげるわ。エピフィルム家は、現在、貴族の中でも最も有力な家で、この家の候補者が王子の結婚相手として当選することは、初めからほぼ確実よ」
女の子は、背中を丸めた生気の無い、犬の耳をつけた少年の顔を見下ろした。
「私が、今からあなたに紹介するのは、とてもいかがわしい仕事よ。でもたぶん大丈夫でしょう。あなた、そんなこと全然気にしなさそうだもん」
女の子は屈んで、「仕事」を獲得する手筈を、悪魔に耳打ちした。
その夜、水道橋の上でマッシュポテトサンドを食べ終わったカイムが、女の子の言う通り、足元を覗き込んでいると、暗い森の中を小さい蝋燭を頼りに進む二つの頭が、真下で止まった。一人は中年の男で、もう一人はカイムの見た目と同じくらいの年齢の少年である。
カイムが飛び降りて二人の背後に立つと、驚いた二人は振り返った。
「誰だ」
蝋燭を持った大人の方が、灯りを動かしても、クヌギの幹を照らすだけで誰もいない。悪魔はすでに再び、後ろへ回っていたからである。そして次の瞬間には、二人とも彼の日本刀によって地面に伏していた。
悪魔は死体を片付けると、犬の耳と尻尾をはずし(ついでに角が引っ込んでいることも触って確かめた)、服装を整えながら、黒いジャケットに少しだけ飛んでしまった返り血が目立ってないことを確認した。それから整髪料を使って、前髪を全て後ろに撫でつけ、おでこを出した。この類の仕事をする時は、経験上、この方が評判がいいからである。仕上げに催淫剤入りの香水を吹いて、身支度を終えた悪魔が、水道橋の袂に寄りかかって待っていると、やがて第二の待ち人が馬車に乗ってやってきたので、身分を偽って荷台に乗った。
こうして悪魔は男娼として、一番初めに暗殺を決行したエピフィルム家のお屋敷に、再び潜る機会を得た。
立派な書斎に通されたカイムは、主人とテーブルをはさみ、向き合って座った。
「おまえの売主はどうした。待ち合わせ場所にいなかったそうじゃないか」
「はい、彼は本来帰るべきところに帰りました。なのでお金は、私に直接お支払いください」
「いくらほしいんだね」
男娼が値段を言うと、客は驚いた。
「冗談だろ、高すぎる」
「相場ですよ」
この家の長は、カイムを上から下まで観察した。
男の子は微笑を浮かべて、彼に流し目を送り、そのまま視線をテーブルのチーズタルトに移した。
「おまえは、外国人だろう。いい身なりをしているし、見たところ顔も手足も彫刻のように美しい。本来、こんな仕事をする身分じゃないのではないか」
「とんでもない、ただの犬です」
男娼は、交渉中の客に向かって長いまつげを意味ありげに瞬かせた後、またタルトを見た。
男は、このどこの国から来たかも分からない、気味の悪い男の子を、さっさと追い出した方がいいと考えた。その一方、彼の容姿にたいへん色気を感じてもいたので、このまま帰すのもおしいとも思った。そして、男の子がこの部屋に入ってからずっと、こちらに挑発的な視線を送りながら、たまに油断して、テーブルの上のタルトを見つめているのにも気づいていたので、やはり彼はただの子供で、あまり害は無いんじゃないかと考え始めた。
――あの落ち着きから察して、この手の仕事も初めてじゃないんだろう。この国に縁故は無さそうだし、この子を買っても、厄介事に巻き込まれることはあるまい。
「……分かった、私を満足させたら言い値を払ってやる」
「おまかせください」
銀髪の男の子は、余裕そうに足を組み、またタルトに視線を落とした。
「……今、ワインを持ってこさせる。それを飲んだら、ベッドに来てもらおう……タルトは好きなだけ食べなさい」
カイムは、交渉が完璧にうまくいって嬉しくなり、思わず頬を緩ませた。
〈粋な気遣いから与えられるチーズタルトと高級ワイン。義務感で渡されるマッシュポテトサンドの数倍、愛情を感じられる施し(笑)〉
男が使用人を呼ぼうと席を外した瞬間、悪魔は気づかれないように、声がしたテーブルの脚を蹴飛ばした。
〈まったく乱暴だな。おい、お客におまえの女神様を重ねて楽しんじゃダメだからな。いいか、絶対ダメだぞ〉
二人で二杯ずつワインを空けた後、本棚の裏にある隠し扉から秘密の寝室に通された悪魔は、客の相手をした。
客が満足した後、ベッドで彼の隣に横になった男娼は、多少拍子抜けした。もっと痛いことをされる覚悟で、痛覚を最大限に鈍化させていたからである。
――しかし、とにかくこれで、相手が了承した取引によって得た報酬を使って、ドレスを買うことができる。ミラーの言う条件を、文句なく満たせるだろう。あとは、この人間と、この家の現在の候補者を仕留めれば、事態は一歩前進する。こいつこそが、始末しても始末しても、新しい候補者を出す元凶なんだから。だが、始末する前に、もう少し話しを聞いてみるか……私にこの仕事の手引きをしてくれた少女のことも気になるし。
「旦那様は、いつからこのような遊びに興じていらっしゃるのですか。私に対するお優しい態度から察して、失礼ながら、本来このような遊びに向く方ではないと、お見受けしたのですが」
男は、男娼の質問に応じて、ベッドから身を起こし、独り言のように語り出した。
「……私の人生は、この家に振り回されたものだった。家長を継ぐものとして生まれたばかりに、全てをこの家を守るために捧げさせられた。みんな私に敬意を払っているが、それは私自身に対して向けられたものではない、私の爵位に向けられたものだ。私は自分の社会的地位による拘束に抗いたくて、こうして夜な夜な不道徳な娯楽に耽っているんだ……別に自分の性的嗜好を満たすためじゃない……」
「……お察しします」
色々な問題が次々解決して満足していたカイムは、男の横で布団にくるまったまま応じた。しかし男の次の言葉は、事態は少しも進展しておらず、暗礁に乗り上げたままだという事実を、悪魔に突きつけた。男は知らなかったが、彼の言葉は、悪魔に自分を殺めても無意味なことを示唆し、結果、それは一時的に自分の身を守ることに繋がった。
「……たとえ私が死んでも、この家は何も変わらない。私が死んでも私の弟が、家長になるだけだし、弟が死んだら次の人間がその地位につく。王子の結婚相手候補と同じで、代わりの人間などいくらでもいるんだ……家長が何回死のうと、必ず選挙を勝ち抜いて親類から王族を排出し、永遠にこの家は安泰だ……」
――つまり、こいつをただ始末したところで問題は一つも解決しないってことか。
……そして……ドレスって、今から仕立て屋に発注したとして、パーティーの日までに間に合うものなのか……
すべてが振り出しに戻り、がっかりしている悪魔に構わず、男は布団のシワをみつめながら続けた。
「私は本当に好きになった女性とも、結婚することができなかった。おかげで、彼女との間に秘密でもうけた女の子には、何も残せそうに無いと思った。
……しかし王子の結婚相手候補にした、本妻との間にできた娘が、猟奇殺人事件の犠牲になり、そのショックで倒れた妻が、後を追うように亡くなった時……悲しむと同時に、運が回ってきたと思った……これで、一番大事な娘を養子に迎える口実と道筋ができたって……今の婚約者候補がその娘だ……」
男は顔を覆い、泣いている様な声を出した。
「……ああ……ユリエット……私は、愛すべき妻子の死を喜んでしまった罪と、卑猥な道楽に身を投じた罪で、地獄で悪魔に業火へ投じられる覚悟は、とっくにできている……だがユリエット……おまえは、王族に嫁いで幸せになるんだ……私は他に何も望まない……」
結局、これ以上何も聞き出せないと思ったカイムは、チーズタルトのお礼も兼ねて、客を生かしたまま、金だけ受け取って部屋を出た。




