7.犬になった話⑥
悪魔のプレゼントの顛末
一つの問に対する、二人の解釈の違い。
悪魔流、犬小屋が完成する。
夕方、私は「犬」と水道橋の縁に腰掛けていました。その日の「犬」は何があったのか知りませんが、落ち着かなく見え、意味もなくワイシャツの襟を直したり、咳払いをしたりしていました。
「……最近、他の花嫁候補者たちが、次々亡くなっているの……」
私の言葉で彼が動揺したかどうか、どうしても気になり、「犬」の顔を盗み見ましたが、彼は変わらない表情で、言葉の続きを待っていました。
「……悲しまなきゃいけないはずなのに、嬉しいと思う気持ちを止められないの。私って汚い人間だと思う……」
彼は私の質問に対し、こちらに身を乗り出し、訴えるようにささやきました。
「……おまえの全ては、正しくて美しい。私にとって、おまえは正しいことしかしないんじゃない。正しさや美しさの基準が、おまえなんだ」
普通の男性に言われたのであれば、乙女心をくすぐる返事でしたが、「犬」から発せられると、意味が空転しているように感じられました。
「……私が聞きたいのは、あなたにとってじゃないのよ。イドルにとっても、私は正しいかしら……」
彼は身を起こし、少し沈んだ声でつぶやきました。
「……それは分からないが……」
まったく、当たり前の返事でした。私はなぜか、自分がとても孤独に感じました。
しばらく「犬」は、ネクタイを直したり、咳払いをしたり、再び落ち着かない様子でしたが、意を決した様子で隠すように自分のそばに置いていた何かを取り、体ごとこちらを向きました。
「……これ、クッキーのお礼だ。きっとミラーに似合うと思う」
少し上ずった声を出した彼は、空色の宝石がついたピアスを、私の手の平に乗せました。
突然渡された、見たこともない綺麗な宝石に、一瞬心を奪われましたが、やがてその場違いさに気づくと、私の手は震えだしました。
「……こんな高価なもの、どこで手に入れたの……」
「……遠慮することはない。そんなに苦労して、手に入れたものじゃないんだ……おまえが喜ぶなら今度はもっとたくさん……」
勘違いした照れたような「犬」の声を遮るように私は叫びました。
「こんな得体のしれないものもらうわけないでしょう」
私の脳裏に、動物に食われる少女達の姿が蘇りました。
呆然としている「犬」に、私は勇気を出して聞きました。
「……ねえ……あなたは犬だけど、私の嫌がることをしない、いい子だよね」
「ああ」
「あなたは、私の許可もないのに、先走って人を襲ったりはしないよね」
私が恐る恐る、彼の顔色を窺おうとすると、思いがけず、大きな声が聞こえました。
「そんなこと絶対にしない」
私は彼が、怒って怒鳴ったのかと思いましたが、顔を見るとただ私に信じてほしくて、必死になっただけのようでした。
まっすぐこちらに向けられている彼の目を見ていると、私を急き立てる胸の不安が小さくなっていくのがわかりました。彼の言葉はいつになく、信頼できるように思われました。私は、「犬」の頭に手を置きました。
「疑ってごめんなさい。あなたにお詫びをあげるわ」
それを聞いた途端、「犬」は硬直し、なぜかあっという間に顔を赤くしました。私は構わず続けました。
「あなたに、犬小屋を作ってあげなくちゃって思ったの。でも私、そんなの作れないから、あなたのために犬小屋を作って、お願いしてあげる。あなたには、私のお願いを叶えさせてあげるわ」
彼はしばらく固まったままでしたが、顔色が戻っていくと同時に、ようやく私の言葉を咀嚼できたようで「……ありがとう」と呟きました。
*
立ち上がってミラーを見送ったカイムは、そのまましゃがんで、恐る恐る辺りを見回した。そこいらに見当たらないということは、どうやら彼女はピアスを持って帰ってくれたらしい。ちょっとした達成感と同時に、調子に乗って「お詫び」という言葉で思わず、頭を撫でられる以上の彼女とのさまざまな身体的接触について、想像を膨らませたことを思い出し、恥ずかしくなり、その場で膝を抱えて顔を隠した。
――……でも……ミラー、私はお前の許可も無いのに、先走って「ヒト」……つまりお前を襲ったりはしない。絶対にな……
そうして彼は反省しながら、犬小屋を作る計画を立てた。犬小屋について、初めは乗り気では無かったものの、完成したらミラーが遊びに来てくれるんじゃないかという可能性に気づいた途端、彼は急に積極的になった。
翌朝になると悪魔は、犬小屋を作るべく、日本刀を斧代わりに森で木を何本か切り倒した。そしてそれを材木に加工してもらうため、地獄(五臓六腑)に運び、建築家のマルファスという悪魔の元を訪れた。
完成するのに六百六十六年かかると言われている彼の自宅に到着すると、百年前に塔の先端に取り付けた彫刻がすでに風化してしまったのを修復していた家主が、はるか頭上の足場から飛び降り、来客の前に立った。
「なんだ、カイムか。おまえの呪術道具なら整備したばかりだろう。今度ベリアルに会ったら、たまにはおまえも日本刀を持ってこいって言っておけ。あいつはいつも壊れないと、整備に来ないからな」
「今日来たのは、呪術道具の整備じゃない」
「じゃあ、なんだ。またクロセルと指相撲で道場破りに来たのか」
「……今はそこまで暇じゃない……」
カイムは事情を説明した。
「……事情を聞いたのに、全然理解できない。え、おまえが犬になったってどういうことだ。それで飼い主の優しい心づかいによって、犬小屋を建てる権利を賜ったって、全くわからん。おまえはそれのどこに優しさを見出したんだ。その説明があまりに哲学的すぎて、まったく分からなかった」
「とにかく犬小屋を作りたいんだ。広場に持ってきた丸太を材木に加工してほしい」
カイムが、自分の背中の方角に位置する、地獄(五臓六腑)のこの区画にある広場を親指で指すと、マルファスは光速で現場に向かった。そして、そこにある数十本の丸太の木肌に触れて品質を検分した。カイムもすぐに彼の後を追った。
「なるほど、イングリッシュオークか。栄養状態もいいし、加工すれば美しい虎斑模様が期待できるな。犬小屋だろ。簡単なものでよければ、三十分で設計と材木の加工が終えられる。ちょっとそこで待ってろ」
三十分後。
マルファスは誇らしげに依頼主に設計図を見せた。彼の後ろには、あとは組み立てるだけということろまで加工された材木が山になって横たわっていた。
彼は設計図を指さしながら、自分の作品の説明に夢中になった。
「見ろ。簡素だが、最低限の機能と耐久性を備えた傑作が完成したぞ。まずこだわったのは耐震性だ。犬小屋の中心に立てた心柱と、他の材木の間にあえて隙間を作り、揺れの衝撃をいなせるようにした。これは法隆寺の五重塔に使われている、日本の伝統的な技術だ。でも犬小屋だし、屋根は五重もいらないだろうから、三重にしといた」
「……この、床の間の辺りに書き込まれた複雑な機構はなんだ」
「それは掛け軸の後ろに設置する、脱出用のカラクリ扉だ。敵の奇襲に備えてな」
「犬小屋に奇襲をかけてくる人間なんて、いないと思うんだが……」
「じゃあ、おまえが一人で忍者ごっこでもすればいいだろう。そして、内装は日本で今流行りの茶室風にした。それに伴い、入口はあえて膝をつかなければ入れないほど狭い、にじり口にして……」
その後も、マルファスの説明は延々と続き、カイムが解放されたのは、地獄(五臓六腑)に帰ってから五十九分後だった。
「この犬小屋、悪魔の宮大工が一人いれば、半月で組み立てられるが、まあお前一人でも、一年あれば建て終わるだろ。あ、材木の加工賃は、いつでもいいよ」
「……ありがとう……」
人間の世界(一二[ヒフ])に戻ったカイムは、水道橋のある森に、加工してもらった材木と土壁用の材料を運んだ。そして、小屋の中に張りめぐらされるはずだった複雑な梁や柱、余分な屋根、カラクリ扉などの材木を全て捨て、一つの屋根と四方の壁用の木材だけで小屋の形を作った。入口も立って入れるように改造しようと思ったが、自分が犬だったことを思い出し、四つん這いで出入りするのもいいだろうということで、そのままにした。それから柱の間に、格子状に組んだ竹を張り巡らせ、上から土を塗って土壁を作った。(竹はマルファスからもらった)さらに近くある貴族の領地に潜入し、農家から藁を拝借して、屋根を葺いた。
カイムは、完成した小屋に入り、板を並べただけの床で一人、大の字に寝転がった。唯一窓として壁に残した長方形の穴から光が刺し、悪魔を照らした。
――どういう風に誘えば、ミラーはここへ遊びに来てくれるんだろうか。
彼は、日光から顔を背けて、横向きに丸くなった。そして目を閉じたが、ミラーがここへ来てくれて、自分の体を触ってくれたり、相手の体に触らせもらったりする妄想に襲われ、全く眠れなかった。そして、もしもこんなことを考えていることが、ミラーに知られてしまったら立ち直れないという気持ちと、しかし、この妄想もその一部なら、現実に起こらなくもないという、かすかな期待の間を行ったり来たりしているうちに、一睡もしないまま彼女が水道橋に来てくれる日没の時間を迎えた。
〈もしもし、神様。私です。いつまで、この悪魔はウジウジしているのですか。女神様にさっさと「あなたの魂に、私の魂をくっつけて気持ちよくなりましょう」って言えばいいのに〉
〈こいつはな、神様から「おまえに魂を吹き込んだ」っていうありがたいウソを授かり、この世に生を受けたことになったと同時に「ただし、おまえの魂は糞じゃ」っていう御神託も賜っちまったのよ。
だから、とてもじゃないが、好きな人に「自分の魂(糞)を触ってください」なんて言えんのよ。
魂(糞)なんて、無なのにな。こいつは魂(糞)という、無を好きな人になすりつけるのを、ためらっているんじゃよ。
ところで毎回毎回「私です」ってなんの意味があるんだ。毎回毎回、別のやつにそんなことを言われても、無意味なんだよ。
……もしかして君、魂中毒者なのかい?〉




