7.犬になった話③
ミラーと王子の出会い。
その夜、私がベッドに身を起こし、窓から星を見上げていると、銀髪の男の子のことが頭をよぎりました。今頃彼は、どこで何をしているのでしょうか。そして、どこで眠るのでしょうか。まあ、彼は「犬」なんだから、大したことはできないだろうし、星空の下で寝るのだって、全然平気でしょう。私が彼のことを必要以上に考えてやることはないのです。
私は怖いことは忘れて、もっと素敵なことを考えようと、私の好きな人について思いを馳せました。
私が彼と出会ったのは、二人ともまだ十三歳の頃でした。町で辺りを見回しながら歩く、見慣れない男の子を見かけた私は、彼に声をかけました。すると彼は、自分はイドルという名で、初めてこの町へ出たので案内を頼みたいと言うのです。
多少、不審な感じはありましたが、それ以上に彼が纏っている上品な香水に何かを直感して、私はお気に入りの場所をいくつか案内しました。
パン屋から出て、私は小遣いで買ったどんぐりのクッキーを半分に割り、大きい方を彼に差し出しました。しかし彼はお礼を言って、小さい方に手を伸ばしました。そしてポケットから真っ白なハンカチを出し、それにクッキーを乗せました。その光沢のある布についた金の刺繍に、私は釘付けになりました。それはいつも閉ざされた宮殿の外門の一番高いところに掲げられている紋章でした。私は、彼が自分の直感以上の身分であることを知りました。動揺を隠し、気づかないふりをするために、私は自分のクッキーを頬張りました。
すると、私の背中越しにいる誰かに気づいた彼が、突然私の手首を掴み、走り出しました。
「僕を追いかけている人間がいるんだ」
私は、今彼を奪われるわけにはいかないと思いました。
「だったら、いいところがあるからついてきて」
二人は手を繋いだまま、今度は私が先に立って走りました。ようやく、あの水道橋の上にたどり着いた私たちは、息が落ち着くのを待ち、並んで縁に腰掛けました。
彼は、眼下に広がる夕日に染まった町を見つめたまま、微動だにしません。私が話しかけようとすると、ようやく遮るように呟きました。
「僕は、王子なんだ」
私はあえて驚いたような顔をしましたが、彼はそれには気づかず、地平線に向かう太陽に顔を向けたまま続けました。
「……今日は勝手に宮殿を抜け出してきた。町では、僕を連れ戻したい連中が、僕を探している。でも、戻りたくない。君を好きになったんだ。ずっと一緒にいたい。僕とこの国を出よう」
そして王子は、自分の本当の名を名乗りました。
「宮殿では、誰も僕を王子としてしか見ない。君は初めて、僕を純粋に一人の人間として見てくれた」
私は何と答えたらいいか分からず、彼と同じ方向を見つめたまま黙りました。
今さら「私は最初から、あなたが身分の高い人であることに気づいていました」などと言えません。彼がまとっていた香水で、私は彼が貴族か何かだろうと直感しました。そして、この人に親切にしておけば、後々お礼をたくさんもらえるかもしれないし、ひょっとして、さらにうまくいって私のことを気に入ってくれれば、私か両親に割のいい仕事をくれるかもしれないと思ったのです。そして、私が彼をここへ連れてきたのは、あのハンカチによって彼が王家の関係者だと分かり、さすがに仕事の斡旋は諦めたものの、お礼の方は十分可能性があると見て、何も貰わないうちに彼を手放したくないという気持ちが主な理由でした。
「この国は山で閉ざされているけど、その向こうにはたくさん別の国があって、誰も僕たちのことを知らないんだ。そこまで二人で辿り着ければ……」
私の打算には気づかない王子は、まっすぐな目で空を仰ぎながら訴えていました。
この人は、私のために王子という身分まで、捨てようとしているんだ。どうして彼が今日会ったばかりの私を、それほど気に入ってくれたかはわかりません。しかし彼の言動は、私の自尊心をくすぐりました。私の足元に広がる町。中心に宝石のような光を放つ宮殿。自分は今、あれら全てを合わせたよりも、価値があるんだと思いました。そして彼に気に入られようと振る舞ううちに、いつのまにか彼のことを、一人の男の子として好きになり初めていたのも事実です。
しかし、夢へ飛ぼうとする私の気持ちは、現実に足を引っ張られました。国を捨てた後に待ち受けるであろう、様々な困難。私達は子供二人だけで、この国を囲む山を越えて別の国まで辿り着き、さらにそこで誰にも頼らず生活の基盤を築かなければならないのです。それはどうあっても不可能に思えました。そもそも、逃げおおせる前に捕まるのが落ちで、そうなれば私は罰せられるだろうし、彼だって、これからの宮殿での立場に影響があるかもしれません。
結局私は、自分の取るに足りない日常を維持するために、人生のすべてを賭けた愛を拒絶する道を選んでしまったのです。
王子の一世一代の告白に舞い上がっていた私は、今この瞬間を、最大限劇的に演出しようという衝動に駆られました。
私は立ち上がり、そしてひざまずき、首を垂れました。
「……王子様、宮殿へお戻りください。私たちは一緒にはいられません」
平生なら笑ってしまうような私の仰々しい態度に対し、彼はしばらく沈黙しました。私の返事を、受け入れ難いんだろうと思いました。しかし、私がいつまで経っても顔を上げないので、細い震える声で「わかった」とつぶやき、立ち上がりました。
彼が踵を返した直後、私を、とんでもない間違いを犯したような感情が襲いました。
「イドル……」
私は叫びましたが、続く言葉が出てきませんでした。
返事も無く、彼の背中は遠ざかっていきました。宮殿も宝石も簡単に捨てられる王子と、みすぼらしい日常すら手離せない私。この瞬間、二人の間には、身分の差以上に人としての差ができてしまったのです。
数年後、私は大人になり、友達は恋をし始めましたが、私は一向にその気になれませんでした。周りの男の子たちに、ほとんど興味を持てないのです。思い出すのは幼い頃に会った「王子様」のことばかり。
何より、彼が私に示してくれた覚悟。王子という身分と引き換えに、この私を手に入れようとしてくれたこと。生まれてこの方、あの瞬間ほど、私の存在価値が認められたことはありません。そしてこの先も一生、無いでしょう。
彼が「一緒に逃げよう」と言ってくれた時、「はい」と答えていたらどうなっていたでしょうか。もちろん、連れ戻された可能性は高いですが、駆け落ちが成功していた可能性だってあります。私の頭に、その後の困難の末、幸せな結婚生活を手に入れた二人が、手を取り合っている姿が浮かびました。
私は自分の間違った選択によって、輝かしい未来を見す見す捨ててしまったのです。あの時、私のすべき返事は決まっていた。それなのに私は、その後の運命の過酷さに尻込みして、彼の手を取らなかった。きっと人生には全てをかけるべき瞬間というのがあって、それを逃してしまったら、その後は惰性によって余生を潰すしかなくなってしまうのでしょう。
ひょっとしたら、イドルだって私のことを、まだ忘れることができないでいるかもしれない。今からでも町中に、私達の幼い頃の思い出を吹聴すれば、やがて王子の耳に入り、お姫様の選考会を通さずとも、彼は私を宮殿へ招いてくれるんじゃないか……。しかし、そんなことできません。それではまるで、私がお姫様になりたくて、あの時わざと一度、王子様を宮殿へ帰したみたいではありませんか。自分の愛情に打算があると彼に思われることは、私が最も恐れることです。
そうこうするうちに、イドルことリフレクシオ王子のお妃を決める選考会が決まりました。有力な貴族出身の候補者が掲示板に張り出されるたびに、私は焦りと嫉妬に駆られました。王子にとって、この国以上に価値あるのは、未だに私だけだということに対するかすかな期待と不安。いてもたってもいられず、呆れる両親を説得して、私は立候補の届けを握って役所に向かっていました。
私はどうしても彼を手に入れたいと思いました。私は今度こそ、彼の前に立ち、自分の愛にすべてを賭す覚悟があることを、証明しなければならないのです。




