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7.犬になった話①(好きな人のために犬のふりをする悪魔の話)

お姫様になることを夢見る少女ミラーは、自分の暗い願いから、我知らず悪魔を召喚してしまう。

しかしそのことを認めたくない彼女は、自分の悪魔を「犬」だと思い込むことにした。


少女の現実逃避は、やがて平和な国に惨劇をもたらした。


 夏の空に星が出始めた時間、私は森の中にある、遠い昔に使われていた水道橋の上にいました。私は手すりほどの高さの、その橋の縁に腰掛けて景色を眺めていたのです。

 森の匂いがする涼しい空気が頬に触れ、眼下に広がる木々の向こうに、暗い群青色に沈む家々の煉瓦の屋根。ここからは、私の住む町が一望できます。雑多な町並みの中央には、敷地を四角く囲まれて、まだ街灯もつかない時間から、たくさんの窓をオレンジ色に光らせる宮殿があります。お堀の横を通り過ぎる時には、身長の倍以上もあるレンガの塀と、四隅にある円柱型の見張り塔を見上げるだけの宮殿も、ここからは全貌が手のひらに収まるくらいの大きさに見えます。

 私は、この自分だけの秘密の場所から、あのオレンジ色の光の中にいるであろう、私の好きな人のことを考えました。彼がそこでどんな生活をしているのか、きっと私の想像が及ぶものではないでしょう。

 あの宮殿の窓から、この水道橋の上までの物理的な距離の遠さ。しかし私と彼の社会的距離ときたらその比ではないのです。

 この時ふと私の頭に、数日前に無惨な殺され方をした、私のライバルの一人が浮かびました。彼女がいなくなったことで、私と彼の距離は少し近づいたんだろうか。だとすると、ライバルが減るに従い、私は彼に一歩ずつ近づいていく。

 背中を悪寒が撫でました。私はなにかに急かされるように、強く目を瞑り、両手を組んで何かに祈りました。 

 真下を向いたまま目を開けると、この水道橋の袂に茂った木の葉が、黒い塊に見えました。私はそこに吸い込まれないように、腰掛けている水道橋の縁をしっかり掴みました。

 私にはどうしても結ばれたい人がいます。しかし二人が結ばれるのは、正攻法ではとても難しい。かと言って彼は、私利私欲で罪を犯す人間の手を取るような人ではありません。私が潔白のまま、途方もない夢を叶えるためには、何らかの奇跡が必要なのです。

 しばらくすると木々の黒い塊が、半分朽ちたレンガの橋脚を這い上がって来るように見えました。

 いえ、見えるんじゃない。本当にこちらに迫っています。まもなく足首が飲まれる。怖くなり、慌てて橋の縁から降りようとすると、均衡を崩しました。

 その瞬間、誰かに手首を掴まれました。振り返ると、見たことがない銀髪の男の子が縁の上に立っていました。異国人のように見えます。いつからそこにいたのでしょうか。この三年間、ここで人と出くわしたのはこれが初めてです。彼は、大変綺麗な顔をしていましたが、欠点がなさ過ぎてかえって気味が悪く見えました。私たちは、しばらく見つめ合いました。不思議な男の子の左右違う色の瞳が怖くなって、私が身震いすると、彼は我に返って手をそっと離しました。それから咳払いをして、胸を反らして姿勢を正すと、外国語で何かを長々と喋りました。どうやら自己紹介をしているつもりのようです。でもこちらには分からないので、私は自分の知っている言葉で聞くしかありません。

「助けてくれてありがとう、あなたは誰?」

 おそらく理解できなかったのでしょう。彼は、長いまつ毛を瞬かせて、しばらく考えていました。それから急に決心したように縁から飛び降りて、その場に片膝を立ててひざまずくと、私を見上げ、上気した顔で叫びました。

「テー・アモー」

「……それがあなたの名前なの?」

 私の反応を見ると、彼は肩を落として、残念なような、それでいて安心したような顔をしました。自分の言いたいことが、伝わっていないことを察したのでしょう。彼は諦めて再び縁に上り、私から少し離れたところに腰掛けました。

 お互い無言のまま、しばらく動きませんでした。気まずさに耐えきれなくなったので、私が縁から降りて帰ろうとすると、慌てて彼も降りました。歩き出すと、背後で彼も歩き出す気配があります。

「ついてこないで」

 振り返って、手振りで払う仕草をして見せると、伝わったのか立ち止まりました。彼の顔を見ると、悲しいような頼りないような表情をしていたので、少しだけ同情しましたが、やはり関わるのは良くないという気持ちが強かったので、背を向けて全力で走り出しました。


 その夜私はベッドの中で、異国人の男の子を思い出しました。いくら気味が悪かったとはいえ、彼を放り出して帰ってよかったのでしょうか。あの時間、あんなところにいて、今夜はどこで寝ているのでしょうか。そもそも彼は一体何なのか。気配もなく突然私の横に現れ、異国から来たようなのに、長旅で服が汚れた様子もなく、しわもないスーツで正装していました。彼が本当に人間なのかも怪しいものです。できたらもう、関わりたくありません。


 

 しかし翌日の夕方、私は迷った末に再び水道橋へ行くことにしました。もしも言葉も満足に理解できないあの不思議な男の子が、路頭に迷ってしまったら、私の責任になってしまうと思ったからです。私は内心、もう彼がいなくなっていることを望みながら、サンドイッチの入った袋を持って水道橋の階段を登りました。

 登りきり恐る恐る見渡すと、昨日私が座っていたあたりに、見覚えのある白い頭をした人影が見えました。同時に、後悔と恐怖が私を襲いましたが、向こうもこちらを向いたので、もう遅いと思いました。

 夕焼けの赤い空の下、私たちは向いあって立ちました。先に口を開いたのは、向こうでした。

「キノウハ トツゼン シツレイ シタ」

「……あなた、言葉がわかるようになったの」

「スコシダケネ」

「あなた、どこから来たの」

 彼はしばらくためらった後、ようやくとても小さい声を出しました。

「……ヒトコトデイエバ ジゴク デス」

「地獄? あなた一体誰?」

 彼は一瞬沈黙した後、開き直ったのか、おでこに二本の青いツノを出し、すました顔で答えました。

「……ワカリヤスクイエバ、アクマ デス」

 ……悪魔……。自分が彼に対して直感した、恐怖と嫌悪に説明がついた途端、私は持っていた弁当袋を、彼に投げつけました。私が走って逃げようとすると、腕を掴まれました。

「チョットダケ オマチヲ。 ワタシハ オヌシニ キガイハ アタエマセン」

 私の背中に寒気が走りましたが、逃れられません。彼は片手で受け止めていた弁当袋を、私に返そうとしました。

「どうして私に関わろうとするのよ」

「アナタガ ワタシヲ ヨンダカラヨ」

「悪魔なんて私が呼ぶわけないでしょう」

「トコロガドッコイ ナノヨ」

「……」

 私は、昨日自分が、何かに祈ったことを思い出しました。しかし私は、正しいやり方で自分の夢を叶えられるように祈ったのです。悪魔を呼び出して何かを頼むというのは、明らかに正しいやり方ではありません。

 もっとも、私が知らないところで悪魔が現れ、何か悪さをし、それがたまたま私を利することになったのなら、その限りではありませんが。

「私が悪魔を呼ぶなんて、嘘よ。だって、悪魔って嘘つきなんだもん」

 私は震える声で呟いた後、声を上げて泣きました。

「手を離して」

 大声で叫ぶと、彼は驚いて私を解放したので、私は駆け出しました。



 その夜、ベッドの中に入っても全く眠れません。逃げてきた私は本当に正しかったのでしょうか。私は悪魔に来て欲しいだなんて思ったはありません。彼が言っていることは嘘に決まっています。彼が悪魔だということは、あり得ません。しかし、だとしたら私は、私しか頼る人のいない、少し嘘つきな以外は罪の無い、異国の少年を見捨てたことになります。

 一方であの角……。彼が人間とも思えません。そんなこと絶対にあり得ませんが、彼が本当に悪魔だった場合、彼を野放しにしたおかげで町が大変なことになってしまったら、それは全部私のせいということになりかねません。

 私が、悪魔なんかを欲しいと思うことはあり得ませんので、彼が悪魔であるはずはない。しかし、私が悪魔を呼んだというのは嘘だとしても、自分でも気づかないうちに、誰か人間ではないものに来て欲しいと願った、というのは嘘じゃない可能性はあります。そして、彼は悪魔じゃないにしても、何らかの管理が必要な凶暴な獣のようなものである可能性ならあるかもしれません。彼の頭に生えていたのは、ツノじゃなくて、本当は獣の耳だったんじゃないか。そう言えば半年くらい前、私は犬を飼ってみたいと思ったことがあったような。その願いをたまたま神様が聞いて今更、叶えてくれようと彼を遣わしたという可能性はないでしょうか。いや、むしろそれしか考えられないでしょう。


 

「あなた、犬なんでしょう」

 翌日、星が出始める時間に、私は水道橋の上で、再び彼と対峙していました。

「……それは比喩的な意味でということか」

 彼はすでに大分流暢に、言葉を話せるようになっていました。

「ならその通りだ。私はおまえに忠誠を誓うっていう意味では、躾けられた犬みたいなものだ。あまり知られていないが悪魔っていうのは……」

 彼の口からは聞きたくない単語が飛び出したので、私は遮りました。

「比喩的な意味じゃない。あなたはそもそも悪魔なんかじゃなくて、犬なんでしょう」

「いや……残念ながら……」

「信じないわよ。悪魔って嘘つきなんだもん。悪魔が自分のことを悪魔だって、正直に言うわけ無いじゃない。

 あなた今、私に忠誠を誓うって言ったじゃない。それって、私の言うことをなんでも聞くってことでしょう。それも嘘なの? あなたは、自分が何なのか、もう一度よく考えてちょうだい」

 私は一息つくと、勇気を出して彼の目を見つめました。

「あなたは犬なんでしょう」

 彼はしばらく唖然としていましたが、やがて観念してつぶやきました。

「……ああ……私は犬だ……骨の髄までおまえに仕える忠犬だ……」

 私は意を決して手を伸ばし、彼の頭を撫でながら、持ってきた袋を渡しました。

「私の言うことを聞く、良い子にはこれあげる。お腹空いたでしょう。昨日あげたのはちゃんと食べた? 人間を襲って食べたりしたらダメだよ。あなたは犬なんだから」

 帰り際、私はふと思い出して彼を振り返りました。

「私、宮殿に住んでいる、王子様と結ばれることが夢なの。王子様にふさわしいお姫様は、自分に対しても夫に対しても他の誰に対しても誠実で、決して自分の欲のために他人を犠牲にすることなんかしない、身の心も綺麗な人なのよ。私の夢を台無しにするようなことはしないでね」

 水道橋の下へ降りた私は、森の中の小川で彼を触ってしまった手をよく洗ってから、帰宅しました。


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