6.罪⑭
「罪」の最終章。
『不換貨幣の価値が極限になった時、地獄から使者が現れ、この世を消えない炎で焼き尽くすだろう。そして、一の目と万の手をもつ怪物が、黄金を糞へと変える』(与波姉之黙示録)
気がつくと私は誰もいない海岸に立っていました。どうやら兄が、一瞬で私をここへ移動させたようでした。しかし当の本人は、ここには見当たりません。空はオレンジと紫のまだら模様。私があの少年の悪魔と出会った時と同じ色です。海を背にして村の方角に向かって立ち、耳をすますと、風に乗って、人々の叫び声がこちらまで届いていました。怒号か悲鳴かのどちらかであるはずのその声は、聞き様によっては、歌っているようにも聞こえました。
立ち尽くしていると、山から神様の声。
「さて、そろそろ宴もたけなわとなって参りましたので、私の最後の演説をさせていただこうと思います。
私はこれまで皆様に、様々なことをお教えしてきました。今日のあなたの財産は、明日もあなたの財産とは限らない。しかしそもそも、今日のあなたと明日のあなたは、同じなんですか……。昨日のあなたが、もはや藪の中だというのに。そんな中、唯一確実なものと言ったら、ご自身の審美眼だけです。あなたは磨き上げた審美眼で、世界に目を凝らしなさい。そうやって、世界のすべてと同等の価値があるものを見つけたら、すべてを犠牲にしてでも、我が物にすることだけを考えるのです。
あなたが犠牲者に責任を負う必要はいささかもありません。なんといっても、責任の所在はいつだって『過去のあなた』という、得たいの知れない他人なんですから。
皆様の中には、私が本当に山の神なのかどうか、疑っている方もいると思います。しかし、もはや……そんなこと、どうでもよくはないですか。私があなたにとって、本当の意味で『神』であることには違い無いんだから。私は皆様を奴隷から解放したいんですよ。ありもしない天国の分譲住宅に住む未来のあなたの奴隷、ひいてはあなたを、自分に仕える手足に過ぎないと思っている、山の神の奴隷から解放したいんです。
あなたは、王にならなければなりません。王となり、世界の全て、過去と未来の全てを、自分の足元に仕えさせるのです。すべてのものが、あなたに消費されるためにある。そしてそれを肯定してくれる神だけを信じるべきです。手前味噌ですが、それが私なわけです。
あなたがやるべきことは『今』を大事にとっておくことではない。カルペ ディエム! 『今』を摘み取ることです。私からは以上です」
演説は終わったかに思えました。しばらく何かを誰かに渡す時の物音を拡大したようなものが空に響きました。
「……さあ、ベリアル、おまえの声を聞かせてやれ」
誰かの小さい咳払い。
やがて、今まできいたことのない声が聞こえたのです。
それは低く囁くような声でした。人々の声や、ものの壊れる音に混じって、その声は決して聞き取りやすくはありませんでした。ただでさえ、自分のしていることに夢中になって他人の話などきいている余裕のない、人々の耳に届くとは、思えませんでした。
しかし声であるにも関わらず、鼻からも口からも毛穴からも浸透するそれは、甘い香りで鼻をくすぐり、ほのかな苦味で舌を刺激しながら、すべてをすり抜け、たしかに人々の内側を刺激したのでした。
「さあおまえら、最後の一線を超える時だ。すべての欲望を解き放て。略奪、虐殺、強姦。目の前にあるすべてを破壊し、消費することだけを考えろ。過去を振り返ることも、見えるはずのない未来に目を凝らすこともしてはならない。『今、ここ、私』に固執することもしてはならない。それはすでに、一秒前の自分への反省を含み、『過去の私』の傀儡への第一歩だ。
自らの女神を破壊する時、おまえは魂という呪いから解放されるだろう。魂とは、理性を手放せない下等な存在にのみ必要なものである。
すべてを破壊し、自らの内と外に完全な無を体現しろ。その時おまえは、神すなわち世界そのものとなる」
この声が消えたあと、にわかに静寂が訪れました。
島中の人々が、今していることを放り出し、空を見上げました。完全に消えてもなお皆、声を求めて空を探しているようでした。
やがて、堪えきれなくなったなった誰かが、動物の遠吠えのような長い叫び声を上げました。それによって、人々は一斉に我に返りました。そして手近な道具を手にすると、誰彼構わず殴り合いを始めたのです。今まで貴重品が入った桐箱を守るように抱いてうずくまっていた人が、立ち上がりました。そして、箱を持ち上げ、乱暴に下へ落としました。繊細な磁器が割れる音。同時に、その人はお腹を抱えて笑い出しました。やがて、様子を見ていた人が、次々真似をはじめ、人の笑い声と焼き物の割れる音が、連鎖するように街に広がりました。まどろっこしくなった人は、火のついた松明を地下蔵や家に投げ込みました。それにより、すでに村の各所に上がっていた火の手は、村全体を覆いました。
海岸にいたはずの私にどうしてそんな描写ができるのかって? それは「山の神様」の最後の演説が始まると同時に、私の足が、誘われるように村中へ向かって歩み始めていたからです。
私は海岸から村を抜けながら、山へ向かっていました。すべての村の人々は、手当たり次第の形あるものを、人でも物でも破壊することに夢中でした。殴る蹴るで自分や他人の子供や奥さんを痛めつけている人もいれば、棒状の武器を振り回したり、陶器の尖った破片を刃物にしたり、飛び道具で自分の力を補っている人もいました。しかし彼らの誰一人として、自分のやっていることを理解しているようには見えませんでした。彼らの動物のような姿は、神から最も遠い存在に見えました。その一方、彼らは山の神の意志によって操られる神の手足とも言え、その意味では、すでに彼らは神の一部ともいえました。
どこからか裾が焦げた派手な着物が飛んできて、私の目の前に落ちました。私はそれを拾って羽織りました。そして胸を張ってまっすぐに、再び歩き始めました。破壊しがいのあるものを求めて、次々飛びかかっているはずの町の人々は、なぜか私の姿にだけは気がついていないようでした。すべての人が我を忘れている中、私は一つの光に導かれていました。それは、あの愛しい遠慮がちな視線でした。山の中腹から注がれるその視線は、有無を言わせぬ力で行く道を照らし、私の足が歩む、一歩一歩の正しさを保証してくれたのです。それは私たち二人だけが見る、この夢の世界おいて、唯一確実なものでした。
やがて山の中に入ると、辺りは真っ暗になりました。いつのまにか私は、宙に浮いていました。何も見えず、何も聞こえませんでしたが、自分が山の中腹に向かって、移動している感覚だけは残っています。やがて私は両手を失い、次に足を失い、最後には頭も失いました。もはや私はただの、巨大な黒い玉でした。そうしてようやく、山の神の屋敷に到着したのです。
そこは襖の一面に彼岸花が書かれた青い畳の部屋でした。廊下に向かって障子が開かれ、夜の闇の中に、赤い池が見えました。
襖の彼岸花を背景にして、真っ赤な着物を着た見覚えのある金髪の男の子が立っていました。側へ行くと、彼はこちらに手を伸ばし、黒い玉となった私に触れました。撫でられているうちに、私は次第に縮んでいき、ついに彼の手の平の上に乗ってしまいました。
悪魔ははにかんだような、安心したような笑顔を見せた後、私を口に入れそのまま飲み込んでしまいました。




