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1.秘密③

ジュリエットの失恋と絶望。命が消えてしまうまでの残り時間、自分は一体、何を大事にすべきなのか。そして一体、自分をなにより大事にしてくれるのは誰なのか。


 ドアノブが動いたので、私は立ち上がりました。ドアから顔を覗かせたエドワールは、帽子を脱いで挨拶するとベッドの横の椅子に座りました。私はベッドのふちに、向かい合わせで腰かけました。彼はしばらく辺りを見まわしたり、帽子をいじったりした後、ようやく言葉を発しました。

「ずっと心配していたんだ。元気そうでよかった……」

 歯を見せて笑いましたが目は泳いでいます。気持ちは分かります。病人と二人きりになるのは、息苦しいものです。

「私の具合は相変わらずよ。何日かに一度は熱でうなされるし、身体の痣もなかなか消えないの。でも元気な時は、こうしてゆっくりおしゃべりもできるのよ」

「そうか……」

 彼は何を言ったらいいか、分からない様子です。視線からすると、私の腕を気にしているようでした。私は、恐る恐る袖をまくって浮いた痣を見せました。彼はすぐに目を逸らしました。

 私は袖を静かに戻して、話題を変えました。

「学校は忙しい?」

 彼の表情が少し明るくなりました。

「ああ、勉強はついていくのが大変だ。とくに外国語が苦手で全然わからない……」

 彼は、自分の充実した学校生活の話題を振られたので、ほっとしたようでした。

「でも、友達もたくさんできた」

 そして私の全く知らない人たちとの出来事を、楽しそうに話し始めました。

 私には、あまりに遠い世界の話だったので、どのように口を挟んだらいいかわからず、「ええ」とか「そう」とか相槌を繰り返しながらそれを聞きました。

「……それで、友達と二人でカフェに行った時に……」

「……友達って、ガールフレンド?」

 彼はまた、目を泳がせました。

「……あ……ああ……」

 忙しなく動いていた彼の指から、帽子が落ちました。

 私が屈んでそれに手を伸ばすと、甲に鋭い痛み。

 叩かれたと気づいた私は、痛みの残る手の甲を触りつつ、彼を見つめました。

「私の病気は感染るものじゃないのよ……」

「ごめん、そんなつもりじゃないんだ」

 その後、具体的にどんな会話をしたかは覚えていません。覚えているのは、彼が長々と言い訳をしていたことと、泣きそうな顔をしていたことだけです。泣きたいのはこちらです。おそらく私がこの仕打ちを、誰かに言いつけることを恐れたのでしょう。

「……もう分かったから……帰ってどうぞ。その椅子は、あなたの椅子じゃないの……」

 私が疲れてつぶやくと、彼は肩を落として立ち上がり「また来る」と言って出て行きました。

 結局、なぜ彼が急にここへ来る気になったのかは、謎のままでした。

 

 この件に関して、私は意外にも冷静でした。ワンピースのままベッドに手を広げて横になり、じっと天井の幾何学模様を見つめました。涙すら出ません。久しぶりにじっくり見た、シャンデリアを囲むように描かれた複雑な曲線は、万華鏡をのぞいた世界のように見えました。

 本当に、病気は私からすべてを奪ったようです。人生の残り時間だけでなく、私に注がれるはずだった愛情まで奪ってしまったのです。神様に選ばれなかった人間には、他の人間に愛される資格もないのでしょうか。私は四年前は求められて、つい先程はねつけられた自分の右手を天井に向かって、かざしました。

 それと同時に、十日ほど前に自分がはねつけた手のことを思い出していました。

 窓台を見ると、いつの間にか彼は、定位置に戻ってきていました。

「……私……あなたの手をぶったこと、謝るわ……ごめんなさい」

「いや毎日、悪魔なんかにしつこく話しかけられてたんだから、当然の反応だ。おまえの気持ちを考えなかったのは、私の方だ」

「どうして悪魔ってみんなから嫌われてるの」

 彼は窓の外の緑に茂った林を見つめたまま、しばらく考えた後、こうつぶやきました。

「……悪魔は、一人を好きになりすぎるあまり、ほかの全てを犠牲にする。たとえば私は、おまえが病気のことでも友達のことでも、一切苦しまなくていい、幸せな時間を過ごすためなら、あの林のすぐ先にある大きな町を全焼させて、すべての住人の命を捧げる。それがたった一日であろうと、一時間であろうとな……場合によっては、おまえの初恋の人とやらにも躊躇しない」

「今までも、そうやって一人のためにたくさんの命を犠牲にしてきたの」

「そうだ」

「最低ね」

「かもな」

「……でも、あなたにそう思われているのは悪くないわ」

「……」

 返事がないので窓台を盗み見ると、悪魔はこちらに顔を見られないように、外を向いてしまっていたため、私はそれ以上、話しかけるのをやめました。


「エドワールさんが婚約したそうです」

 夕食を下げに来た女中がこう私に告げたのは、次の日のことでした。彼女は、私がこの部屋に来た時に、生家からついて来てくれた人です。どうやら私の気持ちを知っていた彼女はその日の一日中、伝えかねていたようでした。朝の身支度の際「……エドワールさんから何も聞いていませんか……」と尋ねて以来、この時間にようやく意を決したのです。

「そう……」

 相手の女性の名前を聞いて、私が作った笑顔で答えると、彼女はそれ以上この件について、話すのをやめてくれました。

 古い知り合いが出ていき、新しい同居人が窓をくぐった頃、私は、またしてもベッドに倒れて、天井を見上げてぼんやりしていました。こめかみを伝ってシーツに涙が落ちました。

 はっきり言って、彼に対する未練のような気持ちはすでにありません。そのかわり、浮かんできたのは両親の顔でした。私の将来を、私の結婚を望んでいた両親。私は、彼らを裏切ったのです。何一つ期待に応えられなかった愛しい娘を失った後、寂しく老いていく二人の姿を想像すると、どうしようもない罪悪感で一杯になりました。

 悪魔が静かに窓台を降りて、私の横の椅子に座ったのが分かりました。

「彼……婚約するんですって……」

「……そうか……」

「でも全然、悲しくないの……」

「じゃあ、なんで泣いているんだ……」

「だってお父さんとお母さんに、悪いことしちゃったんだもん……」

 沈黙。私が鼻をすする音だけが、聞こえました。しばらくして、彼はそっと呟きました。

「……ジュリエット……」

 悪魔は椅子から降り、その場に片膝を立てて跪きました。

「おまえはもう世界を諦めろ。私はこれから、おまえに自分が楽しむことだけを考えて生きてほしい」

「ほしいって、それ、あなたのお願い?」

「そうだ」

「それはお母さんもお父さんも、エドワールも、友達も、私に親切だった人も、意地悪だった人も、世界中の誰についても気にかけるのをやめるってこと?」

「そうだ」

 彼の言っていることを理解するには、時間と落ち着きが必要でした。そして落ち着くには、これしか方法が思いつきません。

「ねえ……私の手を握ってくれる……」

 今更、図々しくよくそんなことを言えたものだと、自分でも呆れます。しかし悪魔は気にする様子もなく、高価な宝石にでも触れるような、緊張した両手で私の左手をとりました。彼の小刻みに震える冷たい手を感じた瞬間、私の目から再び涙があふれましたが、悲しいのか嬉しいのか自分でもよく分かりませんでした。


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