4.世界⑪
「世界」最終話。
クロセルの声が聞こえなくなってからしばらく、会話ができなくなったかわりに、悪魔は今まで以上に、私と一緒にいたがるようになりました。洗濯でも、料理でも、これまで別々に行っていた仕事も、いつの間にか二人でするようになりました。私がが切った材料を彼が受け取って、鍋に入れたり、彼が洗った洗濯物を私が受け取って干したり、と言った調子です。
住処の近くを散策して、冬山の僅かな山菜を獲った帰り、私がうっかり木の根につまづくと、目の前に手が差し伸べられました。私は顔を上げずに、その手を取りました。私が立ち上がっても、彼は手を強く握って離そうとはせず、下を向いたまま、黙って帰り道を歩き始めました。私は大人しくそれに従いました。
その夜、暗闇の中、寝床に横になっても相変わらず、彼の声は聞こえません。慣れたはずの孤独感に、この日はなぜか耐えられませんでした。そして夕方の、細い指の少し骨張った手を思い出し、たまらなくなった私は、暗闇に腕を伸ばし、そこにあった身体をつつきました。まもなく私の左手に、いとおしい感触があったので、ようやく安心して目を閉じると、涙が一筋だけ、こめかみを伝いました。
その数日後の朝、刺すような冷たさと、白い強い日差しに気づいて、玄関から外を覗くと夜中にかなり降った後でした。膝の高さまで積もった雪が、弱い日光に表面を溶かされて、虹色の光を反射しています。私が身震いして部屋へ戻ろうとすると、悪魔が久しぶりに、出会った頃の余裕そうな笑みを浮かべて、手招きしています。私は一応、訝しそうな顔を見せてから、その手を取りました。
次の瞬間には、私の全身は宙に浮き、彼の腕の中に抱えられていました。そしてその次の瞬間には、私たちは、湯気の立つ湖のほとりにいました。彼は、私を降ろしながら温泉を指しています。どうやら一緒に入ろうと言っているようです。
私が少し気を許すと、すぐこれです。私たちは身振り手振りでもめた後、お互い後ろを向いたまま、入ることになりました。
服を脱いで、湖に身を沈めた私は、白い冬の空を見上げました。黒髪のように枝を垂らした枝垂れ桜の木には、離れた枝に二人の着物が掛かっています。再び何も無い空を見上げていると、こうしている間に、彼が消えてしまっているのではないかという不安に襲われました。
私はこっそり、後ろをうかがいました。すると、何だか彼の背中が透けているように見えるのです。私は驚いて思わず振り向いて、彼の肩を掴みかけました。しかし気のせいだと思い直し、元の通り背中を向けてしゃがみました。
私はまだのぼせるほど入っていないにも関わらず、赤くなってしまった顔を半分くらいお湯につけながら、水音で気づいた彼が、振り返って私が約束を反故にしたことを主張してくるのではないかと身構えましたが、背後からの反応は何もありませんでした。
長い冬の間、私は度々温泉に連れて行ってもらったおかげで、かなり寒さを楽に過ごすことができました。私は悪魔に抱えられる度に、抗えない幸福を感じていました。しかし、抱えられて彼の首筋に目をやる度に、やはりだんだんと姿が透けてきているような気がして、いつか急に彼が消え、私は落下するんじゃないかという心配も同時に抱えていました。
夜、寝床に入ると、相変わらずの孤独に襲われました。するといつも、ベッドから垂れた左手を誰かに捕まえられるのです。天井を見ると真っ暗で、冬の山奥は物音一つしません。こうして横たわっていると、悪魔の姿どころか、もう自分の身体すら無くなってしまったような気になります。その中で左手の温かみだけが、唯一の目印のように宙に浮かんでいます。毎晩、私はここで死の練習をさせられているのですが、この目印によってどうにかこの世に繋ぎ止められているのです。
私は悪魔の姿を信じきれない一方、悪魔の右手の確かさに、自分の存在の確かさを託していました。
そうこうしているうちに、再び桜の季節が近づいてきました。それはつまり、私が死ぬ日、この世界が消える日が近づいたということです。
私は、何か大きな勘違いをしていたのでしょう。誰かを単なる幻覚だとしか思えない限り、その人が私を好きだと言ってくれたところで虚しいだけです。誰かに私の魂を見つけて欲しいと思ったら、私も誰かの魂を全力で信じていなければならないのです。幻覚は幻覚でも、彼はきっと魂を持った幻覚なのでしょう。そして彼にとってもまた、私はきっと魂を持った幻覚なのでしょう。
私の世界が存在する証拠は、私の一部ではあるけれども、私ではない彼が握っているのです。
いよいよ私の迎えが来る前日の夜、二人で最後の温泉に入りに、湖へ行きました。到着して、抱えられていたのを降ろされる直前、私は急に名残惜しくなって、彼の首に両手を回してすがりつきました。この頃には、悪魔の姿は、すでにかなり透けていました。白い頬を透かして暗闇を舞う桜の花びらが見えます。私はそこへ、自分の唇を押し付けました。そうして、私は自分が信じている、現時点ではこの世で唯一の魂に、自分が生きた刻印を刻んだのです。この刻印は、この世でただ二人、私と彼だけのものであって、他の誰かに見られる必要がありません。
私が手を緩めると、黒と緑の目がこちらを見つめています。私が目を閉じると、彼は顔を寄せました。
私は気づくと、一人で温泉のほとりに立っていました。私の唇には、消える直前に、悪魔が私に刻んだ刻印の余韻が残っていました。私はその場に崩れ落ちて、声を上げて泣きました。大事なものを失った悲しさで泣いているつもりでしたが、悪魔の刻印があまりにも気持ちよかったから泣いているのかもしれません。木々に反響した泣き声が祝福のように聞こえて、まるで自分は今ここで存在し始めたかのようでした。
涙でにじんだ視界を、今年の桜が舞っています。彼らの美しさは、他の人間たちの誰にも見分けられなかったかもしれません。しかし、それを私が心配してやる必要はないのです。おそらくすでに彼ら一枚一枚が、他の人間たちが知る由もない、かけがえの無い誰かと共有し、認めてもらえた自分の美しさを、自分で一番享受しているかもしれないからです。
一人で寝床に帰った私は、大の字に横になりました。いよいよ明日は世界が終わる日です。私はすでに満たされました。悔いはないはずです。それにも関わらず、私はいつの間にか、日の出と同時にできる限りの食料を持ってここを出て、どこかに身を隠せば、生贄をのがれられるのではないかと考えていました。私が消えてしまえば消えてしまう、自分に刻まれた刻印を、いかに自分が大事にしているのか、私は、きちんと行動で示さなければならないと思い初めていたからです。
その時、静かなはずのこの部屋に誰かのすすり泣きが聞こえました。泣き慣れていないのか、息苦しそうに頻繁に喘いでいます。声の主の右手が、私の左手に触れた瞬間、私は思わず呟きました。
「……クロセル……泣いてるの……」
泣き声は続いています。
「……やればできるんじゃない……」
彼は苦しそうに喘いだ後、歯を食いしばったような音を出しました。
「……おししょうさま……ありがとうごじゃいまふ……ありがとうごじゃいましゅ……」
私は、彼が泣き止むまで、手をしっかり握っていました。いつの間にか、寝床の横には、愛しい影がうずくまっている気配が戻っていました。
「私、『私の世界』がどんなものか、本当は自分でもちゃんと分かってなかったんだわ……それが何なのか確信がもてないうちに、そのうち正式に存在しなかったことになるってことが、寂しさの原因だったのよ……」
ようやく落ち着いた悪魔は、大きく息を吐いたあと返事をしてくれました。
「……あなたの世界はちゃんとあります。あなたの幻覚である、私が保証します」
「うん……手を離さないで……」
「離すわけないでしょう。今、私の手の中にあなたの手がある。これだけは何があっても、嘘だなんてありえません。それに比べればむしろ、この部屋の外いる、全存在の方が怪しいもんです」
「……クロセル……何十年後かに、いつか私の髪が白くなったら、あなたの青い羽と交換してくれる……」
しばらく沈黙した後、悪魔は恐る恐る確認しました。
「……それは、私の申し出のお返事と受け取ってよろしいですか」
「……いいよ……」
彼は、安心したようなため息をつきました。
「じゃあ、一緒に逃げていただけるんですね」
「うん……お願い……」
「よかった……そうと決まれば、今後のことを相談するために、今すぐベッドに上がってもいいですか」
「あなたはすぐ、そういうことを言い出すんだから……」
私は少しためらいましたが、勇気を出して続けました。
「……そういうのは、この島を出てからしてくれる。その時は、ツノはともかく羽はちゃんとしまってもらうけど……」
「それは基本的に無理です」
食い気味に返事が返ってきました。
私は思わず、その場で身を起こしました。
「なんでよ」
「私、興奮すると、羽の出し入れのコントロールができなくなるタチなんですよね」
「……じゃあ、これから一緒に寝るたびに、あなたがウロウロした後の廊下みたいに、寝床が抜けた羽だらけになるの……」
「それは諦めてください。ちなみに私は、長期間にわたって検証済みなので、その点はご心配なく」
「……何の話……」
私たちは手を繋いだまま、延々と言い合いを続けました。
次の日、悪魔は山道沿いの崖に呪いで土砂崩れを起こしました。
私たちは、崖の上からそれを見ました。
「これで、生贄の執行人をしばらく足止めできたと思います」
「……あの土砂崩れに巻き込まれた人、どうなったの……」
「……さあ……」
横目で見ると、悪魔の肩が震えています。
「……クロセル……また泣いてるの……」
「……よがった……ほんどうによがった……」
「……泣いてる場合じゃないわ……泣いてる暇があったら、逃げる準備をしなきゃ」
「わがってますよ……」




