1.秘密②
ようやく言葉を交わした二人。しかし、ジュリエットにはすでに恋する人がいた。
沈黙の何日間かが過ぎた頃です。女中が、私の両親が送ってくれた花を生けた花瓶を持ってきてくれました。おやつのチョコレートと一緒に。
チョコレート。ここへ運ばれてくるたびに、私に胸に死の影を落とす飲み物。昔は大好きだったのに。
――チョコレートは、病気によっては薬になるが、私の研究では君の病気には害だ。
飲んではいけないんじゃなかったの。前は、あんなに飲みたがったのに、飲ませてくれなかったじゃない。
我慢していたのに……一月前から急に、駄々をこねたわけでもないのに、運ばれてくるようになったのです。
――病気は、快方に向かっている。もう好きなだけ食べてもいいよ。
信じられるわけありません。毎日診察に来ても、先生はため息しかつかなかったのに。熱が出る回数は多くなる一方だし、身体のあざのような斑点も増える一方なのに。
チョコレートをくれるのは、もうどうやっても私は死ぬってわかったからでしょう。もう治療を諦めたから、最後に好きなものを食べさせてくれようとしているんでしょう。
花に添えられていた手紙から察すると、有名なお医者さんに診せるために、私をここへあずけてくれた両親は、このことを知らないようです。すでにたくさんお金を受け取ってしまったお医者さんも、この家の優しい親戚たちも、それぞれの事情で伝えかねているに違いありません。
やっぱり私は孤独に消えていくしかない。お母さん、お父さん。怖い。誰か助けて。だけどこの声が部屋から出て、外の誰かに届くことはない。どんなに叫んでも私の声は、厚い壁と、暗い林に遮られて消えるのです。
チョコレートをテーブルに置き去りにしたまま、私は枕に顔を埋めて泣きました。わめきはしない、すすり泣きでしたが、定期的な意識の途切れをはさんで何時間も泣きました。チョコレートを前にすると、気分次第で度々こうなってしまいます。こういう時に、熱が出てうなされれば何も考えなくてよくなるのに、そうはうまくいきません。
久々に顔をあげると、すっかり部屋が暗くなっていました。
「ジュリエット、花が綺麗だ」
窓台から男の子の声。私はすっかり彼のことを忘れていました。月と星の光が差し込み、暗闇に浮かんだ窓枠は、半分だけカーテンが閉まっていました。優しい光に照らされたミモザの黄色の花と、カーテンの影に潜む悪魔。この悪魔はそこで、私の枕にこもった泣き声を、何時間も永遠と聞かされていたわけです。
「花がなんだっていうのよ」
私は自然と返事を返していました。
「おまえは、死に対する恐怖に囚われすぎて、生きることを忘れている」
私は、起き上がって出窓の方を向きました。
「だって怖いんだもの。もうすぐ私は消えるのよ」
「たとえ、病気にならなくても人はいつか死ぬ」
「でも長生きすれば、素敵な経験がそれだけたくさんできるじゃない」
「必ずしも一年咲き続ける花が、たった一日しか咲かない花より、美しいというわけじゃない」
返事を考えましたが、頭が回らず思いつかなかったので、代わりに彼と一緒に小さい花を見つめました。
次の日、朝食を下げに来た女中が「明日、この部屋にエドワールさんがいらっしゃいます」と嬉しそうに告げました。エドワールというのは、この家の息子の一人で、現在遠くの大学に通っている人です。たまにしか、この家には戻りません。そして彼は、私の初恋の人です。落ち着かない気持ちになって、私は引き出しから銀の手鏡を出しました。久々に覗くと、ひどい顔です。頬はこけて、目の下には薄らとしたクマ。
私は、呑気に窓枠を越えようとしている、お人形のような顔をした悪魔に、悲しい視線を送りました。ここのところ四六時中この子と顔を突き合わせていたので、自分のやつれた顔のことをすっかり忘れていたのです。
「……あなたの綺麗な顔がうらやましい……」
悪魔は、驚いてこちらを見ました。
「ジュリエット、私は自分の顔を知らない」
彼は、窓を閉めると窓台にこちらを向いて腰掛けました。私に気軽に話かけられたことに動揺したのか顔を少し紅潮させていますが、落ちついた様子を装って私を斜めに見下ろしました。
「どういうこと」
「悪魔は、鏡や写真に映った自分の姿を見ることができないんだ。鏡を覗いても、誰も映らないし、写真を見ても自分だけが写っていないように見える。だから、私は時々、自分は召喚者と同じ顔をしてるんじゃないかと想像してみる。それは、私にとって幸せな空想なんだ」
彼は顔を赤らめたまま、だんだんと嬉しそうな調子になって話しましたが、私にはさっぱり分かりません。
「何それ、あなた、私のこと好きなの?」
自然な問いが、私の口をつきました。
「ああ、あらゆる意味でな」
彼は躊躇なく答えました。
もう一度意味を考えた後、我に返った私が「ええ?」と声を上げると、彼も「ええ?」とつられました。
「悪魔とはそういうものだ」
彼は、動揺を隠すように視線を逸らすと、こうつぶやきました。
これっきり次の日の朝になるまで、私たちは話をしませんでした。
次の日の朝、私は久しぶりにきちんとしたワンピースに着替え、髪を梳いてもらいました。そこへ戻って来た悪魔は、ちょっと驚いたようでした。そこで私はようやく彼に言うべきことを言いました。
「……今日はね、男の子が遊びにくるの……私の初恋の人なの……」
彼はしばらく真顔で硬直した後、笑顔で答えました。
「そうか、よかったな」
「あんた、私のことが好きだったんじゃないの? 私が他の男の子と仲良くなってもいいの?」
「ああ、私の役目はおまえを幸せにすることだ。そこに、私がいるかいないかは関係がない」
彼は、いつも通り窓台に腰を下ろすと、笑顔のままミモザに視線を落としました。
いとこのエドワールと私は、小さい頃からお互いの家を行き来していました。彼は私より三つ年上で、茶色の目をしていました。しかし、いつも両親や親戚と一緒に、この家に集まって食事をする時に顔を合わせるだけで、長い間、会話もしたことがありませんでした。私はこの家に遊びにくるのが億劫でした。男の子となんて、何をしゃべったらいいか分からないし、いつも一緒に集まるもう一人のいとこの女の子は、思いやりのあるいい子でしたが、私はなぜか苦手でした。
ある時、この家に来た私は、食事が終わってコーヒーの時間になると、いとこの女の子に遊びに誘われないように、そっと席を立ちソファに移動して本を読み始めました。そうしている内に、私の前に人が立ったので、てっきり女の子だと思い恐る恐る顔を上げると、エドワールでした。彼は、私から目を逸らしたまま、左下に小さなホクロのある口を動かしました。
「本なんかやめて、外を散歩しないか」
私は、骨張った男の子の手を取り外へ出ました。彼は、私を引っ張るようにして、小さい噴水の周りを黙ったまま歩きました。三周目に入った頃です。彼は急に立ち止まりました。
「僕たちは、将来結婚することになるんだ。僕たちの両親がそれを望んでいる」
生垣から薔薇の香りが漂っていました。スカートの裾に、茂った草が当たるので、私は少し持ち上げました。
彼は急に強く私の手を引いて、生垣の影に隠れると、私を抱きしめました。
「みんなが僕たちを祝福してくれる。僕たちは幸せになる」
彼の囁きが、耳のそばで聞こえました。私は怖くなって反射的に逃げようとしましたが、彼の腕の力が強くて逃げられませんでした。
「お願いだ、ジュリエット……君に受け入れられなければ僕は……」
私の抵抗にはお構いなしに、彼は私にしがみついて私の名前を呟き続けています。彼の体は、緊張のためか必死さのためか、少し震えて熱く感じました。思わず喘ぐと、薔薇の香りで、めまいがしました。いつの間にか抗うことを諦めていた私は、宙に浮くような、くすぐったいような気持ちになって、彼をそっと抱き返していました。
その後、私は両親から彼との結婚についての話を聞き、彼らの望みが、彼の言っている通りだと知りました。