4.世界③
悪魔による各種調査。
地獄へ休憩を取りに帰った彼は、同僚と温泉に入る。
和菓子屋での一件。
翌日、召喚者が洗濯へ出かけた後、クロセルは中庭へ行き、落ちていた農作業用の道具で赤い池をかき回したり、底を確認したりした。その後、黒い悪魔は光速移動で山頂へ行き、火口の調査をし、ついでに山のいくつかの場所で地面に触れ、手のひらから音波や電磁波を飛ばして地層の様子を探った。それから呪いを使って、目立たない場所に深い穴を掘り、実際に堆積物を収集して詳しく調べた。
「……やっぱりね……火山については、思った通りだわ……でもこれ、何だろ」
彼は一連の作業中、火口付近で、白い霧に隠されていた、木の立て札を見つけたのだった。触ると、丁寧にやすりをかけたようになめらかで、字が彫られている。
『これを抜いてはいけません。抜くと世界が終わります』
おそらく白檀でできていると思われる立て札の周辺には、霧のにおいに甘い香りが混じっていた。
「ま、抜くなって言ってるんだから、抜かない方がいいよな」
黒い悪魔は、少し名残惜しそうに優しく立て札を叩いた。
召喚中の悪魔達は、一日に一時間だけ五臓六腑(地獄)に帰ることが許されている。
規則に従い、休憩を取りに五臓六腑へ帰ったクロセルは、自宅近くの広場に行った。広場には地面に凹みを作って、そこにタイルを張って作った浴槽がある。彼はそこにポンプで水を汲み、持参した秘蔵の粉を浴槽に撒いた。この粉は、水を温泉に変える入浴剤である。浴槽から湯気が昇るのを確認してから、彼は鼈甲のカンザシで髪をまとめた。
彼が服を脱いで風呂に浸かっていると、後ろで声がした。
「おまえが自分で沸かした温泉に入ってるなんて、珍しいな」
振り返ると、銀髪で少年の姿の同僚が立っていた。
「あ、カイムさん、お疲れ様です。あなたも入ってもいいですけど、ちゃんと体に水をかけて身を清めてからにしてくださいよ」
「……おまえはやったんだろうな」
「やってないです」
小さい同僚が、これみよがしに大きなため息をつきつつ服を脱ぎ、タライにポンプで汲んだ冷水を一息に体にかけ、震えながら浴槽に足をつけるのを確認してから、黒髪の悪魔は声をかけた。
「……あなた、最近呼び出されたばかりですよね……フランスでしたっけ……どうですか、そちらの様子は……」
「今度の私の召喚者は、病気らしい……なんとかしてやりたいが……私は現在、ものすごく嫌われている」
「あんたの場合、いつものことじゃないですか……」
「話しかけても、返事もしてくれない」
「じゃ、私の勝ちだわ。とりあえず、返事はしてくれるもん」
「え、おまえ、いつの間に呼び出されてたんだ」
「昨晩です」
「それを先に言え……それで……うまくやってるのか、羨ましいな……」
「……ええ、さっそく隣で寝かせてもらいました……段差はありましたけど……まあ、問題はありますが……。
ところでカイムさん……末那が人間の世界に湧くことって、あると思いますか」
「末那って五臓六腑を赤い川のように流れてるとこしか見たことないけどな……人間の世界にはないと思っていたが……あれ、ずいぶん昔に、誰かも、おまえみたいなこと言ってた気がする……だめだ……興味がないから、忘れた……」
「それらしきものが……私の召喚者が住んでる廃墟の中庭に赤い池を作ってるんです。ちなみに……私の召喚場所は、日本の例の離島です……地下に末那の水脈があるわけでもなさそうで……昔から、蒸発することも地面から湧出することもなく、つまり全く循環することなく、そこに留まってるみたいです……」
「……へえ……」
「……末那って我々には無害ですけど……万が一、人間が触れたらどうなると思います……」
「さあな、気になるなら適当な人間を捕まえて投げ込んでみたらいいだろう」
「……ええ……やってみます……それから……その廃墟がある山の頂上付近にも、変な立て札があって、抜くなって書いてあるんです」
「ふーん、抜くなって書いてあるんなら、抜かない方がいいだろうな」
「……でも抜くなって言われると、抜きたくならないですか…」
小さい悪魔は目を閉じて、しばらく考えた。それから、急に悟ったように見開いた。
「……いや、ならない……」
「なら、いいです」
※
「ただいま帰りました」
朝ごはんを済ませた後、いつの間にかいなくなっていた悪魔は、夕方頃に、頭に手ぬぐいを乗せて帰宅しました。
「……おかえりなさい……なんで湯上がりなの」
「休憩しに、地獄へ帰った時に入ってきたんです。あー気持ちよかったー。やっぱり、生きてるといいことあるわー。長生きすればするほど、いいことあるわー」
「……でも嫌なこともある……」
「なかなか、手強いですな」
彼は頭から手ぬぐいを取りました。
「……あなた、私に生贄をやめさせたいの?」
「一般的に、悪魔は召喚者の幸せだけを願っています。そして一般的に、早死には幸せではありません」
「あなたが本当に私の幸せを願っているなら、私の決心を邪魔しないでちょうだい。それに私はまだ、あなたが幻覚だって疑ってるのよ」
「えー、まだそんなことを言ってるんですか……ではこうしましょう。現在、フランス……つまり、ここでも日本でもない、別の大きな島に召喚されている、私の知り合いの遠慮深い変態がいるんですけど、彼をここまで連れてきて、私の存在を証明してもらいましょう」
「……これ以上あなたみたいなのが、増えるたら困るわ……それにその人だって、私の幻覚かもしれないじゃない」
「……ごもっともです」
「……夕飯にしましょう」
私が、黒い鉄鍋の蓋を取ると、味噌煮込みの白い湯気が昇りました。
「……材料はどうしたんですか……」
「山の麓の神社でお務めしている人たちが、ここから少し離れた場所に、交代で置いてくれるの……もちろん、私がいない時にだけど……」
「本当にあなたは、ここへきてから他の人間と接してないんだ」
「そうよ……幻覚を見てもおかしくないでしょう……」
私はお椀の中の白い大根に目を落としました。
「たまには、甘いものも食べたいな……」
「……それはチャンスですね。私が明日、村へ行ってお菓子を買ってきます。それを食べれば、あなたも少しは私の存在を認めてくれる気になるんじゃないですか?」
「……どうかな……でもありがとう……楽しみにしてる……」
※
翌日、約束通り山を降りたクロセルは、村を偵察した。この村は海岸近くにある大通りを中心に、五百人あまりが暮らしている。この島の山は、日本の本国とは少し異なる生態系をしており、薬の材料になる変わったキノコや珍しい山菜が採れる。また、近海では本国で珍味とされているアオサケという魚が多く水揚げされる。これらの貿易のおかげで、この島の経済はかなり豊かである。貿易品やその加工品を扱っている大通り沿いは、商店街のようになっており、品質の高い嗜好品を扱う、華やかな店が多い。
黒い悪魔は、白い漆喰の壁に、海岸の鋭い日差しを照り返す黒い瓦屋根を乗せた、蔵のような建物が並ぶ大通りをうろつきながら、彼の容姿を驚いて見つめている人々に、片っ端から声をかけて、村の伝承について尋ねた。
それによると、以下の通りである。今から三百年前に、山の神の怒りによって、当時一千人近くいた村人のうち、九割以上が亡くなった。山の神とは、赤い池を囲む神殿に住む魔物のことで、ある時急に、自分の神殿で好みの人間を食したいと言い出した。逆らった村民は次々に殺され、ようやく一人の女性が、自ら神殿へ赴き、その身を捧げると、山の神は怒りをおさめた。
そして山の神の怒りというのは、今の解釈によると、火山の噴火のことである。最近、山の中にたまに湯気が見え、硫黄の匂いも村に漂ってきている。調べると山中に新しい温泉が沸き、湖を作っている。これは、あと数年で噴火する予兆である。だから、伝承の通り生贄を選んで、山の神である赤い池の魔物に捧げることで、噴火をおさめてもらうことになった。
「えー、あの火山ですかー。はるか昔の一万年以上前……ここに人間が住み着く前に、一度噴火したようですけど、私の見立てでは、あと一万年は何も起こらないですよ。地震かなんかのきっかけで最近、温泉が自噴しましたが、火山に大きな影響はないです……生贄の女性、完全に無駄死になりますよ……」
「おまえさんの言うことが本当なんて、どうやってわかるんだ」
「私、火山と温泉に関してはだけは、絶対的な自信があります。私から温泉をとったら、なんの特徴も残らない。温泉というのは、私にとって、それだけアイデンティティを感じているトピックなんです」
「安心しな、そんなもんがなくても、おまえさんは特徴だらけだ」
「突然、隔絶した島に現れた、羽が生えてる半笑いの男のことがそんなに信じられないんですか」
「信じられるわけないだろ……言ってて気づかないのか」
クロセルは、村人たちに火山の安全性について説得を試みたが、誰も納得する者はいなかった。
「いらっしゃいませ……」
彼がため息をつきつつ、菓子屋の格子戸を引くと中から声がした。
小さい店だが高級店らしく、大きな壺に花が飾られ、正面の商品台には朱塗のお盆を並べて、商品を少しずつ展示している。棚の上段は、紫陽花や菖蒲などの季節の花の形をした練り切りを始め、包んだ葉の香りがする桜餅、艶のある栗饅頭などの半生菓子が並んでおり、下の段には、淡い色の落雁、茶色のおこし、袋づめされた甘納豆などの渇き物が並んでいた。
「全部二つずつください」
店に自然に入ってきて、自然に注文する、見慣れない羽の生えた黒い男を口を開けて見守っていた店主は、ようやく声を出した。
「あんた一体、何だ」
「何だってお客ですけど。見りゃわかるでしょ」
「お前さん、どっかで見たことあるなあ」
「あなたとは絶対、前世に因縁なんか、無いと思いますけど」
「あーそうだ。うちにある人形にそっくりだ。なあ、紺」
祖父に呼ばれ、店の奥から暖簾をくぐって、顔を覗かせた女性は、目を丸くしてその場に固まってしまった。
「へー、そんなに似てるんですかー。まー我々って、自慢じゃ無いですけど、絵とか人形とか人間の理想を具現化したものに、似てるって言われがちですからねえ……じゃあ、これも何かの縁ってことで、お菓子のお代はタダってことで……」
「それはない」
「ちぇ、まあいいや……」
黒い悪魔は懐から鼈甲のカンザシを出して、女性の方に渡した。
「私、ここで使えそうな現金を持ってないんで、それでいいですか。知り合いからもらったお古ですけど」
店主は、呆然としたままの孫娘の手元を覗いた。
「ずいぶん高価なもんじゃないか……お釣りなんかないぞ……」
「なら、これからも度々来るんで、先払いってことにしてください」
※
「どうですか、お菓子の味は」
悪魔は、綺麗な所作で淹れたお茶を、私の前に置きました。
「うん……美味しい……ありがとう」
私は、菖蒲の練り切りを食べ終えた受け皿を置いて、そのお茶を取りました。
「信じていただけるかはともかく、この山はあと一万年くらいは噴火なんかしません」
「そう」
「あなたは無駄死になります」
「それ、村の人は信じてくれた?」
「いいえ」
「なら、私がいなくなったら、別の人を生贄に選ばなければならない。私のようにすんなり承諾する人なんて、あんまりいないから揉めて、ひょっとしたら抗争になるかもしれない。それを止められるだけでも、無駄死にはならないわ」
「そもそも悪魔の私としては、あなたさえ幸せになっていただければ、他の人間がどうなろうと知ったことではないんですが」
「でも私は人間だから、そうは思い切れません」
「悪魔にとって召喚者は特別な人間です。他の人間と価値が全く違います。もう、同じ人間という言葉を使いたくないくらいです。私は、あなた一人を幸せにするために、他の人間なんていくらでも犠牲にしますよ」
彼は、両手で丁寧に湯呑みを持ち上げると、目を閉じて味わいました。
喜んではいけない言葉であると同時に、私にとって、かなりの殺し文句でもありました。そしてこの言葉を、表情ひとつ変えずに「お菓子を買ってきます」と同じ調子で話す彼が、とても危険であると感じました。そして仮に、彼が私の幻覚であった場合、それはそれで自分の暗い部分を見せられたということです。




