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4.世界①(神の生贄となる女性と、彼女を逃がしたい悪魔の話)

 時は明治。外国との交流が再開され、激動する本国とは隔絶された、とある離島。


 そこでは、伝説に従い、一人の女性が「山の神」の生贄にささげられようとしていた。

 身寄りの無い、藍という名のその女性は、人との付き合いを断ち、山の中腹にあるあばら屋で暮らしている。ここで六百日間かけて、生贄として身を浄化するのである。

 季節は巡り桜の季節、今からちょうど一年後、彼女は「赤い池」に沈む。


 死への思いにふける彼女の前に、悪魔クロセルが現れる。


 この物語では、「1.秘密」の裏側も少しだけ語られます。どちらからお読みいただいても大丈夫ですが、お気に召していただけましたら、もう一遍にもお付き合いをどうかよろしくお願いいたします。


 今夜は月が明るかったので、私はこの山で唯一、枝垂れ桜の木がある湖の畔に行きました。私以外に人はいないので、満開の桜も水面に浮かぶその写しも、全部独り占めです。到着すると、すぐに木の幹に寄りかかりました。水面に立つ湯気を背景にして、ゆっくり花びらが舞うのをじっと見ていると、落下しているのは花びらではなく、自分なのではないかという錯覚にとらわれます。

 今年も、花の季節がやってきました。しかし「今年も」なのは人間にとってです。この花びらたち一枚一枚にとっては、最初で最後の開花と落下です。何年も生きる人間は、それに気づかず毎年同じように桜を愛で、去年の花と今年の花を区別しません。本当は私たちは、個別の花の生と死に立ち会っているのです。

 真上にちょうどいい枝があったので、それに登って腰掛けました。遠くに星空とその下の暗闇が見えます。その暗闇には、かつて私がいた村があるはずです。村の人たちは、私を思い出すことはあるのでしょうか。おそらく、山の神様の生贄として選ばれ、浄化のために山の神様の廃墟に一人暮らしをさせている女性がいることを、たまには思い出す人はいるでしょう。さらに、今日からちょうど一年後、私が赤い池に沈められるとき、おそらく全ての村人が、私のことを思い出すに違いありません。

 その後も、普段はすっかり忘れていても、毎年祭儀をした日になれば、私のことを思い出してくれるでしょう。最初のうちは、私の名前と顔、「あの子は甘いものが好きだった」などの多少の思い出とともに。それが年を経るごとに、顔の記憶は消えて名前だけが語られるようになり、最後には、私が知っている伝承の女性のように、ただこの日に、一人の女性が生贄になったとだけ語られるでしょう。つまり、みんなにとって一番重要なのは、生贄があったという出来事、その次がせいぜい出来事を負った人の名であって、それが他でもない私だったということは、歴史に刻むべきことではないのです。

 


――わしはすでに息子を亡くした。その上、孫娘まで生贄で亡くすなんて耐えられん……。


――そんなこと言ったら、私の娘だって、結婚が決まったばかりなんだ。


――誰か……いなくなっても泣く人がいない子が……立候補してくれないもんかな……。


 両親がおらず独り身の私が、自ら生贄になると言った日から、みんなは私に最大の敬意を払ってくれました。しかしそれは、村の人々のために生贄になるのは、一般的に尊いことだからです。彼らの貢ぎ物や最敬礼は、私個人に向けられたものではなく、顔のない生贄一般に向けられたものだったのです。

 私のことを本当に惜しいと思うなら、近所中でこれみよがしに、立候補をうながすことなどしないでしょう。


 でもまあ、誰からも愛してもらった記憶がなく、愛される予定もない私には、村中の人に薄くとも敬われる最期というのは、考えようによってはまずまずです。

 生贄に決まってから山に来るまでの七日間、みんなの安心した顔を見たり、私の丁寧な扱いに接したりしているうちに、生贄になるなど、大した不幸ではないのではないか、などと思い初めてしまったのも事実です。


 しかし山に入り、人との付き合いが絶たれ、一人で考える時間がうんざりするほどできると、嫌でも自分の死と向き合う羽目になりました。すると死と対照をなして、数百日後にこの世から消えるものがはっきりして、それを奪われる恐怖に叫びたくなることもありました。しかし、さらに時間が経つと、怖がるのにも疲れてしまい、長短あれど、人はどうせ死からは逃れられない。なら運命に抗わず、村の人々が定めた私の死期を受け入れる方が、潔い人生だと思い始めました。

 山の神様の生贄になるためには、六百日間の長期に渡る浄化が必要だというのも、その時間を使って犠牲者に自らの生と死を諦めさせるためなのでしょう。



 私が今、桜が舞うのを見て、風と葉擦れの音を聞いて、冷たい夜の空気を感じている、この私の世界。これは私の死とともに、完全に無に帰すことが運命づけられています。しかしこれはそもそも、存在していると言えるのでしょうか。「存在している」と叫んでみても無駄です。私以外、誰も私の世界を覗くことはできない以上、叫びを聞いてくれた人がいたとしても、私が名指した世界について、正しく理解してくれる人はいないでしょう。誰にも伝わらない私の叫びは、私の世界の内側で、無意味なこだまになるしかないのです。


 これは、これまでに世界中で生まれたすべての人が、抱える虚しさです。人は結局、桜と同じです。私の世界が存在した証拠一つ誰にも認めてもらえないまま、去年と来年の桜の間で消えるのです。

 私は急な諦めの気持ちに襲われ、目の前の桜に手を伸ばしました。

「えー……出てきてそうそう、誰もいないとかあんのー?」

 私の指先には、桜の枝が垂れています。あのひとつひとつの花も、間も無く散る。周囲にはすでに散った花びらが舞っています。しかしその内の一枚を目で追おうとしても、別の花びらが邪魔してすぐに見失ってしまいます。

 たとえ自分を見出されなくても、彼らの散り際はとても美しい。しかし自分を区別してもらえなければ、その美しさにどんな意味があるのでしょうか。

「うわー、すごい温泉……まさかすでにここに沈められてるんじゃないでしょうね……おーい、おーい聞こえますかー……って、水の中じゃ返事できないか…」

 さっきから、足元で人の声がすることにようやく気づいた私は、身を隠すために、枝下に垂れた自分の足を引き上げようとして、均衡を崩しました。

 落下して気づくと、誰かの腕の中にいました。

「あーいたいた、よかったー……えーと何でしたっけ?」

 私が動転して暴れると、彼はやっと降ろしてくれました。

「失礼……私がここにいる形而上学的原因は、あなたであって私ではない。私の名はクロセル。オルロフに属するソロモンの悪魔の一柱。あなたの疲れた心と身体を癒します」

 助けてくれた人がほとんど棒読みの早口で、何かを長々と言っているのを聞き流しながら、私は身を隠すのも、着物の裾を直すのも忘れて、相手を眺めました。私よりずっと綺麗な黒髪をした、美しい顔の……おそらく男性が、こっちを見ています。

 そして額から二本の赤黒いツノを生やし、背中には、艶のある真っ黒な大きな翼を広げています。彼は人間ですらないのでしょう。これは私にとって朗報です。浄化中の私は、他の人間と口を聞くことは禁止されていますが、人間でなければ会話しても差し支えないでしょう。しかし、言葉を失って見惚れた数秒が過ぎると、私は、彼がうっすら笑っているところと、緑色の左目にとんでもないいかがわしさを直感しました。

「ドウモアリガトウゴザイマシタ」

 私が一層の棒読みでお礼を言って踵を返すと、腕を掴まれました。

「いやー、お礼なんてそんな、構わないでくださいよー。当面の衣食住さえ面倒見てくれれば、ほんと他にはもう何も….…一緒の布団で寝たいだなんて、ほんともう絶対言わないです」

「一体あなた、なんですか……鬼?」

「確かに大昔にそう呼ばれていたのは、我々のことだったんでしょうけれど、時間が経つうちに大分脚色されて、今は違うものになってます。現在日本語圏の皆様がその言葉でイメージするものよりも、我々は本来ずっと上品で知的なものです。なので、我々は日本語で自分たちのことを呼ぶのに『悪魔』という新時代の呼称を定着させようと、現在必死にプロモーション中です」

「……とりあえず私を解放していただけますか」

「いや、無理です。あなたが私の今夜の寝床を保証してくれない限り、絶対離せないです。出てきてそうそう、こんな虫が多そうなところで、野宿はちょっと……」

 しばらく言い合いになった後、結局私が根負けして、私の住処に彼を招きました。


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