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1.秘密①(病に侵された少女と悪魔の恋の話)

病に侵され、部屋に引きこもったまま、一人ぼっちで暮らすジュリエット。

彼女はまもなく訪れる自らの死を悟っている。

ある日、泣きながら暮らす彼女のもとへ、悪魔カイムが現れ「おまえを幸せにする」と宣言する。

部屋に居着くようになった悪魔を、最初の内は気味悪がるジュリエットだが、次第に惹かれていく。


 ここは私の親戚のお屋敷にある、寝室の一つです。私はもう一年以上、この小さい他人の部屋に引きこもっています。私の世界にあるもの。少女が一人で使うには大きすぎるベッド(私はここで一日の大半を過ごします)、数少ない私の持ち物が入った引き出し、猫足のテーブルと椅子、出窓。この出窓からは林が見え、これが私の世界と、他の人が住む世界を分断する壁となっています。そしてドア。開くのはほとんど、専属の女中だけです。その他はお医者さん、時々友達、ごくたまに叔父叔母。一日のほとんどの時間、私は一人きりで本を読むか、こうやってどこにもいない誰かに向かって話しかけるくらいしか、することがないのです。

 私は病気です。そして、私はもうすぐ死ぬようです。死ぬってどんな感じなのでしょうか。天国に行けるのでしょうか。でも、どう考えても私は神様に見捨てられています。今この苦しみから救ってくれない神様が、死んだ途端に私に気づいて、親切にそこへ導いてくれるとはとても思えません。神様が私に気づかないのは、私の魂が、全く誰にも見えないからなのでしょう。私は間も無く、この小さい部屋で誰にも気にされることなくただ消えるのです。せめて、痛くないといいな。でも、痛みも苦しみもすぐに感じなくなるのでしょう。そう感じる私が消えるのですから。怖い。

 そして私が消えた後も、この部屋の外では相変わらず、みんな笑って、はしゃいで、恋をして、美味しそうにコーヒーを飲むのでしょう。遠い未来には神様のおかげで、病気になる人がいない幸せな世界が実現するのかもしれません。でも私が今感じているこの苦しみは、永遠に報われることはありません。

 私にはもう絶対に手の届かなくなったすべてに対する悔しさ、そしてもうすぐ私を包む得体の知れない何かに対する恐怖。二つの感情が溢れ出し、身体がはちきれそうになると、私は呼吸すらままならなくなってしまうのです。

 私は数日に一度発熱でうなされますが、今ではもう、熱が引いた時の方が恐ろしい。身体的な苦痛が鎮まり、意識が明瞭になると、それまで朦朧とした夢の中にうやむやにされていた死に対する感情が、私を蝕み始めるからです。

 

 その夜も私は、大泣きしました。しかし、いつもと違って歯止めが効きませんでした。たまたま体調が良くなっていたので、泣き続ける体力があったのがかえってよくなかったのでしょう。わめき声、ひゃっくり、鼻水、口の中のしょっぱさ、もう何がなんだかわかりません。最後は、ついに身体が限界に達し、鼻血で寝巻きが染まりました。

 この錯乱した数十分の後、気がつくと私はベッド上で大の字になって寝ていました。久しぶりの静けさ。静かなのは、部屋の中だけではありません。私の心の中もからっぽになっていたのです。手足がベッドに吸い付けられるような疲労。血と涙の味。もう全てがどうでもいい。私の内側でたけり狂っていた、悲しさと恐怖は、いつの間にかすっかりおとなしくなって外に抜け出し、天井付近に漂っていました。

 私は、そいつらがお互いを追いかけるように円を描いているのを、しばらく眺めていました。やがて二つは一つの塊になって、下へ降りてきました。

 そして私を見下ろすように、ベッドの横に来ると、しだいに人の形を取り始めたのです。

 彼は、知らない言葉で何かを長々と言いました。そして沈黙。私たちはしばらく見つめ合いました。男の子です。銀髪で左右違う色の瞳。異国風の細長い剣を鞘ごと地面に突き立て、その上に置かれた華奢な両手。私よりちょっと、年下のようです。少しだけ東洋の雰囲気のある顔だち。

「Qui êtes vous?(あなたは誰?)」

 ようやく私が呟くと、彼は、長いまつ毛の瞳を二、三度瞬かせた後、少しおぼつかない発音のフランス語で返してきました。

「私はソロモンの悪魔、カイムだ。おまえに呼ばれてここにきた」

 意味がわかると、私はすぐに女中を呼ぶベルを手探りしました。「おい、待て」という声が聞こえましたが、もう遅い。ベルが鳴らされたことを知ると、彼はあわてた様子で辺りをせわしなく見回しました。

 右側でドアノブが動く音。同時に、左側で何かが倒れる音と、窓が開く音。男の子は姿を消し、残ったのは横になった猫足の椅子と、窓から入る風。

 女中が私に駆け寄りました。

「まあ、ひどい出血……」

「男の子がきたの。悪魔なんですって」

「そんな夢を……窓を開けて寝たから、風の寒さでうなされたんでしょう……」

 彼女はすぐに、替えの服と顔を拭くためのお湯を絞ったタオルを取りに行き、私に渡してくれました。そして椅子を立ち上がらせて、窓を閉めながら、着替えを手伝うと言ってくれましたが、断ると、私の頭に手をのせ「どうか、安らかに……」と言い残してドアを閉めました。

 一人になって顔を拭いていると突然、再び窓がひとりでに勢いよく開きました。そして次の瞬間には、先ほどの男の子が頭をぶつけないように、くぐろうとしていました。

「おまえの気持ちはわかる。だが、落ち着いて聞いてほしい」

 彼は、再びベルに手を伸ばそうとする私を片手で牽制しながら中へ入ると、きちんと窓を閉めましたが、あわてたのでまた椅子に足をぶつけて倒しました。

「私は、悪魔なんて呼んだ覚えはないけど」

「いや、おまえに自覚はないかも知れないが、確かにおまえは私を呼んだんだ。ここに私がいるのがその証拠だ」

 悪魔は痛そうに自分の足を庇いながら、律儀に椅子も元に戻しました。

「帰ってよ」

 私は彼に構わず、着替えのために服を脱ぎ始めました。彼はそれに気づくと、こちらに背を向けて立ちました。神様に対して、不遜なことを考えてしまったから、悪魔なんてやってきてしまったのでしょうか。いつもは、私の願いなんて全く聞いてくれないのに、悪口だけ聞き耳を立てるなんて、神様はどうしてこんなに意地悪なのでしょう。

「申し訳ないが……その……私は、もうおまえの元から去ることができないんだ」

 消えるような声で呟いた悪魔の背中を横目で見ると、少し震えてるように見えます。よく見ると、銀色の髪から二本の青い角が突き出し、そしてすぐに引っ込みました。

「だから……その……私がそばにずっといることを許してもらえないだろうか……そのかわり、私は自分の持てる能力のすべてを使って、おまえを幸せにする。絶対だ」

 しどろもどろに話していた彼でしたが、最後の方は叫ぶ様に言い切りました。

 私はどうしようもなく疲れていたので、何を考えるのも嫌でした。

「無駄よ。私はもうすぐ死ぬんですもの。でも、あなたは好きにすればいいわ」



 こうして、死にゆく少女の部屋に、悪魔の同居人ができたのです。

 彼は、二人きりのときにだけ現れて、誰かが来ると二階にあるこの部屋の出窓から、飛び降りて消えてしまいます。(窓は閉めて出ていくようになりました。)そして、私しかいなくなると、現れるのです。彼は一日の大半を、ほとんど訪問客のないこの部屋で過ごします。彼の定位置は、初日に二回も蹴り倒した椅子か、出窓の窓台かのどちらかに決まっていました。

「いや、この家の人間に挨拶してもいいのだが、説明が厄介だからなあ」

 厄介というか、どう説明しても、受け入れてもらえるはずがないでしょう。

 私が悪魔の願いをあっさり承諾してしまったのは、世界に対してやけになった気持ちからです。しかし私はすぐに後悔しました。

 初めて見た時、私は彼のことを可愛い男の子だと思いました。だけど次の日になって、改めて見ると時々、少し怖いのです。黄色い左目がたまに鋭い光を反射させるのを見ると、背中に虫が這うような嫌悪を感じてしまうし、子供の姿をしながら、仕草や喋り方が時として大人の男性のようなのも、私を警戒させました。耳にたくさんついているピアスや、たまに頭から角を出したり引っ込めたりしてるのを見ると、何だかずっと見ていてはいけないような気になって、目をそらしてしまいます。一体あの長くて美しい剣は、何をするためにあるのでしょうか。私が気を許した瞬間に悪魔が本性を表して、取って食われるんじゃないか。なんにせよ、彼は私を死に導くためにやってきたことは確かでしょう。

 毎朝、朝食と診察が終わり、先生が出ていくと、彼は早速、窓から入り、例の椅子を私がいるベッドの枕元に持ってきて背筋を伸ばして座ります。そして余裕そうに足を組み、窓の外にしばらく目をやった後、多少上ずった声で、

「……おはよう……いい天気だな……」

 おそるおそるこう挨拶しますが、私は返事をしません。はっきり言って彼を見るのも嫌なので、すぐに背を向けて横になりました。その後も数分おきに、少ない言葉で話かけてきますが、彼が諦めるまで頑として寝たふりを続けました。

 ある日の「おはよう」の後、私は背を向けて横になるかわりに、枕元の引き出しから本を出して開きました。彼が視界に入らないよう、文字に集中。

「おまえ……本が好きなのか……私も……」

 私はため息をついて本を閉じました。本を枕の横に放り、背を向けて寝ようとすると、私のお気に入りのそれが床に落ちる音がしました。拾うために手を伸ばすと、同じように伸ばした悪魔の指先が、私の手に触れました。

「触らないで」

 私が手をはねつけると、彼は私が叩いたところにもう片方の手を当ててしばらく呆然としていましたが、やがて「申し訳ない」と呟き、立ち上がりました。そして出窓まで遠のき、窓台に片膝を立てて座り、こちらに顔を見せないように外の方を向きました。

 この日から何日間か、この部屋にいても、彼は一言も口を聞かず、椅子にも座らず、定位置の窓台に座りっぱなしになりました。



 

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