021)第4章2【少女1】
男達の罵声が飛び交っていた。
しばらくして、乱れた足音と人の息づかいまでがはっきりと聞こえてきた。
僕は幹からそっと顔を出した。
視界を横切る形で、貯水池の対岸を一人の少女が走って行った。
くしゃみをしたら飛んでいってしまいそうな布を身にまとい、体中泥だらけの痩せた少女だ。
僕は声を上げそうになった。
昨日、僕の膝を手当してくれた、あの少女だったからだ。
追われているのが、後ろを走る三人の男達を見れば、すぐに察することが出来た。
男達に比べたら、ネズミを見つけた猫のほうが、まだ慈悲深い表情をしていると思えるくらいだったからだ。
追っている男達は、口々に何か叫んで唾を跳ばしている。
走っていると言うよりは、足をドタドタと見苦しく動かしているという表現が正しい。
身に着けた装飾品だけが、辛うじて男達の品性を保っていたのだった。
身なりは見窄らしかったが、少女の走りは子鹿のように軽やかに見えた。
貯水池の周りを辿るように、僕達のほうへ近付いて来る。
逃げきれると安心したところで、少女が激しく転んだ。
僕達が隠れている大木の数歩向こうだった。
急いで起きあがろうとする少女の腕を、一人の男が捕らえて吊り上げた。
男は肩で激しく息をしながら、他の男達に得意顔を見せた。
獲物をしとめた猟師はみんな、きっとああいう顔をするのだろうと、僕は思った。
「助けなきゃ」
心が思うより早く、僕は呟いていた。
「駄目よ。じっとしていて」
遥花の声は尖っていた。
僕は動けなかった。
僕の後ろで同じ光景を見ているであろう遥花の手で、腕をしっかりと掴まれていた。
きっと遥花は、冷めた視線で前を見据えたまま、事の成り行きをただ見守ろうとしているのだろう。
「あの子、きっと、生け贄にされてしまいますよ」
踏み出そうとする僕の身体を、遥花が強い力でぐいっと押さえた。
「もしそうだったとしても、それはあの子の運命よ」
少女は腕を捕らえられ、吊り上げられたまま足を大きく振ってもがいていたが、すぐに、もう一人の男に足の自由も束縛された。
僕は奥歯を噛み締めた。
次の瞬間には、遥花の腕を振り払い、男達の前に躍り出た。
男達は僕の突然の出現に驚いて、顔を見合せ身構えていた。
その隙に、僕は地面に転がっている木の枝を急いで拾い上げた。
枝はキュウリほどの太さしかなく、枝分かれしている先のほうには葉が茂っている。
頼りなさそうな武器だと、頭の端で考えたかどうかも覚えがない。
手にしてすぐに、僕は男達に向かっていった。
とにかく必死だった。
今まで上げたことのない意味不明な叫び声を発して、闇雲に枝を振り回した。
僕よりも小柄な男達だったが、強かった。
僕の持っていた武器は一瞬の内に取り払われ、腹と背中を何度となく殴り付けられた。
みぞおちを殴られたのは生まれて初めてだった。
痛みと吐き気で全身を寒気が襲う。
体を半分に折り曲げて、僕は地面に崩れ落ちた。
痛みに神経が集中してしまい、他のことは何も考えられなくなってしまった。




