EX.あたしの彼氏は文学青年9
空が遠くなったと感じるほどに空気が冷たくなった冬の日のことだった。
あたしは友達に頼み込んで、友達と友達の彼氏と一緒に友達の家にいた。
「うーん……本当に大丈夫?」
「わかんない……でも、このままじゃダメだからさ」
ユートに「他の男とセックスしてきた」なんて報告はいらないよ、と言われてから数か月。あたしは男が触れないということを何とかしようと、友達に協力を依頼していた。
言葉であたしがビッチだって伝えられない以上、どうにかして元の体に戻るしかない。今のところユートとは人の多いところに出かけたことはないし、大学でもほとんどユートと一緒にいるから他の男と近づくことも話すこともない。
あたしが大学でずっとユートと一緒にいて、今まで学内で会話をしていた男子と全く会話をしなくなったことにユートは心配してたけど、あたしにとってはユートと一緒にいられればなんでもよかったから気にならなかった。
そもそもその人たちにもあたしに彼氏ができたこと、彼氏以外の男に触れられると体調が悪くなることを友達を通じて伝えていて、それから距離をとっているので、向こうもこっちの事情は分かっている。だから殊更に向こうからあたしに近づいてくることもなかった。やっぱり、根は真面目な人たちだ。
あたしの友達とユートは全然タイプが違うから、学内で話すことはほとんどない。それに加えて、あたしは友達にもあたしの事情をユートに話さないでっていうことをお願いしていたので、あたしのことがユートに伝わることはなかった。
元の体に戻ったからといって別に今更ユート以外の男とセックスとかありえないんだけど、それはそれだ。あたしが物理的にビッチじゃなくなってしまった、ということをユートに知られなければいいのだ。
今、あたしの目の前にはあたしが男に触る練習をするために、友達の彼氏が座っている。ちょっと髪を明るく染めていて、人懐っこそうな顔をしている、なんだか人畜無害って感じのふわっとした男子。ぱっと見冷たい雰囲気のユートとは全くタイプが違う感じで、あの飲み会であたしに触れてきた先輩とは似ても似つかない。
この人に触れなきゃ誰に触れるの? って感じの人なんだけど、あたしは手を伸ばせば十分触れられる距離に男がいる時点で、ちょっとだけだけど体調が悪くなっていた。
普段男とすれ違うだけなら、別に触れられる距離にいてもそんな体調悪くなることなんてないんだけど、やっぱり今から触れなきゃいけないってなると違うみたいで、あたしは普通の汗とは違うじっとりとした汗をかき始めていた。
「大丈夫ですか? やっぱりやめた方がいいんじゃ」
彼氏君に言われたけど、あたしは黙って首を振った。
こんなところでくじけているようではどうにもならない。
あたしはこの日、何が何でも男に触れてやるんだという気持ちで臨んでいた。
あたしはユートと一緒にいたいのだ。ユートといることがあたしにとって一番の幸せなのだ。それは何事にも代えがたいものなのだ。
「これ、克服しないと……ユートと一緒にいれないから……」
そう言ったあたしの声は、男を前にして弱弱しく震えていた。
「そんなこと……彼氏さんにきちんと相談した方がいいですよ」
この彼氏君は、いい人なんだろう。こんなめんどくさいあたしの頼みを、彼女の友達とはいえほとんど面識のないあたしの頼みを聞いてこんな場所に来てくれて、それでもやっぱりユートに相談した方がいいよって促してくる。
梓にだって散々言われたし、あたしだって何度も考えた。
でも、結局あたしが選んだのはこんなことで。
「ダメ……ユートには言えない」
「美咲、ずっとこんな感じだからさ。お願い、協力してあげて」
友達が両手を合わせて彼氏君に頼み込んでいる。それを見て、彼氏君が仕方ないなぁという様子で頷いた。
あたしは大学に来て、いい友達を持ったと思う。
高校の時、正直に言ってホントに友達だと胸を張って言える子なんて梓くらいしかいなかった。それ以外の子も仲は良かったと思うけど、どことなく、あたしのビッチギャルでスクールカースト的なものの上位にいたっていう「見た目」にすり寄ってきてたみたいに感じる部分もあって、本当の意味で友達とは言えなかった。
高校の時はあたしは肩肘張ってて、三年生の頃はそうでもなかったんだけど、それまでに築いてしまったものは良いものも悪いものもなかなか崩れてくれなくて、結局高校の時はそういう薄っぺらく感じてしまう繋がりしかほとんど持てなかった。
でも、大学だと最初から肩肘張ってなかったおかげで、あたしの見た目が派手だからそういう派手な友達も多いけど、高校の時みたいな見た目の属性的なもので友達になるようなこともなくて、あたしは本当に友達って呼べる人が増えたと思う。
そんなあたしになれたのも、やっぱりユートのおかげだと思ってて、いつだってあたしのことを見守ってくれてて、受け入れてくれるユートがいたから、あたしは大学で「あたし」を最初から出せたんだ。
だからこそ、あたしはユートと離れたくないし、離れられない。
何を考えたって、いつ考えたって結局結論はそれで、たぶん一生変わらないんだと思う。
無駄にセックスの経験だけ詰んで、ホントの意味での恋愛なんて欠片もしてこなかったあたしの、間違いなくホントの「初恋」で。
初めて感じて、初めて手に入れたこの気持ちを、あたしは絶対に手放したくなかった。
あたしはグッとお腹に力を籠める。
気合を入れて、彼氏君の顔を見上げる。
「じゃ、触るね――」
あたしはそう言って、彼氏君に触ろうと右手を伸ばした。
徐々に彼氏君に近づいていく右手。あたしはもう無心で、何も考えないようにして、右手を動かす。
それでも、やっぱり人間だから、どうしても嫌なことをしているときに何も考えることなんてできなくて、あたしは心の中で「大丈夫。絶対大丈夫」なんていつの間にか言い聞かせてて。
右手の指が彼氏君の腕に触れた瞬間――
「――っ! やっぱ無理!」
あたしは急激にやってきた気持ち悪さと嫌悪感に、咄嗟に体を離して口を押えた。
「美咲大丈夫!?」
慌てて友達がそばに来て背中をさすってくれる。すぐに離れたからか吐くほどではなかったけど、それでもやっぱり全身に気持ち悪さが回っていて、あたしは少し息が荒くなっていた。
そんなあたしを、友達は子供をあやすようによしよしとさすってくれて、友達の彼氏君はあたしの近くからわざわざ離れた位置にまで移動してくれた。
しばらくそうしているとあたしも落ち着いてきて、友達に「アリガト。もう大丈夫」と伝えて体を離してもらった。
「話は聞いてたけど、まさかここまでダメだとは思ってなかった」
友達はそう言ってあたしに水を差し出してくれた。
あたしはお礼を言って、差し出された水を飲む。
「あたしも、もうちょっと大丈夫になってると思ってたんだけどな……」
この数か月間、男と触れたのはユートだけで、ユートにはホントに何も嫌悪感がないどころか安心感ばっかり抱くから、もう、少しだけ男に触れても平気なんじゃないかと思ってたのに。
実際には、指先が少し触れただけでこの有様だ。
たぶん、自分の意志で触ろうとしたって言うのもあるんだと思う。街中ですれ違いざまに男にかすったってここまで酷いことにはならない。ていうかなってたらユートとデートどころじゃない。それでも人込みはなるべく避けて、夏だって海には行かずに海の見えるカフェで過ごしたし、秋の連休だってのんびりとした温泉旅館で二人でゆっくり過ごした。
そうやってユートと過ごす中で、少しはよくなったんじゃないかなって思ってたけど、全然そんなことなくて。
あたしは泣きそうになってしまった。
「今日はもう、やめよっか。やるにしてもまた今度にしよ?」
友達にそう言われた。
あたしもそうした方がいいかなとか、そもそもこんなところでこんなことしてないでユートに相談しろよとか、自分でも思ったけど。
どうしても諦めきれなくて、あたしはまた首を横に振って。
「どうしてもってときのためにお酒用意したじゃん? あれだけ試してから……」
そう言って、あたしは用意していたお酒を飲んで。
――結局全くダメで、あたしは泣きながら家に帰って行った。