精霊たちの消失
かつて、街の各所へ設置された絨毯を用いての飛行移動は、オルダー王国の王都リパにおいては、見慣れた光景であった。
心得のある者が、この上に乗り……。
王国に伝わる伝統ある楽曲をヴァイオリンで奏でたならば、精霊たちはたちまちこれに応え、集まり、音楽を楽しみ……。
返礼として、奏者の意思通りに絨毯を浮き上がらせ、運んでくれるのである。
まさに、音楽と精霊の国であることを象徴する光景――であった。
そう、かつての話だ。
今となっては、もう、優美な旋律を響かせながら空を行く奏者の姿というものは、見ることができない。
代わりに見られるのは、ここ一ヶ月あまりで人々からかえりみられなくなった結果、すっかり汚れが目立つようになった絨毯であり……。
思い切ってそれに乗り、ヴァイオリンを奏でるものの、それによって精霊が集まってくることはなく、落胆して絨毯から下りていく奏者の姿であった。
――精霊の消失。
一ヶ月前から王国を騒がせているこの現象が影響をもたらしているのは、何も移動手段だけではない。
何しろ、あらゆる物事へ精霊が深く関与しているのが、オルダーという国であり……。
全ての分野において、最悪といっていい変化が起こっていたのである。
代表的なところでは、経済だ。
農作物にせよ、他の産業にせよ、精霊の助力なくしては、従来の生産力を維持できぬのは明らかであり……。
結果として起こったのが――買い占めである。
食料品を始め、石鹸や油など、生活に必要不可欠な品の供給不足を察知した人々が、こぞってそれらを買い集めたのだ。
また、価格高騰に対する生理的反応として、売り手側が売り惜しみ始めてしまったことも、その流れに輪をかけた。
まさに――物を売るという状態ではない。
長蛇の列へ並んで、求めていた品を買えるならばまだマシな方で、大概の場合、それは空振りに終わり、虚しい疲労感のみが残るのである。
かかる事態に対し、民草の不満は爆発した。
――王は何をしている!
――どうして精霊がいなくなったのか、原因は突き止められているのか!?
――いまだ健在だという大精霊様は、どうして動かない!
――我らを飢え死にさせるつもりか!
もはや、革命前夜といってもよい不満の嵐に対し、王も動かぬ訳にはいかず……。
ひとまず、二柱の大精霊へと謁見を申し入れたのである。
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――交響。
聖楽堂の演奏場へ響き渡った音を表現するのに、これよりふさわしい言葉は存在しないであろう。
いくつもの楽器による音が、複雑に交わり合い……。
小刻みに曲調を上げていきながら、時に激しく、時にもの悲しくそれらをまとめ上げていくのは、作曲者の天才性を物語っている。
そうして紡ぎ出した音色に込められているのは、運命というものに対する想いだ。
形はなく、当然ながら、実在するかの証明など不可能なもの……。
だが、時に己を納得させるため、持ち出さずにはいられないもの……。
抗うべきか、身を任せるべきか……。
作曲者の懊悩が、音という形で表現されているのである。
『ふうむ……。
見事……まさに、見事よ。
やはり、いつ聞いてもこの曲は良い』
演奏場の上に漂いし、筋肉質の巨人……。
大精霊バヤンジンが、噛み締めるような表情と共にそうつぶやいた。
『いかにも……。
確か、この曲を生み出した頃、あの音楽家は耳の病に苦しんでいたか……。
残酷な運命に対する怒りと哀しみが、この一曲に込められている。
逆境すらも名曲を生み出す糧にするとは、誠、大したものよ』
同じく漂いし、巨大な美女……。
大精霊ミロノヴァもまた、うっとりとした表情でそれに同意する。
『そして、死してから長い年月が経った今もなお、我らをこうして楽しませてくれるわけだ。
いやはや、ありがたきことよ』
『と、いうわけで、我らは今、亡き天才のことを想いながら、あやつの残した楽曲に身を浸しているわけだが……。
それを邪魔するほどの用件というのは、何か?』
穏やかな表情で語り合っていた大精霊たちが、突如として二階の観客席を見やった。
果たして、そこに立っていた初老の人物……。
それは、このオルダー王国を統べる国王その人だったのである。
「だ、大精霊様たちのお邪魔をしてしまい、誠に申し訳ありません」
国の王たる男が、冷や汗を流しながらそう語ったのは、それだけ、二柱の大精霊を……。
とりわけ、今現在の大精霊を恐れているからであった。
『まったくだ……。
マディめが、あのような騒音を立てて、一ヶ月ほどになろうか……』
『その間、ここへ奏者たちを招いては口直しの演奏をさせ、ようやくにも機嫌が直ってきたところなのだぞ?』
二柱が言う通り……。
あの音楽祭以来、大精霊たちはこの聖楽堂へと引きこもり、王国の誇る奏者たちを招いては、その演奏に身を浸し続けている。
これはそれだけ、マディに対する二柱の怒りが深かったということであり、その機嫌を直してもらうために、王国としても総力を上げねばならなかったのだ。
「いや、はや……誠に申し訳ございませぬ。
ですが、可及的速やかに相談せねばならぬ事案がございまして……」
『精霊共が、海を渡って行ったことか?』
間髪を入れぬとは、まさしくこのこと。
王が用件を切り出す前に、バヤンジンがそう告げた。
「――っ!?
ま、まさに、その通りでございます。
ご存知でいらっしゃいましたか」
『我らの五感は、五感にあって五感にあらず。
こうして聖楽堂の中にあろうとも、外の動きはよう分かる』
ミロノヴァの表情は、ごくごく平坦なものだ。
それが、この一大事に対する大精霊たちの無関心さを感じさせる。
『ふん……。
――捨て置け』
その証拠に、バヤンジンは無情にもそう言い放ったのであった。
「す、捨て置けですか……?」
あまりといえば、あまりに意外な言葉……。
それを受けて、王が驚愕の表情と共に尋ねる。
大精霊たちの足元では、思いがけぬ事態に巻き込まれた奏者たちが、緊迫の色と共に固まっていた。
『いかにも……。
あやつらはな、マディめの騒音を気に入り、それを聞くべく海の彼方までついて行ったのだ』
「ま、マディのですか!?」
続くミロノヴァの言葉に、王はまたしても驚きの言葉を漏らす。
だが、言われてみれば、確かにマディの流刑と精霊の消失は、時期が重なっているのだ。
それに、王国においては信仰の対象ですらある大精霊の言葉を疑う余地など、あるはずもなかった。
『あんな、わめき散らすだけの演奏に惹かれるとは……。
もはや、我らが眷属としては扱えぬ』
『ゆえに、小さき精霊たちのことなど、捨て置け』
「そ、そうおっしゃられても……」
これには、小心者の国王といえど、異を唱えざるを得ない。
現に、精霊の助けを失った結果、国防から市場に至るまで、あらゆる分野で悪影響が生じているのだ。
『案ずるな。
小さき精霊がいなくなろうが、ここには我らがおるであろうが?』
まるで、肉食獣のごとき笑みを浮かべながら、バヤンジンが言い放つ。
『うむ……。
招いた奏者たちの演奏によって、すでに私たちは十分な力を得ている。
どれ、バヤンジンよ?
演奏の礼として、まずはこの機に乗じて攻め込もうとしてる隣国の軍を滅ぼそうか?』
「り、隣国にそのような動きが!?」
またも驚愕する国王をよそに、二柱の大精霊は口々に意見を交わしていく。
『おうともよ。
その後は、国内の魔物共を蹴散らし、民草が望むままに天候を変えてやろうか?』
『ほほほ。
久方ぶりに、大仕事となるな』
もはや、国王の意見など必要ない。
二柱は自分たちの予定を決定し、そして、それらは後日、ことごとくが実行されたのである。
だが、いかに強大な力を誇ろうとも、竜巻は風の代わりにならず、大雨は作物に恵みをもたらすばかりか、これを根腐れさせるだけであり……。
オルダーは、急激に衰退していくことになったのだ。




