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溢れ出す気持ち

こうして希さんと適度にイチャイチャしながら平穏に過ごし、雪が溶けて川になって流れて行った頃。


「あの僕、神尾かみお義将よしまさっていいます。あの、皆さんあの、よろしくお願いします……」


店で一番若かった私にもついに後輩ができた。


待望の後輩は、めちゃくちゃ強そうな名前なのにめちゃくちゃ気が弱そうな男の子だった。身長は私よりも少し低く、身体つきも下手したら私より華奢。顔立ちは私と違って可愛い系。なんという不公平。


この神尾義将氏は高校を卒業してすぐにこの店に来た。でも『女性の多い職場だから力仕事を任せられる人材を』ということで今回男性を採用することにしたはずなのに、なぜ上層部はこんな華奢な男性を選んだのか。


そう考えていたら自分の視線が勝手に店長に向いていた。


「うふふ皆さん、神尾くんをよろしくお願いするわ。じゃあ佐藤さんにお店のこと教えてもらってね」

「あのっ、よろしくお願いします……」

「やぁね、そんなに緊張しなくていいわよぉ」


いや、まさか店の進退に関わる重要な決め事に私情を交えることなどないだろう。きっと神尾氏には何か特殊な能力があるのだ。


そして、その能力らしきものをすぐに目の当たりにすることになった。


ある日、店の裏にあるビニールハウスで花束用の花を摘んでいると、


「えっ!? この肥料全部神尾くんが運んでくれたの!?」

「あ……はい。意外と軽かったので」

「いや重いって。これ普通リフト使うヤツだよ」

「え……? あ、そうなんですか……?」


こんな会話が聞こえて来た。

普通はフォークリフトを使ってビニールハウスまで運ぶはずの大量の肥料袋を人力で運んでしまったらしい。


そして更に、


「……ん? なんか店の中すっごい綺麗になってない?」

「神尾くんだよ。さっきチリ1つ残さない勢いで掃除してたわ」

「ヤバイね。有能過ぎる」


誰も手を付けなかっためんどくさい場所を自ら綺麗に掃除したり。


入社間もない彼は、こうして他の従業員たちをたびたび驚かせていた。


その後彼は名前の雰囲気と合わせて『武将』と呼ばれるようになり、そのうちどこかで食い違って『将軍』に昇格した。しかしみんなすぐに飽きて普通に『神尾くん』と呼ぶようになった。


そして神尾氏の入社から1ヶ月。彼の歓迎会がこのほど開催されることとなった。


歓迎会の出席者は本間さんを除く従業員全員、総勢31名。本間さんは残念ながら出張で欠席だった。仕事を離れた時の本間さんは本当に面白い人で、いつも飲み会の時の私は本間さんにデレデレベタベタしてしまう。もちろんおかしな意図はない。


そして私は今回も相変わらずおばちゃんたちから「那央ちゃ〜ん」とデレデレベタベタされている。私はそれを必死にかわしながら、ある目的地に向かって死に物狂いで畳を這っていた。


目標は店長の隣の席。あそこでは今、新人の神尾氏が泣きそうな顔で店長と会話を交わしている。そこに混ざるのが私の目的だ。


実は彼の入社以来、一度もまともに会話を交わしたことがない。このさき管理職を目指す身としてこれではいけないと思い、この歓迎会をきっかけに少し仲良くなろうと決意したのだ。


ようやく最後のおばちゃんの手が私の足首から離れた時には目的地手前までたどり着いていた。そして私の存在に気付いた店長が、向こう隣に座っている神尾氏に私を紹介し始めた。


「あぁ、この方は仕入れを担当してもらってる三浦那央さん。あなたと歳が一番近いわね。お兄さんみたいなお姉さんで申し訳ないんだけど」

「いやなんで店長が謝るんですか」

「うふふいいじゃない。お酒の席のたわ言よ。私もおじさんみたいなお姉さんだものねぇ」

「……え? なんか混乱するんですが」


やはり酔っ払いの発言というものは理解しがたい。店長の場合は『お姉さんみたいなおじさん』が正しいはずだ。


いや、もしかしたら自分の性別は自分で決めるものなのだろうか。だとすれば私は確かに『お兄さんみたいなお姉さん』だ。恋愛対象がどうこうは関係なく、これまで特に自分の性別に違和感を覚えたことはない。


そういえば以前どこかで読んだ。人の心の性別は白黒ハッキリさせられるものではなくグラデーションのように多様なもの。そして、……。


その先を読む前に脳が限界を迎えてしまい、後は自分の勝手な解釈で勝手に納得することにした。


男か女かは単なる後付け要素だ。そんなことは繁殖したい時にだけ気にすればいい。つまり私がこれについて深く考える必要はない。性別がどちらであろうと私は私なのだ。


「……あの、み、三浦さん?」

「えっ、はい。なんでしょう?」


店長の発言のせいでうっかり考え込んでしまい、隣にいる店長と神尾氏のことをすっかり忘れてしまっていた。神尾氏は怯えた子羊のような目で私を見つめている。


「三浦さんは……その。どうしてお花が好きなんですか?」


神尾氏の問いかけに店長が席を立ち、彼と場所を入れ替わった。これは新人と隣合わせでじっくり話せという店長からの試練だ。おかしな発言はできない。


「え、うーん。綺麗だから、かな? 特に理由はないです。ただ惹かれるっていうか」

「そうですか……」

「……え? 私なんか変なこと言いました……?」

「ちょっと三浦さん。神尾くん怯えちゃってるじゃない。ダメよいじめちゃ」

「いや、どこをどう見たらいじめてるように見えるんですか」


それにしてもこの空気は一体なんなのか。気弱な年下の男の子との正しい接し方がどうも分からない。もし私に弟でもいたら少しは違っていたのだろうか。


「……僕も」

「えっ! な、なにかな……?」

「僕も、三浦さんと同じです。お花が綺麗だから、この仕事をやりたくて」


子羊のような瞳から怯えが消えていた。言うことが率直過ぎて逆に情熱を感じる。店長は神尾氏のこの情熱を買ったのだろう。やっぱり店長は人を見る目がある。さすが私を雇った人だ。


「そうですね。綺麗なものには惹かれますよね。神尾さんの気持ちすごく分かります」

「やだ、三浦さんが真面目!」

「店長はとりあえずお静かにお願いします」


そしていつの間にか私の脳みそは希さんにシフトしていた。


私もそうだ。ただ惹かれるから希さんに近付きたかった。見た目に惹かれて頑張って仲良くなって、一緒に暮らして人柄を知って更に好きになって……。


考えているうちに急に希さんに会いたくなった。この歓迎会が終わったら希さんに会える。この微妙におかしな空気からも早く逃れたい。もうこれ以上神尾氏と仲良くなれなくてもいい。


「三浦さん、あなたちょっと飲み足りないんじゃない? なんかさっきからボーッとしてるわよ?」

「いや逆でしょ? 飲んでるからボーッとしてるんですってば」

「そんなことどうでもいいのよ。ほら、もっと飲みなさい」


そして私は店長の勢いに負けてビールを飲まされ過ぎることになった。これが噂のパワハラか。


気付けば私はタクシーに乗せられていた。そして次の瞬間には自分のマンションに到着していた。こんな状態で家に帰ったら希さんに怒られる。そう思った瞬間ちょっとだけ意識がハッキリした。


おぼつかない手つきでなんとか運転手に万札を差し出し、「お釣りは……結構です」と言い残してタクシーを降りた。そして降りる直前に見たメーターが980円になっていたことに時間差で気付いてしまい、心臓が飛び跳ねて更に意識がハッキリした。


タクシーは走り去った。今更どうにもできない。いや、間に合ったところで『やっぱお釣りください』なんてカッコ悪いことは言えない。これは希さんの言い付けを守らなかった天罰だ。


息も絶え絶えにエレベーターに乗り、やっとの思いで自分の部屋の前にたどり着いた。何と言い訳すればいいのか。とりあえずパワハラということにすれば責められないかも知れない。そうだ、これは実際にパワハラだ。カワイイ男の子の前で調子に乗った店長が悪いのだ。


私はドキドキしながら玄関のドアをゆっくり開いた。リビングのドアの向こうからテレビの音が漏れてくる。


そして私が立てた音に気付いた希さんがリビングのドアを開けた瞬間、私はすかさず用意していた言い訳を吐いた。


「……ちょっと飲み過ぎた。飲まされ過ぎた。今時こんなのパワハラだよ……」


安心できる場所に来たことで身体から力が抜けてしまい、玄関で膝を付いて壁にもたれ掛かった。すると希さんは「え、那央!?」と少しびっくりした顔で私に駆け寄ってきた。


私の身体を支える希さんからお風呂上がりのいい匂いが漂ってくる。その匂いに少しクラッと来た時、私の胸に希さんの腕が触れた。


「那央、大丈夫? 横になってて。水持ってくる」

「いや、横になると気持ち悪い……」


ただの事故だ。希さんは気にしていない。そんなことを気にしているのは私だけだ。


「吐いて来なよ。その方が楽になるから」

「……耐える」

「えっ、無理しない方がいいって」


やはりウコンのパワーが効いているのか、気持ち悪いけど吐くには至らない。もし事前に飲まなかったらと考えたら恐ろしくなった。


とりあえず希さんが私を責める気配はなく、禁酒令の恐怖が杞憂に終わってホッと胸を撫で下ろした。


希さんは息を荒げている私を支えながら部屋の中に誘導してくれた。息が苦しいのは酒のせいなのか、それとも希さんの身体が密着しているせいなのか。


服越しに希さんの体温と柔らかさが伝わってくる。私の視線は薄ピンク色の唇に釘付けになった。


この唇にキスしてしまいたい。そして思いっきり抱きしめたい。酔っ払いだから許してくれるかも知れない。でもいきなりビンタされるかも知れない。こんなことで嫌われるのはイヤだ。禁酒令も怖い。だけど……。


葛藤しているうちに私の部屋に着き、そのままベッドに寝かされた。衝動に負ける前に解放されたことに少しホッとしている自分がいる。


「水持ってくるね。待ってて」

「ん……ありがとう」


心臓がドキドキしている。もう少しで抱き付いてしまうところだった。


気持ちが溢れ出して止まらない。何故か泣きたくなった。この情緒不安定は酒のせいなのか。


希さんはすぐに水の入ったコップを持って戻ってきた。「ちょっと身体起こせる?」と、また私の背中に希さんの腕が回る。


希さんは私の気持ちを知らない。伝えていないのだからそれは当たり前だ。ここで急に抱き付いたりしたら驚かせてしまう。


希さんが渡してくれた冷たい水を飲み、軽く息をついてベッドに横になった。熱くなっていた顔が少し冷めた気がする。


「もう寝な。明日休みでしょ?」

「……うん。ごめんね」

「なんで謝るの」


すると、希さんの温かい手のひらが私の額を撫で始めた。優しい手つきに胸がじんわり熱くなってくる。


希さんはどんな気持ちでこんなことをしてくれているんだろう。なんでそんなに愛情に満ちた表情で私を見ているんだろう。


胸が締め付けられ、また気持ちが溢れ出した。やっぱり今日は不安定だ。


「ねぇ、希さん……」

「ん? どうしたの?」


もう伝えてしまおうか。

希さんが万が一私のことを好きなら、不毛だと思っていたこの想いが叶うかも知れない。


「今、好きな人っている?」

「え? 那央だよ」


違う。

私が聞きたいのはそんなふうに軽く言えてしまう気持ちじゃない。


「……ホント?」

「うん。那央が一番好きだな」


好きなのは知っていた。

だけど『一番』好きだと言われたのは初めてだ。


それが嘘じゃないなら、もしかしたら……。


「じゃあ……」


……と、そこで言葉を出すのを思いとどまった。『私と付き合って欲しい』と勢いで言ってしまいそうだった。


胸の鼓動は高鳴ったままだ。ドキドキし過ぎて心臓が壊れてしまう。


言えば壊してしまうかも知れない。

でも希さんに私の気持ちを知って欲しい。


どこまで伝えればいいのか。

どこからは伝えちゃいけないのか。

頭と胸が苦しい。

もう自分にも訳が分からない。


「私も、希さんのことが好き……」

「うん。嬉しいよ」

「でも……、希さんの好きとは違うかも」

「……ん?」


希さんの表情が変化したことに気付いた時、ハッとして背筋が凍り付いた。


私は今、告白したも同然のセリフを口走ってしまった。


いつもなら『……って言ったらどうする?』で逃れられた。でも今は言えない。そんな空気じゃない。


「いや、何でもない。この先もここに住んでくれる?」

「うん。もちろん」

「だったらそれでいいや。うん」


希さんは、その後もしばらく私の頭を撫でてくれていた。私の言葉に表情を変えたのはあの一瞬だけ。あとはまた優しい顔で私を見つめていた。


私はまたゆっくりと目を閉じ、そのまま眠りに入ったフリをした。額に触れる温かい感触が離れていった時、呟くような優しい声で「おやすみ」と聞こえた。


閉じた瞼の向こうが暗くなり、ドアの閉まる音を聞いた瞬間、嘘みたいに涙が溢れ出した。


やっぱり恋は苦しい。

安易な気持ちで踏み込むものじゃない。


それでも人は突然恋に落ちてしまう。私の足元に落とし穴を掘った神様をちょっとだけ恨みながら1人で泣き続けた。



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