プレ同棲
「あ、那央。おかえり。先にシャワー浴びたよ」
私はまた風呂上がりのうなじを見てドキドキしている。このドキドキを抑えるのは結構労力が要る。
それでも最近は見慣れてきたからか最初の頃よりもずいぶんと落ち着いた。
「寒かったでしょ。向こう雪すごかったんじゃない?」
「そうだね。こっち全然だから帰ってきてホッとしたよ」
「お疲れ様。無事で良かった」
「これ、お土産。珍しいビールがあったから」
「え、ビール? いいね。ありがとう」
「後で一緒に飲もう。私もシャワー浴びてくる」
私たちが同居を開始したのは希さんの家で飲んだ日から1ヶ月後。今はそれから更に3ヶ月近くが経つ。
とは言っても、まだ希さんは完全に引っ越してきた訳ではない。この先どうなるか分からないから試しに一定期間だけ一緒に暮らしてみようということになり、希さんの部屋は契約したままとりあえず生活に必要な家具だけを私のマンションに移した。
無駄といえば無駄だけど、こういうことは無駄を気にせず慎重に決めた方がいい。この辺のお互いの意見はほぼ一致した。
そういう重要な部分の価値観が似ているせいか、今のところ何のトラブルもなく平穏に生活できている。
「え、なんだろ。不思議な味」
「だね。でも美味しい」
「うん。ちょっとクセになる味だよね」
ただし、私の頭の中だけはやや危ない。何かよほどのきっかけがあれば急にスイッチが入るだろう。例えば、希さんが……。
いや。自らスイッチの存在を意識してはいけない。それこそ無駄だ。
明日は久しぶりにお互いの休みが合う。特に出掛ける予定は立てていないけど、一緒に過ごす何気ない日常が今は本当に幸せだ。
「ねぇ那央、明日どうする? どこか出掛ける?」
「どっちでもいいよ。希さんが行きたいとこあれば行くし」
「じゃあさ、昼はのんびりして、お夕飯焼き鳥食べに行かない? 久しぶりにあの店行きたいんだよね」
「あ、いいね。あそこなら飲んで帰れるしね」
「軽くだよ。飲み過ぎないでね」
「あ、はい」
実は希さんの部屋で飲んだあの夜、まさかの同居が決まったことで私のテンションがおかしくなり、調子に乗って少し飲み過ぎてしまった。
事前にこっそりウコンドリンクを飲んでいたから悪酔いはしなかったものの、会話が成り立たない程度にはタチの悪い酔っ払いとなり、せっかくのオシャレパーティーをお笑い劇場みたいにしてしまった。そんな悲しい経緯がある。
「ビールは2杯までね。店で面白い人になったら困るから」
「うん……。だから普段はあんなに飲まないんだって。あの時は舞い上がってたんだよ」
あれ以来、酒の話になると時々こうして希さんの目が光る。家で軽くビールを飲む程度なら何も言わないけど、外で飲み過ぎそうな空気を察すると軽く牽制してくる。こういう時の希さんは、まるで飲んべえの旦那をたしなめるしっかり者の嫁のようだ。
「まぁ楽しいと飲み過ぎるのも分かるけどね。身体も心配だからさ」
「希さん嫁だよね。しっかりした嫁」
「私みたいなうるさい嫁でいいの?」
「いいよ。私自堕落人間だから希さんみたいな人がそばにいないとダメだわ」
「そんなこと言うと一生ここに住むよ?」
「うん、そうして。ホントに」
「……那央がいいならそうするけどさ」
私は最近、こうやって希さんへの好意を上限スレスレまで伝えるようにしている。そうしないと気持ちが爆発してしまいそうだからだ。でも、恋心を悟らせないギリギリを狙うのはなかなか難しい。
仮に恋心を素直に伝えたらどうなるのだろう。そう考えたことは何度もある。だけど、どんなに相性が良くてお互いのことが好きでも(中略)だ。一緒に暮らしている今となっては自分が女好きだということも伝えづらい。
私は今の幸せな生活を捨てたくない。わずかな可能性に賭けて全てを捨ててしまうくらいなら、ささやかでも長く続く幸せに縋っていたい。だから本音を隠す方を選んだ。
「……あ、いい時間だね。そろそろ寝よっか」
「うん。そうだね」
「しばらく出張ないんだっけ?」
「ないよ」
「じゃあ家でゆっくり身体休めて。お夕飯作るからさ。おやすみ」
「ありがとう。ホント助かる。おやすみ」
翌朝、起きた時間は9時過ぎだった。目覚ましを掛けずに寝ると大体こんな時間に起きてしまう。そして、しっかりしてそうな希さんも実はそういう人だった。休日前にアラームを解除して好きなだけ寝たいタイプだ。
一緒に暮らしてみて分かったけど、私たちはこういう細かい所も結構似ている。生活のペースが似ているから一緒に住んでいても全然違和感がない。これなら将来結婚しても全く問題なさそうだ。
「……おはよ。今日は那央の方が早かったね」
「おはよう。目玉焼き食べる?」
「食べる。じゃあ座って待ってる……」
「え、また寝るの?」
2人で遅い朝食を取った後は、それぞれの用事を済ますために外へ出掛けた。希さんは仕事で使う資料を探すために本屋へ、私は明日の夕食に使う食材を調達するためにスーパーへ。
希さんは『料理は好きだけど得意じゃない』なんて謙遜していたけど実はすごく上手い。インスタントラーメンを行列のできるラーメン屋のラーメンに変えてしまう腕前だ。
それを知って以来、こうしてスーパーに買い物に出ると、希さんに作ってもらいたい料理を想像しながら食材を選ぶようになった。ちなみに今日買ったのは豆板醤とひき肉と茄子。これで明日の夜は自動的に絶品麻婆茄子が食卓に出てくるはずだ。
その後はそれぞれの部屋で本を読んだりテレビを観たりして過ごす。基本的に単独行動が好きな者同士だから、食事の時以外はあんまりお互いのことには干渉しない。
「那央、そろそろ行かない? お腹空いた?」
「空いてる。行こっか」
これから向かう焼き鳥屋は、マンション近くの商店街の中にあるかなり古びた店。徒歩で行ける距離だから、前回あそこに行った時も2人でのんびり歩きながら行った。
「寒っ! 那央ちょっと腕貸して!」
「そんなことしても寒いもんは寒いってば」
冬になって日が落ちるのが早くなり、17時半の今は既に真っ暗だ。商店街の店は閉まるのが早いから人も全然いない。
そんな時に私の見た目は便利だ。女2人でこんな場所をほっつき歩いていたら本来なら危険だけど、私が一見男に見えるからハタからはイチャついているカップルにしか見えない。
店の外に赤提灯が掛かった焼き鳥屋は今日もお客さんで賑わっていた。この炭火焼の匂いに釣られるのは人として正しい。狭い店が人でいっぱいになるのも当然だ。
それにしても、この建て付けの悪い引き戸が今日もなかなか閉まってくれない。希さんに「大丈夫?」と言われながら1人でガタガタやっていると、見兼ねた店主が「兄ちゃん腕力ねぇなぁ」と言いながら厨房から出てきて手を貸してくれた。
「……お? もしかして姉ちゃんか?」
「あはは。一応」
「はっは! わりぃな、1本サービスするわ!」
「え、やった。ありがとうございます」
やり取りを横で見ていた希さんがクスクス笑っている。つられて私も吹き出してしまった。私たちの近くにいたお客さんもこっちを見て笑っていた。
狭い店の中は煙でケムく、お客さんたちの話し声で騒々しい。壁は薄汚れていて決して綺麗とは言えない。焼き鳥皿は年季の入った小さいテーブルの上に無理やり並べられ、もはや運ばれて来たビールを置く隙間すらない。
「やっぱり美味しいよねここ。幸せ」
「穴場見付けたよ。希さんのおかげで」
こんな環境で食べる焼き鳥が最高に美味しい。ビールで酔いが回って顔がほんのり熱い。
「こんな近くに住んでてもったいないよね。まぁ1人じゃなかなか来ないか」
「うん。だから良かった」
「ん?」
「希さんがうちに来てくれて」
心地よい気だるさに包まれながら、目の前の愛しい人にわざと熱い視線を送る。すると向こうからもわざとらしい熱視線が返ってきた。
2人で同じ家から出て、同じ場所で食事して、また2人で同じ家に帰る。これだけのことがこんなに幸せだなんて思わなかった。
「結局飲み過ぎるんだもんね。今日はあんまり面白くならなかったけどさ」
「……いや、焼き鳥が美味しすぎて……」
帰り道の寒さなんか全然気にならない。雪が降っても槍が降っても、ずっとこうやって希さんの隣を歩いていたい。
「那央、ソファーで寝ちゃダメだって。風邪引くよ?」
困らせるようなワガママは言わないから、寝たフリをして甘えるくらいは許して欲しい。
「……まぁ、仕事大変だもんね。お疲れ様」
厚い布団がそっと上から掛けられ、額に温かな手のひらを感じた時、閉じた目の端から一粒の涙がこぼれ落ちた。私らしくもない。
そして翌朝。
結局あのまま本当に眠ってしまい、ソファーの上で目覚めたのは午前5時過ぎ。まだ真っ暗なリビングでぼんやりと天井を眺め、昨夜のささやかな幸せの時間を思い出す。
エアコンのタイマーをかけてくれていたのか、部屋の中がほんのり暖かい。希さんは何から何まで気が利く人だ。早く正式に嫁に迎えなければならない。
ちょうどその時、希さんが部屋から出てきてリビングに姿を見せた。いつもよりずいぶん早い。
「……あ、那央。起きてた? お風呂入んないと。昨日あのまま寝ちゃったでしょ?」
「あぁ、ごめん。そっか、今日仕事か……」
急に現実に戻されたような気分になり、せっかくの幸せな妄想が掻き消されてしまった。今日が休みならこのまま幸せに浸っていられたのに。
「無理やりベッドまで運ぼうかと思ったんだけどさ、なんか気持ち良さそうに寝てるからそのままほっといたんだよ」
「ごめんなさい、お手数おかけしました。っていうか、わざわざ私を起こすために早く起きてくれたの?」
「ん? いや、なんとなく早く目が覚めちゃって。せっかくだからお弁当作るね。何がいい?」
幸せな時間はまだ続いていた。少なくとも今日の昼休みまでは続いてくれる。嬉しくなって「キャラ弁」とリクエストしたら「無理」と一蹴された。早速困らせるようなワガママを言ってしまったと後悔した。
「……ねぇ那央」
「ん?」
「もうずっとここに住んでもいい?」
「え、逆にいいの? 迷惑ばっかり掛けてるのに」
「全然迷惑じゃないよ。那央と一緒にいたいの。ダメ?」
こんなことを言われてダメなんて言える訳がない。というかむしろそう言ってくれるのをずっと待っていた。
希さんは全然迷惑じゃないと言ってくれる。でも自分では希さんに甘え過ぎなんじゃないかと思っている。
「じゃあさ、これからもうちょっとしっかりするよ。希さんになるべく負担かけないように」
「……いいってこと?」
「うん。むしろそう言ってくれるの待ってた。改めてよろしくお願いします」
その後はお互いの両親に『防犯上都合が良い』とか適当なことを言ってなんとか丸め込み、やっと正式に同居生活を始められることになった。
とりあえず、何かあった時のために店長と本間さんにも同居人ができたと伝えた。2人とも特になにも突っ込んで来ないのが逆に気になる。
「あら三浦さん、今日もお弁当持参なのね?」
「そうなんです。時々同居人が作ってくれるんですよ」
「やだ羨ましい。私もそんな嫁が欲しいわ」
「……えっ!?」
結婚までの道のりはまだまだ長い。まずは自分のダメ人間っぷりをちょっとだけ改善するところからだ。そしていつか法律が許してくれた時には、胸を張って希さんにプロポーズできる人間になっていたい。