シーズン3
母からの気持ちをありがたく受け取り、日当たりのいい窓際に飾って早速水やりをした。今度オシャレ鉢を買って植え替えるつもりだ。
母に感謝のメールを送ったあと、今度は藤沢さんに自分の誕生日を自己申告することにした。
『今日じつは私の誕生日なんです。お祝いの言葉が欲しいです(^^)』
『おめでとうございます! 昨日教えてくれたらお祝いできたのに……。24歳ですよね。若くていいなぁ。今度改めてお祝いさせてくださいね』
藤沢さんからのお祝いの言葉に胸を弾ませながら、今日も幸せな気分で眠りに就いた。
そして、そんな日の翌日は店長からの視線がどうもニヤニヤしている気がする。もしかしたら幸せボケが表に出てしまっているのかも知れない。
そんなことはお構いなしに、その後も私たちはメールのやり取りで更に距離を縮めていった。メールだけじゃ足りなくて電話をするようにもなった。そのうちお互いを『希さん』『那央ちゃん』と呼ぶようになり、ぎこちなかった丁寧語も少しずつ使わなくなった。
そうやって仲良くなるにつれて会いたい気持ちが増してくる。でもそんな時に限ってお互いの休みはなかなか合わない。ようやく約束を取り付けられたのはパスタ屋デートから1ヶ月半後。次の行き先は水族館だ。
なかなか会えない分、想いが募っていく。そして想いを募らせているのは私の方だけだと時々我に返る。
『早く来週にならないかな。那央ちゃんに会いたくてさ』
「え、そうなの?」
『うん。実は昨日夢に見た』
「どんだけ私が好きなの」
『あはは。そうだよねぇ』
こんな会話で胸を熱くしているのも私の方だけだ。
こうやって感傷に浸り始めたということは、そろそろ私の恋愛感情もシーズン2に突入してしまったということだろう。
希さんが私を少し特別な存在だと思ってくれているのは充分に伝わる。でも私の気持ちとは全然違うということは分かる。分かってはいるけど、もう私の気持ちは止まってくれない。
「じゃあ、明日希さんの家に迎えに行くから」
『道大丈夫? コンビニでもいいよ?』
「1回行ったから大丈夫」
『分かった。じゃあ待ってるね』
そしてやっと、待ち望んでいたこの日を迎えた。今回は私が車を出す。もうカッコいいところを見せたいだなんてくだらないことは考えない。ありのままの私を見てもらって、今よりもっと私を好きになって欲しい。
「那央ちゃん、久しぶりだね。あんまり久しぶりな感じしないけど」
「結構連絡取ってるからね。なんか恋人同士みたい」
「あはは。そうかも。でも正直恋人より楽しいよ」
「そう?」
「うん、ホントに楽しい。この歳でこんなに仲良くなれる人と出会えるなんて思わなかったよ」
希さんにとって私の存在は一体何なのだろう。恋人より楽しいならもう恋人でいいじゃないかとツッコミたくなる。
助手席から私に向けている顔が少し赤く見えるのは気のせいだろうか。私の頭の中で補正が掛かっているだけだろうか。
「ねぇ、那央ちゃんは楽しい?」
「え、楽しいよ」
「そっか、良かった。私の一方的な気持ちなのかと思ってた」
「いや、楽しくなきゃ誘わないでしょ」
運転しながらこっちの顔が熱くなってきた。普段は自分の気持ちにバカ正直に動くクセに、いざというとき素直に自分の気持ちを伝えるのが実は苦手なのだ。
そんなむずがゆい会話を続けているうちに水族館に到着した。平日だから駐車場の車は少ない。
そして今日の天気は晴れ。水族館は屋外にも動物がいるから晴れてくれて助かった。私は雨女だと思っていたけどどうやら違ったらしい。
まぁ、考えてみたら当然だ。一般会社員の私に天気を操る能力はない。
「久しぶりに水族館来たなぁ。那央ちゃんは水族館好き?」
「うん。好きだよ」
私は水族館が普通に好きだ。多分みんなそうだと思う。今のところ水族館が嫌いという人には出会ったことがない。
だから希さんもきっと普通に好きだろうと思って今回のデート先に水族館を選んだ。
……ところが。
「チンアナゴってさ、実はすごい長いんだよ。出てる部分の5倍あるんだって」
「えっ! 全然かわいくない!」
「針が1000本だからハリセンボンだと思うでしょ? 実は400本くらいしかないらしいよ」
「えっ! 名前詐欺じゃん!」
「実家にいた時タツノオトシゴ飼ってたなぁ。やっぱり全然動かないんだよね」
「えっ! 家で飼えるの!?」
やけに魚類に詳しいから事情を聞いてみたら、『普通に好き』ではなくて『水族館の飼育員になりたかった』レベルで好きだったらしい。その夢を追わなかったのは他にやりたいことを見付けたから。それが今の仕事だそうだ。
希さんはこれまでにも仕事にまつわる色んな話を楽しそうに語ってくれた。だからまた前向きな話をしてくれるのかと思いきや、希さんはこれまでと違う暗い表情で水槽を眺めていた。
「だけどね……。今ちょっと後悔してるんだ」
「……ん? なんで? 楽しいって言ってたのに」
「実はさ。今の仕事、かなりハードなんだよね。体力的にも精神的にも。表向きの華やかさと裏事情のギャップもすごいし」
急に暗い話を始めた希さんに少し驚いてしまった。これまで弱音を吐かずに前向きなことばかり言っていたのに一体どうしたのだろう。
私は希さんのいるブライダル業界のことは全然知らない。だから希さんに掛ける言葉が何も思い浮かばない。
「……なんかリアルだなぁ。そんなもんなのか」
「どんな世界でもそんなもんだと思うんだけどね。でもやっぱり飼育員目指せば良かったかなって。その方が絶対楽しかった気がする」
会社で何かイヤなことがあったのだろうか。それとも、今まで私に気を使って本音を隠していたのだろうか。
希さんは綺麗な水槽を眺めながら「はぁ……」と静かにため息をついた。
「ごめん、こんな場所でこんな暗い話して。那央ちゃんはどう? 仕事楽しい?」
「うん。もちろんイヤなこともあるけどさ。でもあんまり深く考えないからイヤなことはすぐ忘れちゃう」
「結構楽観的?」
「だと思うよ。多分まだ希さんみたいに責任のある立場じゃないからだろうけど」
「……そっか。責任に押しつぶされそうになってたのかな。好きな仕事のはずなのに最近ちょっと辛くてさ」
何一つ気の利いたことを言えない自分が情けなかった。でも希さんだって、管理職でもない年下の私にアドバイスなんか求めていないはず。
こういう時に頼られる存在になりたい。
せめて『希さんの力になりたい』という気持ちだけは伝えたい。
「どうしたら辛くなくなる?」
「ん? ……どうなんだろう。辞めたい訳じゃないし」
「私にできることなら何でもやるよ。頼りにされたいから」
私の言葉で希さんの顔が少し明るくなった。照れたような穏やかな顔で「ありがとう」と言われた時、希さんの身体を引き寄せて頭を撫でたい衝動に駆られた。どうやら早くもシーズン3に突入してしまったようだ。
その後はイルカショーを見て感動し、ペンギンの餌やりを見てお腹が空いたとレストランで食事して、お土産屋でイルカのキーホルダーを買って……と、水族館の定番を一通り楽しんだ。
水族館を出たあとは特に行き先が決まらず、だったら行き先を決めずにドライブして飽きるまで話そうということになった。
さっき暗くなっていた希さんは今はすっかり普段通りに戻っている。もし私の言葉で元気になってくれたのなら嬉しい。伝えた通りいつでも希さんの支えになるつもりだ。
車内での会話はいつものように取り留めなく続く。夕焼けが見え始めた頃に「夕日を見に行きたい」と言い出した希さんの希望を叶えるため、今私の車は海に向かって走っている。
「那央ちゃんってさ、やっぱりちょっと不思議なんだよね」
「ん? 不思議って?」
「第一印象と全然イメージ違うからさ」
「あぁ、あのセミナーの時?」
「うん。絶対仲良くなれないタイプだと思った。キリッとしてて近寄りがたくて、ちょっとキツい感じの女性に見えたからね。自分とは住む世界が違う人だと思ったよ」
私はたしかに一見そういう風に見えるらしい。そしてあの時は管理職を装いながらストーカー対策をする必要があったから余計にそう見えたのだろう。
「でもさ、実際は見た目と全然違うもんね。こんな面白い人だと思わなかった」
「面白い方がいいでしょ?」
「うん。今の方が絶対いい」
今日は車の中で普通にラジオを流しているから希さんは笑っていない。同じ曲ばっかり聴いていたからそろそろ私が飽きてきたのだ。母が今度また違うCDを送ってくれると言っていた。今から密かに楽しみにしている。
「それとさ、那央ちゃんって女じゃないよね。雰囲気が」
隣から急にこんなことを言われ、しょうもない妄想が始まりそうになっていた私の頭は若干パニックになった。まさか私の邪な気持ちが希さんにバレてしまったのか。
「え……そう見える?」
「見えない。そう感じるだけ」
「そ、そっか。まぁたしかに……普通の女とは違うかもね」
「ん? どういうこと?」
もうここで自分の本性を白状してしまおうか。
でも車が動いたままこんな話をするのは危ない。希さんの反応によっては自分が取り乱してしまう可能性がある。
そう思っていたら都合よく目の前の信号が黄色に切り替わった。停止した車の中で希さんの目を真剣に見つめる。
「たぶん私、ホントに女じゃないと思う」
さすがに『好きです』なんて直球は投げられない。これでも自分的には精一杯の告白だ。
でも、私の決死の告白にも希さんの表情は全く変わらなかった。またいつもの冗談だと思われたのだろうか。その証拠に希さんの口元がちょっと笑い始めている。
「……って言ったらどうする?」
私は自分が思っていたよりも根性なしだった。自分の本性を知られることが急に怖くなったのだ。
このまま冗談で終わると思った。どうせ笑って流されると思ったのに、希さんの反応は私の予想とは少し違った。
「ん? 別にどうもしないよ。那央ちゃんは那央ちゃんだから」
ギリギリ日が沈む前に海に到着し、2人で防波堤に座って夕日を眺めた。近くに人はいない。遠くの防波堤に釣り人の姿が見えるのを気にしなければほとんど2人きりの世界だ。
海風は湿っぽくて磯臭い。しかも今の時期は風が冷たい。それでも人が海に惹かれるのは何故なんだろう。
「こんなふうに夕日眺める機会なんてなかなかないよね。時間忘れそう」
「そうだね。ねぇ希さん、夕日ってなんで赤いか知ってる?」
「知ってるよ」
「……そっか。うん」
「あ……ごめん、語りたかったんだね」
こうして冗談で笑い合っていると、希さんとの50㎝の距離がもどかしくなってくる。本当は『ちょっと寒いね』などと言って自然と寄り添いたい。だけど私にそんな勇気がある訳がない。
少しずつ海に太陽が隠れて行くのを見ていると、時間が過ぎていることをイヤでも感じてしまう。今日もそろそろお別れの時間が来た。寂しいけどワガママは言えない。
「日が落ちたら急に寒くなったね。那央ちゃん大丈夫?」
「ちょっと寒いかも。そろそろ帰ろっか?」
「……うん。明日仕事だもんね。もう少し一緒にいたい気もするけど」
自分からワガママは言えないけど、希さんにそう言われてしまったらこのまま帰るなんて選択肢はない。
……って、実はこう言ってくれるのを待ってたクセに。自分はつくづく意気地なしだ。
「私はいいよ。遅くなっても」
「ホント? じゃあご飯食べに行かない?」
「うん。そういやお腹空いた」
「じゃあさ、ご馳走するよ。誕生日のお祝いね」
「えっ! 覚えててくれたの?」
ーー
そしてこの日帰ったのは23時近くの遅い時間だった。会う度に帰る時間が遅くなっているのが地味に嬉しい。
今回のデートでは次の約束を特にしないまま別れた。でも、漠然と『今度はどっちかの家で飲みたいね』という感じの話は出た。
『家飲み=泊まり』という図式が頭に浮かんでくるのはまだ普通だ。
でも、『酒+泊まり=危険』が浮かんでくるのはどうしたものか。
そして私は考えるのをやめた。考えたところでなるようにしかならない。
次の休みは1週間後。特に予定はないから美容室に予約を入れることにした。そろそろ髪をバッサリ切ってしまおうと思い立ったのだ。
そのきっかけになったのは『那央ちゃんは那央ちゃんだから』という希さんのあの言葉。最初の動機とは違う。最初はただ『男っぽくして希さんの気を引きたい』という安直な動機だった。
でも今は、希さんに『私』を見てもらいたい。そして私をどう見てくれているのかを知りたい。希さんはきっと、本当の私を知っても私を見る目を変えない。あの言葉を聞いてそんな気がした。
明日からまた3日間の出張だ。今回のメインの訪問先は本間さんが新規で契約した野菜農家。来春から野菜の苗の仕入れに力を入れようとしているのだ。だから挨拶を兼ねて本間さんと一緒に訪ねることになっている。
約束の時間が遅くて助かった。これなら少しゆっくりしながら幸せボケに浸っていられる。
しかし翌朝、本間さんと駅で合流して新幹線に乗り込んでからも私はまだ幸せボケに浸ったままだった。
そして唐突に本間さんから振られた話題でそれは吹っ飛んだ。いや、ぶっ飛んだと言っても過言ではない。
「そういえば三浦さん、店長と何かあったの?」
「えっ? ……何かとおっしゃいますと?」
「いや、なんか最近店長の視線が……、三浦さんを見る目がおかしい気がするんだけど」
これはアレだ。
私が店長に恋人らしき存在をチラつかせてしまったせいだ。店で幸せボケを撒き散らしている私への生温い見守り視線。それに気付いてしまう本間さんはやっぱり只者ではない。
「あ……、あはは。気のせいじゃないですか?」
「ならいいけどさ。まぁあの店長に限ってそれはないだろうけど」
『それ』とは一体なんなのか。
どうやら変な方向に誤解されそうになっているようだ。これはどうにか弁解しなければ。
「本間さん、店長はオネエですよ? そして私は腐っても女です。本間さんが心配してるようなことは何もありませんよ」
「いや、別にそれならそれでもいいんだよ。ただ三浦さんが心配でさ。前にも大変な目に遭ってるでしょ?」
本間さんはあくまで恋愛は自由だと主張する。いや、だからそうじゃない。店長は根っからのオネエで私は女の皮を被ったオス犬なのだ。どんなに接近したとしても恋愛関係に発展することは絶対にない。
そして店長を悪く思われるのは私としても悲しい。これは身を呈してでもハッキリ伝えなければならない。
「あの……、実はですね」
私は本間さんに全ての事情を話した。もちろん希さんの素性は明かさずに。
すると本間さんは「あぁ、そういうことか」と納得し、少しホッとしたような顔をした。しかしその直後。
「だったら尚さら気を付けてね。そんなんじゃ仕事でミスするから」
やっぱり本間さんは仕事には厳しかった。
その後は野菜農家を訪ねて色々話したあと、売り物にならない規格外の野菜をどっさり持たされて帰ることになった。奥様の勢いがすごくて断り切れなかったのだ。
仕方がないので本間さんと2人で両手に袋を抱えてコンビニに入り、それぞれ自宅に宅急便を送った。そしてそれぞれ別の仕事へ向かうために駅で別れた。
そしてその5日後。
散髪を明日に控えた夜のこと。
出張先から送られてきた大量の野菜を使って野菜尽くしの野菜鍋を作っていると、希さんから『後で電話したい』とメールが来た。
3日前、出張先のホテルでの時間があまりにもヒマで、希さんに相手をしてもらおうとしてメールを送った。しかしその時は会社の人と飲んでいたらしく、わずか2ターンでやり取りが終わってしまった。それ以来待ちわびていた連絡だったから必要以上に胸が弾んでいる。
実は、自分の気持ちを悟られたくなくて私からの連絡はなるべく控えている。だからどちらかというと連絡に積極的なのは希さんの方だ。
作った鍋を急いで食べながら大汗をかき、ちょっとまだ鍋をするには時期が早かったと後悔しつつ、やっと食べ終えた直後に希さんにメールを返信した。
『この前どっちかの家で飲みたいって話出たよね。どうかな? 那央ちゃんは大丈夫?』
そして待ちわびていたこのお誘い。
これも同じく気持ちを悟られたくなくて私から言い出すのは控えていたのだ。
「いいよもちろん。でもどうする? 飲むとなると泊まりだよね?」
『そうだね。考えたんだけど、お互いが休みの日の前日はどう? 仕事が終わってから飲んで、そのまま泊まって翌日はゆっくり過ごすとかね。でも仕事終わりだとちょっと疲れてるかな』
「え、いや。私はいいけど」
『じゃあそうしよう。私の部屋でいい?』
「いいの?」
『もちろん。豪華なおつまみ用意しとくよ』
豪華なおつまみ。
言葉通りに受け取れなかった私は既に頭の中がどうにかなっている。
家飲みデートの決行日は2週間後に決まった。そして仕事が終わり次第希さんが私を迎えに来てくれることになった。至れり尽くせりだ。
幸せな気分でシャワーを浴びながら鏡で自分の姿を見た。明日はこの長い髪を切る。次回希さんと会った時の反応が楽しみだ。
私は邪念を振り払って眠りに就いた。そして邪念に忠実な夢を見た。