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ほうれん草

その2日後。


通販部門の手伝い中に用事で事務所に立ち寄った時、出張から帰ってきていた本間さんが店長の前で怒っていた。「ホウレンソウがちゃんとできてない!」と店長に詰め寄っている。


うちでほうれん草なんか育ててたかな? と思って、店長との話を終えてこっちに向かってきた本間さんにおそるおそる聞いてみた。


すると直前まで白熱していた本間さんは急に気の抜けた顔になり、若干呆れた様子でため息をついた。


「報告・連絡・相談の略。社会人の基本でしょう?」


口調がまだちょっと怖い。そういえば新人研修の時にそんなことを教えてもらった気がする。


「……あぁ、三浦さんが責任感じる必要ないからね。悪いのは万引き犯と私たち管理者だから。ごめん、ちゃんと対策取るよ」


本間さんはそう言って私に頭を下げた。

この時やっと本間さんがあの万引き事件のことで怒っているのだと理解した。


もう本間さんに向ける顔がない。

そして管理職の厳しさを目の当たりにして自信もなくなった。


もし私が管理職になったら、こういう問題が起きた時に真面目に対処しなければならないのか。決して真面目とは言えない自分には務まる気がしない。


そういえば藤沢さんも管理職だった。藤沢さんはこんな厳しい立場でへこたれずに頑張っているのか。


彼女のいない所で勝手に惚れ直した。やっぱり藤沢さんはすごい人だ。


そして本間さんが事務所を出て行ったところで店長が自分の席を立ち、元気のない様子で私に近付いてきた。いつもの覇気が全然ない。


「三浦さん、お見苦しいところを見せちゃったわね。ごめんなさい」

「いえ、仕入れを決めた私にも責任はあると思うので……」

「違うわ。本間ちゃんの言う通りよ。私が悪いの」


店長はしょんぼりした顔をして少し俯いた。

怖い顔をした人がたまにこういうギャップを見せると母性本能がくすぐられる。


「店長、大丈夫ですか? 本間さんだいぶ怒ってましたけど」

「あぁ、本間ちゃん怒るとホントに怖いからねぇ。でもあの人がいないとこの店は成り立たないもの。時々怖いけど彼女のことは尊敬してるわ」


しょんぼりした店長を心配しつつ、そのまま店長を事務所に残して通販部門の狭い作業所に戻った。


切り花が並べられた持ち場に付き、フラワーアレンジメントの作業と妄想の続きを再開する。


藤沢さんとの次回のデートは2週間後だ。そしてデート予定日の翌日は私の誕生日。特別なお祝いをしてもらおうとは思わないけどお祝いの言葉は欲しい。わざとらしくならないようにどう伝えようかとさっきから悩んでいる。


それから、藤沢さんからの食事のお誘い。メールで『何が食べたい?』と聞かれた返事はまだ保留している。こういう時はどう答えるのが適当なのかよく分からないのだ。


あんまり安い店を答えたら藤沢さんが納得しないだろうし、かと言って高級料亭なんか私にはふさわしくない。考え始めてもうすぐ30分が経つ。そろそろ私の脳は限界だ。


「那央ちゃんってホントにセンスいいよね。専門学校で習ってたんだっけ?」

「はい。一応色の基本とかも習いました」

「いいなぁ。私もこれから行こうかな? もう三十路近いけどさ」

「全然遅くないと思いますよ。私が通ってた時も年上の人結構いたし」

「あ、そうなの? へー、考えてみよ」


作業を手伝っている私に、先輩の富永とみながさんが色々話題を振ってくる。富永さんは話すのが好きな女性だ。せっかくだから店について意見を聞いてみることにした。


「あの富永さん、仕事と全然関係ない質問してもいいですか?」

「ん? いいよ?」

「いま知り合いから『今度お礼したい』って言われてて、何を食べたいかって聞かれてるんですよ。こういう時ってどんな店を答えるのがいいですか?」

「んー、那央ちゃんの好きな食べ物は何? 素直にそれを答えたらいいんじゃないかなぁ」

「野菜と肉と魚が好きなんですよ。調理法問わず。要は何でも好きなんですよね」

「意外とワイルドだねぇ。じゃあさ、パッと思いつく食材は何?」


そう言われてまず思いついたのは『ほうれん草』だった。さっき本間さんがほうれん草について熱く語っていたのを聞いたばかりだからだ。


「ほうれん草です」

「あはは、地味! じゃあほうれん草パスタとかは? パスタ屋だったら女の子らしくていいと思うよ」

「あ、なるほど。パスタいいですね。そうします。ありがとうございます」

「ちなみに、男の人?」

「いや女性です」

「なんだぁ。つまんないなぁ」


真相を説明したら全然つまんなくない話だ。むしろ面白いと思う。でも誰にも話すつもりはない。私が女好きだと店でバレたら色々大変なことになってしまう。


その日の仕事を終え、帰宅してから早速藤沢さんにメールを送った。


『ほうれん草関係のものが食べたいのでパスタ屋がいいです。藤沢さんはパスタ大丈夫ですか?』


すると約1時間後に返信が届いた。


『大好きです。じゃあ今度は私が三浦さんを迎えに行きますね!』


どうも藤沢さんは私の深層心理に誤解を与える文章が得意のようだ。『大好きです』なんて言われたら私のことかと心が勘違いしてしまう。


『私も大好きです。じゃあパスタ屋でよろしくお願いします!』


同じように誤解を与えてやろうと同じような文章を送った。すると思いも寄らない返信が来た。


『大好きなんて言われたらドキドキしちゃうじゃないですか(笑)良さそうなお店を調べておきますね。11時に三浦さんのマンションへ迎えに行きます』


ここでやり取りを終えては失礼だろう。せっかく藤沢さんがドキドキした事実を伝えてくれたのだから、私も同じように事実を伝えるのが礼儀だ。


『ドキドキされたらこっちもドキドキしますよ(°_°)』

『じゃあお互い様ですね(笑)』

『ドキドキといえば、最近私の部屋のクローゼットの奥に土器のようなものを発見したんです』

『またお母さんですか?』

『おそらく』


こうやって少しずつ話題はズレて行き、気づけばメールのやり取りは1時間続いていた。最終的な話題は『水族館の謎のお土産ランキング』。もう次のデートの行き先は決まったようなものだ。


私がこうしてふざけたメールを送るのは、親しくなりたい相手に私の謎の取っ付きにくさを払拭してもらうためだ。普段から接している店の従業員たちは私のふざけた性格を理解している。でも藤沢さんはたまにしか会えないから余計にそうする必要があるのだ。


最初は藤沢さんは冗談の通じない人だと思って無理をしていた。その必要がないと知った今は更に藤沢さんを好きになっている。無理をしなければならない関係は続かないと最初から気付いていた。だから今は嬉しい。


会えない2週間の間にも他愛ないメールのやり取りが何度かあった。私から送ることもあれば藤沢さんから送られてくることもあり、お互いが負担を感じることなくコミュニケーションを楽しめている。


真面目な仕事の話をしていたかと思えば急に藤沢さんがボケて話がとんでもない方向に飛んで行ったり、私の渾身のボケに気付いてもらえなくて1人で虚しい気分になりながら丁寧に解説したり。


そんなやり取りを続けながら私たちは少しずつ距離を縮めていった。そして直接会った時には前回よりも確実に心の距離は近付いていた。


「オシャレでいいお店ですねぇ。全部美味しそう。やっぱこれかな?」

「ほうれん草だっけ。なんでほうれん草? 好きなんですか?」

「普通に好きです。っていうか、上司がほうれん草を大事にしなさいって言うから、じゃあ大事な時に食べようかと思って」

「それってビジネス的な意味なんじゃ?」

「そうなんですよ。だから自分への戒めとして、っていう意味も含まれてます」


藤沢さんは「なんか哲学的ですね」と的外れな褒め方をしてくれた。でもとりあえず真面目に仕事に取り組む姿勢を感じ取ってもらえたようだ。


藤沢さんが注文した『海老のトマトクリームパスタ』と私が注文した『ほうれん草とベーコンの和風パスタ』が運ばれてきた。


いい匂いが漂ってくる。この時のためにと朝から何も食べていないから本気でお腹が空いた。でもはしたない所は見せられない。冷静に食べなければ。


「そういえば三浦さん、知ってますか? エビとほうれん草の関係」

「ん? どんなですか?」

「エビってほうれん草が好きなんですよ」

「えっ、そうなの?」

「むかし私の父が透明なエビを大量に飼ってたんですけど、ほうれん草を水槽に入れたらすごい群がってきて。あれ軽くトラウマなんですよね」

「え、じゃあ藤沢さんはほうれん草ぎらい?」

「いえ、エビもほうれん草も好きです。でも混ぜるとトラウマが蘇ってきてダメですね」


そこから藤沢さんはお父さんがいかに水槽好きかを詳細に語ってくれた。藤沢さんが小さい頃は控えめに3つの水槽を並べていたのに、社会に出て一人暮らしを始めた後は実家に帰る度に水槽が増えていったとのこと。今はまるで水族館みたいだと教えてくれた。


そう、水族館だ。今度は水族館に藤沢さんと2人で行かなければならない。


「そうだ、藤沢さんは水族館好きですか?」

「もちろん。父の影響で」

「行きましょう。私と」

「はい。ぜひ」

「今日これから? それとも次回にします?」

「また次回がいいです。今日はこのまま三浦さんと喋ってたいので」


その後は藤沢さんの希望通りひたすら雑談を続けた。少し時間が経った頃に落ち着いて話せる喫茶店に場所を変え、そこでもまた会話に花を咲かせた。


「藤沢さんって意外と面白いですよね。変なこと知ってるし」

「変なこと?」

「そう。埴輪と土偶の違いなんて普通すぐ答えられないですよ」

「このまえ急に疑問に思ってたまたま調べたんです。三浦さんはそういうことないですか?」


ここまで飽きずに会話を続けられる相手は滅多にいない。藤沢さんも同じことを言っていた。きっと私たちはすごく相性がいい。多分私の一方的な思い込みじゃなくてお互いがそう思っている。


私たちはそれからもまだ一緒にいた。あんまり長居すると店に申し訳ないからとまた場所を変え、最終的に家に帰ったのは22時過ぎ。楽しすぎてお互い時間を忘れてしまっていた。


そして幸せな気分で眠りに就いた翌日。

幸せボケでぼんやりしたまま出勤すると、店長が興奮気味に声をかけてきた。


「三浦さん、売れたわよ!」

「えっ! 何がですか?」

「あの多肉植物よ。昨日ご来店したお客様が2つとも購入してくださったの」

「すごい! 一体どんな方が?」

「お上品なマダムだったわ。サングラスにマスクだったからお顔は見えなかったけど」


あの多肉植物は一度万引きされた訳アリ商品だ。だから一応気休めとして新しい鉢に植え替え、『特売品』として価格も下げて再度売りに出していた。


それでも1つ9,800円と決して安くはない。それを2つとも一度に購入するということは結構な多肉植物マニアの人なのだろう。


とにかく、ちょっとした騒動はあったものの無事に売れて良かった。これで心の中の変なモヤモヤが少しだけ晴れた。


わりとスッキリした気分で仕事を終え、藤沢さんのことを考えながら家に着くと、今日は珍しく郵便受けに不在票が入っていた。


通販で何かを購入した覚えもなく、不思議に思いながら送り主の欄を見た瞬間、今日が自分の誕生日だったことをやっと思い出した。自分の誕生日を忘れるなんてどれだけ浮かれているのだろう。


荷物の送り主は母だ。母は毎年私に誕生日プレゼントを送ってくれる。配達員への電話を終えてワクワクしながら待つこと10分。届いた荷物を確認して愕然とした。


『那央へ。お誕生日おめでとう。大切に育ててね』


こんな内容のバースデーカードが添えられた母からのプレゼント。それは、あの訳アリの2つの多肉植物だった。


母には私があの店で働いていることを一度は伝えた。ただし私の母親だからうっかり忘れていた可能性が高い。


お盆や正月は夫婦で海外旅行に出かけるから実家に帰ることもあんまりないし、普段から連絡を取り合う機会もほとんどない。だから私の仕事について母はほとんど知らないのだ。


もっときちんと母に報告していたら、この多肉植物を私が仕入れた可能性を考えてくれていただろう。こんなところでホウレンソウの重要性を教えられるとは思ってもみなかった。



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