覚悟を決める
優衣はテーブルを挟んだ向かいで顔を伏せたまま黙っていた。
逃げ出したくなるくらい空気が重い。でも私は優衣が口を開くのを待った。このまま私のペースで一方的に伝えるより、優衣の気持ちの整理が付いてからの方が受け入れてもらい易いと思ったからだ。
「……で、どうしたの? また私を抱きに来た?」
そしてようやく、優衣の言葉が重い空気を変えた。でもまだやっぱり重いものは重い。
「いや。もうできない。ごめん」
「そう。だったら今度でもいいよ。なんなら今日泊まってく?」
優衣はどうしても私を手放したくないようだ。ここまで人に執着する優衣は見たことがない。
私も別れを告げるのは苦しい。だけどここでまた自分に甘えて流されてしまったら、希さんに胸を張って交際の申し込みなんか出来ない。最終目標のプロポーズにはまだ遠いけど、心意気はプロポーズと変わらないのだ。
「実は、彼女と付き合うことになったんだ。だからもうそういうことは続けられない」
覚悟を決めてこう伝えると、優衣は悲しみと諦めの混じったような複雑な表情を浮かべた。契約関係である以上、これを突き付けられたら優衣も認めるしかないだろう。
「そ、そっか……。うん、だったら仕方ないか」
「ごめん、一方的で」
私は優衣から視線を逸らし、そのまま立ち上がって優衣に背を向けた。これ以上ここに留まったら悲しくなる一方だ。
「待って、那央さん……」
「ん?」
「あのさ……、あの、これからも会える? 会うだけなら……」
「……いや、もう会えない。ごめん」
「待って……! イヤだよ、会えなくなるのはイヤ……!」
もう私も泣きそうだった。嫌いになった訳じゃない。愛はなくても情はあるのだ。
後ろから抱き付かれ、そして泣かれた。
私は必死に縋り付いて来る優衣の手を握り、涙を堪えて言葉を絞り出した。
「私が悪いんだ。私が最初から拒否してたら優衣をこんなに傷付けなくて済んだのに」
「……那央さんは悪くないよ。那央さんの気持ちに付け込んだのは私の方だから……自業自得だよ」
優衣は後ろから抱き付いたまま離れようとしない。こんなに私を想ってくれている人を突き放すのは本当に苦しい。
優衣の鼻をすする音だけが聞こえる。私は優衣の方から離れていくのをそのまま待った。
そして、数分後に優衣の腕がそっとほどかれた時、優衣の方を向き直ってその手をもう一度握り締めた。
「じゃあ、帰るね」
「イヤ」
「優衣……」
「イヤだけど……仕方ないよね」
まだ完全に諦めは付いていない顔だ。また胸が苦しくなる。
情に流されそうになるのを必死に抑え、溢れそうな涙を必死に堪え、温かい手をギュッと握って優衣の目をしっかりと見つめた。
「じゃあ、元気で」
それだけ言い残して優衣に背を向け、靴を履いて玄関を出た。優衣はそれ以上何も言って来なかった。
そして玄関のドアが閉まった瞬間、悲しみが込み上げて涙が溢れ出した。通路を歩いて来た人がびっくりして立ち止まったけどそんなことを気に掛ける余裕なんかない。今はとにかく別れが悲しいのだ。
私はそのまま泣きながら車を運転して帰った。そしてあんまり号泣したせいで家までの道を間違えてしまった。
「お帰り。遅くまでお疲れ様」
「……うん。帰り道間違った。ごめんもう寝る」
「大丈夫? なんか目が赤いけど……」
「いや、やっぱりツラいものはツラいよね……」
希さんはその言葉で全てを察してくれたらしく、何も言わずに私を抱き締めてくれた。これまでだったら頭を撫でてくれていたところだ。
「ツラい時は泣いて寝ればいいよ。那央だしね」
そして私は希さんの腕の中でもう一度号泣した。こんなに素直に甘えたのは初めてだ。希さんが背中を優しく叩いてくれても私の涙はしばらく止まらなかった。
そして翌日、私は伊達メガネをかけて杉本農園その他へ向かった。昨日泣き過ぎたせいで人相が変わるほど目が腫れてしまったのだ。
伊達メガネの私の顔を見た希さんは「メガネ似合うね」と褒めてくれた。ちょっと賢そうに見えるからたまにはメガネもいいかも知れない。
今日は店に出勤じゃなくて助かった。私の視力がいいことをみんな知っているから、突っ込まれた時に言い訳のしようがないのだ。
私が泣いたと店で知れたら『やだ、あのふざけた三浦さんが泣くなんて!』とかいって大騒ぎだろう。悩みのなさそうな能天気な性格はこういう時に仇になる。私にだって泣いて過ごす夜くらいあるのだ。
もう、優衣のことは考えないことにした。1人の人間が幸せにできる人数には限りがある。私の場合は1人だけだ。
「あらあらあら。那央ちゃん今日は眼鏡なのね。とっても似合ってるわぁ」
千恵子さんは相変わらず開口一番私を褒めてくれる。ミートショップの経営を始めてからここを訪れる機会が増えた。そして最近、息子さんがハオルチアマニア化したようで、他の農園ではなかなか手に入らない品種を多く扱うようになった。
「お、三浦っち。これ持って行けや。おめェに個人的にやる」
「えっ、いいんですか?」
なかなか農園にいないレアな息子さん、剛さんが私に珍しいハオルチアをプレゼントしてくれた。剛さんが自分で配合した新しい品種らしい。品種登録はまだということで、どんな名前がいいかと尋ねられた。
「うーん。私のセンスだと酷いことになりますよ?」
「例えばどんなだ?」
「えーと、とんがってて強そうだから『国士無双』とか」
「麻雀かよ。今度母ちゃんと3人で麻雀やるか?」
「あはは、それいいですね。ルール分かりませんけど」
「じゃあダメじゃねェか。その名前は却下だな」
そしてあっさり却下されてしまい、私命名の新品種の夢は一瞬にして崩れ去った。まぁそもそもそんなことをしにここに来た訳ではない。
杉本農園を出たあとは他の仕事をこなしてホテルに一泊した。その翌日は予定されていた仕事を終えたあと、とある目的のために一軒の生花店へ向かった。
とある目的とは、希さんに豪華な花束を作って贈ること。実はあれから『交際を申し込む時にどんな伝え方をするのがいいか』と色々考えた。
そして、花屋の自分に出来ることといえば自作の花束を贈ることだと答えを出し、だったらプロポーズみたいなパフォーマンスをしようと思い付いたのだ。
それを思い付いてから花束にどんな花を使おうかとあれこれ考え、清楚な希さんには清潔感のある青い花が似合うだろうと思って青い花を調べまくり、その結果『ブルーローズ』にたどり着いた。
その昔、ブルーローズの花言葉は『不可能』だった。青い薔薇を作るのは不可能とされていたからだ。しかし技術の進歩によって作り出すことに成功し、花言葉は『夢かなう』に変わった。無理だと思っていた想いが叶ったのだ。
そんな花言葉の変遷に自分たちの状況と通じるものを感じ、希さんに渡すならもうこれしかないだろうと思ってブルーローズを選んだ訳だ。
欲しい本数は30本。自分の店でそんな本数を消費したらさすがにツッコミが入るだろうし、通販だと希さんにバレてしまうリスクがある。だからこうして他の場所で直接調達するしかないのだ。ちなみに天然物は入手が難しいので今回は諦めることにした。
そして目的の店に到着し、電話で予約していた30本のブルーローズを適当にラッピングしてもらった。
実は今回、気合いを入れて新調したフォーマルスーツも持って来た。荷物が増えて邪魔だけど、愛する人のことを想えばそんなことはどうでもいい。
これから、このブルーローズを持って自分の店に寄り、白系の花と合わせて豪華な花束を作る。そしてこのスーツに着替えて希さんの待つ自宅へ帰る。これは絶対に失敗できない。
20時過ぎに店に到着したあと、事務所で仕事をしていた店長に気付かれないようにブルーローズを隠し、「プレゼント用の花束を作りたいので店の花を使わせてください」と言って店内で切り花を掻き集めた。そしてそのままコソコソと作業所へ向かった。
この時間の作業所は誰もいない。こっそり作業するにはうってつけだ。私は作業所の出入り口をチラチラと気にしながら花束の制作を進めた。
こんなところを店長に見られたら『あらっ! そんな豪華な花束誰にあげるの!?』とか突っ込まれるに違いない。まさか交際の申し込みのためだなんて言える訳がない。
そして、店長の襲来に怯えながらもどうにか花束を完成させた。自分でも大満足の出来だ。青と白を合わせるとやっぱり清楚な希さんのイメージとピッタリ合う。淡いゴールド系の豪華なラッピングも高級感があってすごくいい。ついでだから剛さんから貰った『国士無双(仮)』にもキレイなラッピングを施すことにした。
無事に全ての作業を終えて合計金額を計算してみたところ、若干心臓に悪い数字が電卓に表示された。でもまぁそれはそれだ。こういう時に出費なんか気にすべきではない。
こっそりスーツの着替えも終えたところで、とりあえず花束と荷物を作業所に置いたままにして、事務所にいる店長にお疲れ様の挨拶をしに向かった。挨拶したら荷物を持って即退散だ。見付かったらタダでは済まない。
「店長、終わったので帰ります。お疲れ様でした」
「あら、もう帰るのね。……ん? どうしたのその格好? やけに気合い入ってるわね?」
「いや、あはは。いつも着てるスーツが破けちゃって」
「あらやだ、どんなアクロバティックな出張だったのよ。バイヤーは大変ねぇ」
「そうなんです。道中で熊と遭遇しまして……」
こんなしょうもない雑談をしている場合ではない。私はさっさと家に帰って希さんにプロポーズじみた交際の申し込みをしなければならないのだ。
「次からは大きな鈴を首から下げて行くのよ。なんなら私の私物を譲ってもいいけど」
「いえ、私も持ってるんで。じゃあ帰りますね。お疲れ様でした」
「あ、待って三浦さん。昨日本間ちゃんがね……」
こんな日に限って店長がしつこい。こうなったら腕時計チラチラ大作戦だ。こんなことなら最初から『実家で法事』と無難な嘘をつけば良かった。
「えっ、やだごめんなさい! 急いでたのね。んもぅ、早く言ってちょうだいよ」
「いえ、こっちこそすみません。お先に失礼します!」
こうしてやっと店長から解放され、大きな花束と出張の荷物を抱えて店を後にした。
荷物だらけで挫けそうになりながらバスに乗り、ジロジロ見られながらバスを降りて挫けそうになりながら夜道を歩き、やっとの思いでエレベーターに乗って無事に自宅にたどり着いた。
さっきからずっと心臓がドキドキしている。早く希さんの驚く顔が見たい。でも花束が大きくて前が見えづらい。リビングのドアも開けづらい。
花束を抱えたまま右手をドアノブに伸ばし、やっと届いた指先でドアノブをゆっくりと下げた。
「ただいまー」
「おかえり。……え! どうしたの、それ」
するとソファーに座ってテレビを観ていた希さんが驚きの声を上げ、すぐに立ち上がって私に近付いてきた。
やっぱり顔が驚いている。この顔が見たくて必死に頑張ったのだ。
「希さんをイメージして作ってみた。多分今までに私が作った中で一番豪華だよ」
驚いた顔が笑顔に変わっていく。
愛しい人の喜ぶ顔は何度見ても胸が熱くなる。
「わぁ……絶対高いこれ! すごいね!」
「社割利くから。……って、言わせないでよ。格好付かないじゃん」
そして私は一旦呼吸を整え、希さんの前にサッと跪いた。ちょっと不思議そうな顔をした希さんに両手で花束を差し出す。
「希さん」
その目を下から見据え、気持ちを奮い立たせるためにわざと口角を上げた。
ずっと口に出せずにいた言葉を、今ここで胸を張って希さんに伝える。今はまだ胸を張れるほどの人間じゃなくても、これを伝えることで弱い自分とおさらばしたい。
「私と付き合ってください」
すると希さんは、私の愛を躊躇わずに受け取ってくれた。
「はい、喜んで」
正直勝算はあった。それでも嬉しいものは嬉しい。
希さんは満面の笑みに少し涙を浮かべ、花束をソファーに置いて私に飛び付いて来た。こんなにストレートな愛情表現を見せてくれたのはこれが初めてだ。
私も希さんの身体を強く抱き締め、その唇に優しく口付けた。強く抱き合ったままの時間がゆっくり過ぎていく。
「……まだ信じられない。こんな日が来るなんて」
「私もだよ。ありがとう、那央。これからもよろしくね」
「こちらこそ」
長い長い片想いがやっと報われた。でも本番はこれからだ。将来の目標は本物のプロポーズ。もしその頃おばあちゃんになっていてもこれだけは絶対に果たしたい。
そしてあれから月日は流れ……。
「はい希さん、お弁当」
「ありがとう。最近料理上手くなったよね。那央の卵焼きすごく美味しいもん」
「そりゃね。頼ってばっかじゃダメだし」
私はこうして細々と頑張っている。
付き合い始めてからも、時々ラブラブになる時以外は前までとほとんどお互いの接し方は変わっていない。むしろ付き合う前の関係が普通よりもラブラブ過ぎたのだ。
そんな幸せな日々を過ごしていたある日のこと。
私のスマホに高校時代の知人から連絡があり、優衣が婚約したと知らされた。
突然の話に驚いてしまった。あれからまだ半年も経っていない。しかも優衣の方が旦那にベタ惚れらしい。それを聞いてかなりのショックを受けた。切り替えの早い人は案外そんなもんなのだ。
しかし、ショックとはいえ優衣が元気でやっているのは嬉しいし、結婚を祝いたい気持ちもある。でもここでまた接点を持つのは違う気がする。優衣も同じように思っているのか直接連絡しては来ない。
仕方がないから心の中でだけお祝いのメッセージを唱え、自腹でフラワーアレンジメントを作って店のディスプレイとして飾ることにした。本気で作ったから店の人たちからも結構好評だ。
「那央、明日また焼き鳥屋行こうよ。久しぶりに食べたい」
「うん。次はちゃんとドア閉められるかな……」
「無理なら私が閉めるよ。那央って意外と腕力ないからなぁ」
「……だから筋トレ頑張ってんじゃん」
「ふふ、そうだよね。でもなんで急に筋トレなんて始めたの?」
「希さんをお姫様抱っこするためだよ」
「やめて。那央が折れる」
残すは私たちの結婚だ。法律と両親以外に壁はない。私たちならきっとこの壁は乗り越えられる。
そしてその日の夜は母の夢を見た。夢の中の母は、私のために夜なべして毛糸のタキシードを編んでくれた。なんか色々違うけどそれでこそ私の母親だ。
『グラデーション・ストライプス』
おわり




