ずっと欲しかったもの
長い間ずっと欲しかったもの。
それを今、思い掛けず手に入れた。
そっと触れ合うだけのキスで嘘みたいに身体が熱くなった。優しくて繊細な口づけから私への愛情が伝わって来る。
この繊細な唇を傷付けてしまわないように、腹の底から湧き上がる欲望をグッと抑え込んだ。
希さんが私に伝えたかったこと。それはこの行動で分かる。でも、突然のことをまだ手放しには喜べない。
惜しい気持ちを抑えてそっと唇を離し、希さんの目を見つめた。
「……こういうこと?」
「うん」
「どうして? そんな急に」
「那央が離れて行くのがイヤだから」
きっと希さんは、今日一緒に飲んだ相手に私のことを話したのだろう。そして多分『そんなの相手にとっちゃ拷問だ』とか責められた。じゃなきゃ急にこんなことはしないはずだ。
「別に離れる気なんてないよ」
「でも……」
「だから言ってんじゃん。私は希さんと一緒にいられるだけでいいんだって」
最近やっと本心からそう思えるようになったところだ。それに、私と一緒にいたいからって無理をしてまでこんなことはして欲しくない。
それでも希さんは、私の言葉を否定するように微かに首を横に振った。
「嘘だよ、そんなの」
「え?」
「シャワー浴びてくる。あとで来て」
これはつまり、やっぱりそういうことなのだろうか。もう希さんの本心が分からなくなった。
でも、希さんは人にも自分にも嘘をつかない誠実な人だ。長く一緒に暮らしている私にはよく分かっている。そんな人が安易な気持ちでこんなことを言うだろうか。
複雑な気持ちを抱えたままリビングで希さんを待った。テレビを観ていても何も頭に入って来ない。
希さんに迷いは見えなかった。多分本気で私とそういうことになるつもりなのだろう。もちろん、嬉しくないと言えば嘘になる。現に私の心臓はさっきから素直にドキドキしたままだ。
あのキスの余韻はまだ消えていない。本気で好きな相手と触れ合うことがこんなに幸せなことだったなんて初めて知った。
あの感覚は多分、この先もずっと忘れない。希さんもそう思ってくれていることを心の中で密かに願った。
「那央、お風呂いいよ。ごめんね、先に入らせてもらって」
「いや、長風呂待たすと申し訳ないし」
いつもはダラダラと長風呂している私も、今日はさすがに秒単位で時間を気にして即完了だろう。もう髪を乾かす余裕すらないに違いない。
「那央も麦茶飲む?」
「あとで。シャワー浴びてから飲むよ」
希さんは氷の入ったグラスをテーブルに置き、冷蔵庫から持って来た麦茶をグラスに注いだ。そして、そのまま私の隣に座って無言のままテレビに視線を向けた。
でもきっと、私と同じで内容なんか頭に入っていない。気持ちを探り合うような変な空気が部屋に漂っている。
「ねぇ、希さん」
「ん?」
「あのさ……、もしかして無理してない?」
「……あれでも伝わらなかった?」
「えっ! いや……だってあんまり急だからさ」
「言葉じゃ信じてもらえないと思って。いつも好きだって言ってるから」
「……何かあったの?」
「今さら気付いたの。自分の気持ちに」
ふざけている様子も、嘘をついている様子もない。見つめ合う空気がいつもと違う。
「那央、一応確認させて」
「なに?」
「私のことどう思ってる?」
「……そりゃ、好きだよ」
「私の勘違いじゃないんだよね?」
「……うん」
すると、希さんは隣から私の身体にそっと抱き付いて来た。シャンプーのいい匂いにまたクラッと来る。
「さっきはごめんね。那央の気持ちも確認しないで。ちょっと落ち着き失くしてた」
「……いや、嬉しかったよ」
「だったらいいけど。私もこういうことは不器用だからさ」
そしてまた、希さんの唇が私の唇に優しく触れた。
「嫌じゃなかったら後で来て。那央と過ごしたい」
心臓が騒ぎ出す。
長い間抱えていた一方的な想いがやっと報われたのだ。
浴室に入ってから、一度自分を落ち着けるために大きく深呼吸した。これからたぶん希さんとそういうことをする。それなら雑に入浴を済ませずに無駄毛の処理とかスキンケアを念入りにやらなければならない。
鏡を見ながら女磨きに勤しんでいると、一度落ち着けた心が少しずつ焦った状態に戻って来た。そして浴室を出てパジャマを着た頃にはもう完全にダメな人になっていた。
髪も乾かさずにバスタオルを肩に掛け、焦りを悟られないように普通の動きで希さんの部屋へ向かった。
部屋の前に立ち、もう一度深呼吸する。控え目にノックしたドアの向こうから返事が聞こえてくる。
ドキドキを抑えてドアノブを下げ、滅多に入ることのない希さんの部屋を覗き込んだ。
やっぱり家具にこだわりのない私の部屋と違って統一感のあるオシャレな部屋だ。しかもちょっといい匂いがする。
すると、ベッドの上で何かを読んでいた希さんが横にしていた身体を起こし、ドアの前で立ったままの私に近付いて来た。
「髪乾かしてないじゃん」
希さんは私の目の前に立ち、ちょっと呆れ気味ないつもの笑顔を見せた。
髪を乾かす心の余裕がなかったのだ。きっとそれくらいのことは希さんも察してくれている。適当に「いつも自然乾燥だから」とごまかすと、希さんは私が肩に掛けたバスタオルを手に取り、濡れた髪を優しく拭いてくれた。
「傷むよ、ほら。せっかくきれいな髪なのに」
今、至近距離に希さんの身体がある。斜め下にある唇が私をまた誘惑している。
堪らなくなって目の前の身体に腕を回した。薄い布越しに触れる胸の柔らかさと体温が私の心臓の動きを更に速めた。
「……ごめん、嘘だよ」
「……ん? 何が?」
「一緒にいられるだけでいいなんて……」
思わずその身体を強く抱きしめ、少し強引に唇を重ねた。私の髪を撫でていたバスタオルが足元に落ちたのを感じた。
さっきと同じように身体中に熱が広がる。もう抑えが利かない。
深いキスが一旦離れた時、希さんの唇が私の耳元で熱い吐息を漏らした。お互いに息が上がっている。
「ねぇ、那央……」
「ん……?」
「……もう、好きなようにしていいから……」
囁くような切ない声を耳元で聞いた瞬間、私の理性は完全に消し飛んだ。
希さんの身体をベッドに優しく寝かせ、上からもう一度唇を重ねた。触れ合う全てが柔らかくて愛おしい。頭から足先まで身体中が痺れて、ベッドの上で夢中でキスを交わした。私の身体にしがみ付く腕が背中を撫で回している。
「ん……。希さん、好き……」
「うん。ごめん……、ごめんね那央……」
ずっとこうしてくれるのを望んでいた。
こうやってなりふり構わず私だけを求めて欲しかった。
感極まって涙が溢れてくる。
——
少しの間、汗ばんだ肌を上から重ねたまま動けずにいた。希さんに体重を預け、呼吸が整うのを待つ。
「……那央、優しいよね」
「え? ……そう?」
「ちゃんと気遣ってくれてるの分かったよ。本当に愛されてるんだなーって……」
「だって愛してるもん」
触れられなくてもここまでの満足感を得られるのは、やっぱり相手に対する愛のせいなのだろう。そう思って満足していたら、今度は希さんが私の身体に触れ始めた。もうエンドレスだ。
希さんの愛撫は愛情に溢れた優しい愛撫だった。我慢しても自分じゃないような声が勝手に漏れ出してしまう。そして、優衣には絶対に触れさせなかった場所も許した。
「那央、そんな可愛い声出すんだね」
「ん……。恥ずかしいから言うのやめて……」
でもお互い、さっきみたいに激しく求め合うような熱量はない。やっぱりこういう行為にも適正というものはあるらしい。でもこうやってお互いの愛情を確認し合うような緩い行為も嫌いじゃない。
お互いの熱がようやく冷めた頃、私たちは何も言わずにベッドの上で寄り添い、ただお互いの体温だけを感じ合っていた。さっきまで気にならなかったエアコンの音が結構響く。
まだ夢を見ているような気分だ。まさか本当に希さんとこんな関係になれるとは思わなかった。
「ねぇ、希さん」
「ん?」
「好きになってくれたって解釈していいの?」
ここまで来れば確かめる必要のないことでも、儚い夢に終わってしまうのが怖くて無駄に念を押してしまう。
「……じゃなきゃこんなことできないでしょ。多分最初から好きだったんだと思う」
「でもさ……そんな素ぶり全然見せなかったよね?」
「好きの意味を知りたくなかったんだよ。那央が女だから」
確かに、私みたいな少数派でもなければ、何事もなく普通に過ごしていて同性に本気で恋することなんて稀だろう。
仮に本気で恋したとしても、その想いを自分で認められない気持ちも分かる。誰だって自分自身を無難な存在に留めておきたいものだ。真面目な希さんなら特にそうだろう。
「まぁ、それは納得」
それでもこうやって勇気を出してくれた希さんに最大限に応えたい。
希さんの頭をそっと引き寄せ、その髪を撫でながら優しくキスをした。もう好きな気持ちが溢れ出して止まらない。
「見ないフリしてたんだよ。本当はずっとこうして欲しかったくせにね。人に嘘付きたくないから自分に嘘付いてた。じゃなきゃ那央と暮らしてることも誰にも話せなくなるから」
「要するに、見栄?」
「……のようなものかな」
そして、希さんはまた「今までごめん」と謝り、甘えるような仕草で私の胸に顔を埋めてきた。そんなに謝られると逆に申し訳なくなってしまう。
でも、こんな希さんが愛しくて仕方がない。これ以上の幸せなんて世の中に存在するのだろうか。
もしあるとしても、私が現世で人生を終える程度の年月では絶対に体験できないだろう。そう思えるほど本気で幸せだ。
「お互いさ、もう嘘つくのやめよう。だって好きなんだもん。好きなものはしょうがないじゃん」
そしてまた、希さんの柔らかい身体に腕を回す。何度こうしてもその度に愛しさが胸に溢れてくる。こうなったらもう『付き合ってください』と伝えるのが筋だろう。順番が違うのはこの際無視だ。
でもその前に、私にはまだ重要な課題が残っている。交際を申し込むのはその課題をクリアした後だ。
「あのさ……、私も希さんに謝らなきゃいけないことがある」
「謝るようなことじゃないよ。私が悪いんだから」
薄々分かってはいたけど、やっぱり希さんは気付いていたようだ。
「……気付いてた?」
「っていうより、逆の立場なら私もそうするかなって」
希さんは以前、一度だけ嫉妬みたいな言動を見せたことがある。それ以降は全くそういう素振りを見せなかったから、希さんにとっては大したことではないのだと若干開き直っていた。
でも、実は私が思っていたよりも傷付けていたのかも知れない。そう考えたら申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
これはもう、一刻も早く優衣に接触しなければならない。
「ちゃんと話すよ。相手に」
「恋人?」
「ただのセフレ。最低だね」
本当に最低だ。
知らず知らずのうちとはいえ、私は希さんを傷付け、そして優衣も傷付けた。私自身は自分を傷付けないように2人に甘えていただけ。全部自分の弱さが招いたことだ。
「希さん、待ってて」
「ん?」
「全部ちゃんとしてから伝える」
私はその2日後、希さんに残業で遅くなると嘘をつき、21時前に優衣の部屋を訪ねた。
アパートの部屋に電気が点いているのを確認し、今日こそはと別れの覚悟を決める。
もし追い返されたら、一方的にメールしてでも自分の覚悟を伝える。反応がなくても自分の中で全てを終わらせる。
部屋のインターホンを鳴らし、ドアが開くのを待った。
そして、ドアの向こうから顔を覗かせた優衣は、しばらく考え込んだ様子を見せたあと、ドアのチェーンを外してくれた。




