運命の同居人【希視点】
憧れのブライダル業界で仕事を始めたのは今から13年前。キャリアを積んだ現在は営業企画課の課長という役職も付き、それなりに充実した日々を送っている。
今日は部下とプライベートで飲む予定になっているのだが、『少し遅れます』とメール連絡があったとおり、約束の18時半を過ぎた今も彼女は駅前に姿を見せない。
夕方になって暑さの和らいだ空気は少し湿っている。雲行きが怪しい。
「藤沢課長! すみません、遅くなりました!」
「あ、やっと来たね」
約束の時間から少し遅れて、部下の五十嵐玲奈さんが息を切らしながら小走りで向かって来た。
「はぁ、はぁ……。すみません、バスが渋滞に巻き込まれて……」
「いや、気にしないで。大変だったね」
「ホント大変でした! 犬が道路の真ん中塞いでたんですよ!」
「……ホント?」
「もー、さすがにそんな嘘付きませんって!」
五十嵐さんは入社4年目の若手社員。見た目は今風のオシャレな女性で、最大の特徴はこのひたすら人懐っこい性格。
上の立場の相手にも物怖じしないせいで、時々上層部からお叱りを受けることもある。それでも本人は全く動じていない。きっと将来大物になることだろう。
今日の飲みも「藤沢課長! 今度飲みに連れてってください!」と五十嵐さんが言い出したのがきっかけだった。
「えっ! 雨降ってません?」
「ホントだ。傘ないわ」
「早くお店向かいましょう! ダッシュで!」
「やめてアラフォーにはキツい……。そこのコンビニで傘買おう」
五十嵐さんのリクエストで訪れたのは、若者ばかりが集まる落ち着いた雰囲気のダイニングバー。オープンしたのが最近ということもあり、平日夜でも満席に近い状態だった。
私たちは運良く座れたカウンター席の一番奥で女同士の会話を楽しんでいた。
「彼氏なんて別に今更いらないかな。結婚願望ないし。ブライダル業界の人間が言うのもアレなんだけどさ」
「でも一人だと寂しくないですか?」
独身の女2人が話すとなるとこの手の話題は避けられない。私から振ることはなくてもほぼ確実に相手が切り出してくる。
そして、この展開になった時は、いつも少し躊躇しながらこの事実を相手に伝える。
「同居人いるからね」
「ん? なんだ同棲相手いるんですか」
「うん。相手女だけど」
「えっ!? もしかして彼女ですか!?」
「いや違う違う。ただのルームシェア」
「なんだぁ。でもそれ楽しそうですね。結婚よりいいかも」
「私には合ってると思うよ。相手にもよるんだろうけど」
夏の空みたいな色のカクテルを飲みながら同居人の顔を思い浮かべる。
彼女は一昨日から出張でいない。
今日、私が帰る頃には家にいるはずだ。
「どんな人ですか?」
「うーん……。ドッペルゲンガー? 内面的な意味でだけど。初対面でこの人不思議だわーって思ってさ。なんか他人なんだけど他人じゃないんだよ」
「えっ、それって運命の相手じゃないですか!」
「多分そうだね。同性でもそんな人いるんだなーと思った」
「写真とかないんですか?」
「あるよ」
スマホをバッグから取り出し、同居人と出掛けた先で撮った画像を表示させた。
それを五十嵐さんの前に差し出すと、ちょっと大袈裟といいたくなるほど目を見開いて画面を凝視した。
「えっっ!! めっちゃイケメン美女じゃないすか!!」
「うん。大体みんな驚くね」
「……いや、あり得ませんって。普通に付き合っていいですよこんな人」
「だからそういうアレじゃないって。ただの運命の同居人」
五十嵐さんは私のスマホを凝視したまま目を離さない。そのまま勝手に画面をフリックし始めたのを見て、さりげなく五十嵐さんの手からスマホを奪い取った。
「年いくつですか?」
「私の6つ下。今年29かな」
「どこで出会ったんですか?」
「何年か前のセミナーで」
「へー……。私なら絶対ときめくなぁ。同居なんかしたらタダじゃ済まない自信あります」
「え、そ、そうなの? だって女だよ?」
「いやこれは性別の壁崩壊でしょ。普通に統一しましょうよ課長」
「いや意味分かんないわ」
同居人の名は三浦那央。5年前に会社指示で参加した管理職者向けのセミナーで知り合った。
セミナーの内容が内容だけに女性参加者は少なく、総勢40名ほどの参加者の中で女性は私を含めて5名程度。その中でも那央は一際目立つ容姿で、一見して『自分とは住む世界の違う人』という印象を受けた。
170センチに届きそうなスレンダーな長身と、サラサラのロングストレートヘア。そしてこれでもかというほど整った顔立ち。モデルだと言われたらすぐに納得してしまうくらいの容姿だったため、先入観で勝手にアパレル業界の女性だと思い込んでいた。
グループディスカッションでたまたま同じグループになり、自己紹介で彼女の職業がフラワーショップのバイヤーだと聞いた時、容姿とのギャップに少し驚いたのを思い出す。
その夜、セミナー会場と同じビル内の和食料理店で交流会が開かれた。2日間に渡るセミナーだったため、遠方からの出席者は近隣のビジネスホテルに泊まる予定になっていた。私自身も遠方組だった。
『……あの、藤沢さんでしたよね?』
先にアプローチして来たのは那央の方だった。交流会に出席した女性は那央と私のみで、一番話しかけ易かったのが私だったのだろう。
『はい。藤沢希です。先程はありがとうございました』
『こちらこそありがとうございました。ディスカッション楽しかったです。……あ、三浦那央です』
その場で名刺を交換し、お互いの名刺を見ながら会話を交わした。
『三浦さんはお花屋さんなんですね』
『はい。主にバイヤーやってます』
『バイヤーっていうと、やっぱり日本全国飛び回ってるんですか?』
『時々。年一くらいで海外に行ったりもします。海外でしか手に入らない品種もありますから』
『え、すごい! 憧れます。そういうお仕事』
那央は嬉しそうな顔で自分の仕事について話してくれた。屈託のない笑顔を浮かべたその表情を見た時、まるで夢を語る少年を見ているかのような感覚に陥った。
『藤沢さんはブライダル関係のお仕事を?』
『ええ。プランナーのサポートが主な仕事です』
『じゃあ私の仕事とどこかで繋がってるかも知れないですね』
20代半ばの大人の女性で、女性としての魅力に溢れた人。だけど何故か話していて女を感じない。“中庸”という表現がしっくりくる。
話しているうちに、外見の印象から感じた苦手意識がいつの間にか消えていた。初めて体験した不思議な感覚だった。
後に那央が髪をバッサリ切った時、不思議な感覚の正体が分かった気がした。外見に囚われて、那央を勝手に『女性らしい人』と決め付けていたせいで、彼女の本質とのギャップに感覚を惑わされていたのだ。
『まるで別人だね』
『前もショートだったんだけどね。なんとなく伸ばし続けてた』
『でも今の方がしっくりくるな。やっと本当の那央ちゃんを見せてもらった感じ』
『そういや希さんってさ、私の外見一回も褒めたことないよね?』
『そうだっけ?』
『うん。変かも知れないけど、そういう人と出会えて嬉しかった』
最初はおかしなことを言う子だなと思った。
だけど、自分自身にも思い当たる節があることにふと気付いた。外見を褒められて嫌な気持ちはしないものの、それを理由に近付いて来る男性には心を閉ざしてしまう。
私のことをよく知りもしないうちに好意を寄せて来る人は信頼できなかった。そのせいでずっと恋愛を拗らせ続けていて、まともに男性と交際する機会もなかなか得られず、いつしか結婚願望すらも完全に頭から消えていた。
『……だからかな。那央ちゃんと一緒にいると安心するのは』
『そうなの?』
『うん。他人じゃない感じ。言葉じゃ表現できないんだけどね』
『今まで、そういう人と出会ったことない?』
『ないよ。男女問わずね。法律が許すなら那央ちゃんと結婚したかったな』
『じゃあ一緒に住んでみる? 私のマンションの部屋余ってるから試しにさ』
『えっ!』
『会社通えない距離じゃないでしょ?』
『……まぁ、楽しそうだよね。それもいいかも』
あれから4年が経った今でも続いている那央とのルームシェアは、元々はこんな軽い冗談から始まったものだった。
そして、同居開始から半年が過ぎた頃、那央が泥酔状態で会社の飲み会から帰ってきた。
『……ちょっと飲み過ぎた。飲まされ過ぎた。今時こんなのパワハラだよ……』
玄関で膝を付いて壁にもたれ掛かり、そのまま倒れてしまいそうな那央に慌てて駆け寄った。
支えた身体から体温が伝わる。腕が偶然那央の胸に触れてしまい、その柔らかさに一瞬だけ意識を奪われた。
『那央、大丈夫? 横になってて。水持ってくる』
『いや、横になると気持ち悪い……』
『吐いて来なよ。その方が楽になるから』
『……耐える』
『えっ、無理しない方がいいって』
那央に肩を貸して部屋のベッドに寝かせた。水を飲んで多少は落ち着いたのか、呼吸の乱れは先程よりも軽くなっている。
ベッドのそばで那央の額をそっと撫で続けていると、那央は虚ろな視線を私に向けて呟くように言った。
『ねぇ、希さん……』
『ん? どうしたの?』
『今、好きな人っている?』
『え? 那央だよ』
『……ホント?』
『うん。那央が一番好きだな』
『じゃあ……』
那央はそこで言葉を止め、静かに目をつぶって首を横に振った。少しの沈黙のあと、那央がまた弱々しい声で呟いた。
『私も、希さんのことが好き……』
『うん。嬉しいよ』
『でも……、希さんの好きとは違うかも』
『……ん?』
『いや、何でもない。この先もここに住んでくれる?』
『うん。もちろん』
『だったらそれでいいや。うん』
ーーあれは多分、私への愛の告白だった。その後も、ちらほらとそれを窺わせるような言動が見て取れた。
だけど那央は決定的なことを言わない。言わないでいてくれるのをいいことに、私は今の居心地のいい環境に甘んじている。
「……あの、藤沢課長?」
そこでふと、隣の五十嵐さんの存在を忘れて回想に耽っている自分に気付いた。五十嵐さんは私の顔を覗き込むように見つめている。
「藤沢課長? 酔い回ってますか?」
「……あぁ、いや、ごめん。ちょっと考え事してた」
「やっぱり酔ってますねぇ。彼女さんのこと?」
「いやまぁ、実はさ……。相手の方はそういう気持ちみたいなんだよね」
つい、口を滑らせてしまった。五十嵐さんが私の話に全く引くような素ぶりを見せないからだろう。
今の若い世代はこういうことに抵抗のない人が多いのだろうか。
「ん? 課長のことが好きってことですか?」
「あぁ、うん……」
「課長は違うんですか?」
この言葉に、少しだけ胸が騒いだ。
那央への想いが特別なのは自分自身がよく分かっている。そしてそれは恋なのかと自分の胸に問い掛けると、胸はその答えを曖昧にして黙り込んでしまう。
「分かんないの。もちろん好きは好きなんだけど、なんか……そこまで踏み込めないっていうか」
「女性だから?」
「……なのかなぁ。正直申し訳ない気持ちはあるよ。ずっと我慢させてるってことだしね」
「同居歴どれくらいですか?」
「4年」
「絶対浮気してますね。周りがほっとく訳ない」
「それならそれでいいんだよ。最終的に私のところに帰って来てくれれば。……っていうかそもそも付き合ってる訳じゃないから浮気じゃないよね」
“浮気”に思い当たることがない訳ではない。
那央は仕事柄出張が多く、長い時は1週間ほど家を空けることがある。
那央が出張の予定を話すのを聞いていると、時々その言動や日程になんとなく違和感を感じるのだ。
それに、五十嵐さんの言う通り、那央の容姿は人を強力に惹きつける魅力がある。そして人と接する機会が多い。普通よりも周りからの誘惑は多いはずだ。
それに対して何も思わなかったと言えば嘘になる。那央が不自然な言動を見せるたびに、誰かに那央を奪われてしまうんじゃないかと不安に苛まれた。眠れぬ夜を過ごしたことも一度や二度ではない。
これは嫉妬だと自分にも分かっている。それでもその不安を私から口に出すことは出来なかった。
「でも他の人に取られるのはイヤなんでしょ?」
「イヤだよ」
「課長ワガママ〜。私が横取りしようかな」
「やめて。困る」
「いや、冗談抜きでそれワガママだと思いますよ。課長にその気がないなら解放してあげなきゃ」
「同居解消ってこと?」
「そう。だって相手は課長が好きだから同居してるんでしょ?」
那央はいつから私のことが好きなのだろう。
というか、私の勘違いではなく、本当に那央は恋愛感情として私を好きなのだろうか。
疑問が次々と湧いて出てくる。
だけどその疑問の答えを得たところで何が変わるんだろう。
「……それだけじゃないと思ってるんだけどな」
「プラトニック的な? でもそれ課長の主観じゃないですか。好きな人が目の前で寝てても手を出せないって拷問に等しいですよ。私にも経験ありますけど」
「えっ、五十嵐さん意外と肉食? 女性でもそんなもんなのかな?」
「好きな相手ならそんなもんですって。それは男女関係ないです」
那央とそういう関係になることなんて一度も考えたことはなかった。
……いや、『ということにしておきたかった』が正解だ。
考えてみれば、私は今まで意識的に那央との接触を避けていた。それは裏を返せば意識し過ぎているということ。
私は那央よりもずいぶん年上で、年上だからこそ安易に感情に流されてはいけないと自分に暗示をかけ、那央の気持ちを見ないようにして自分を抑え込んでいたのだ。
私を抑え込んでいたのは、五十嵐さんの言う通り『性別の壁』だ。他人事である限りはそういうことに抵抗感はないにしろ、いざ自分自身がその状況に置かれると少し身構えてしまう。
でも、私がそうして来たことで、那央がこれまでにどれだけ苦しい思いをして来たか。私が自分の気持ちに素直になってさえいれば、長い同居生活の中で時折見せていたあの切ない顔も見なくて済んだはずだ。
後悔と同時に那央への想いが溢れ出した。私が何よりも恐れているのは那央を失うこと。那央がそばにいてくれれば他に何もいらない。そう認めるまでにずいぶん時間が掛かってしまった。
まさか五十嵐さんの言葉で自分の気持ちに気付かされてしまうとは思わず、私は勢いで五十嵐さんの手を両手で握りしめた。
「五十嵐さん、ありがとう」
「えっ? なんかお役に立てました?」
「モヤモヤしてたのが吹っ切れた気がする。はっきりさせないとね」
「……まさか同居解消ですか?」
「どうかな。話し合い次第だね」
帰りのバスの中で一人考え込んだ。
自分の本当の気持ちに気付いたからといって、今更那央にどう伝えたらいいのだろう。
これまでにも散々『好き』という気持ちを伝えて来た。今更それとは違う『好き』を言葉で伝えたところで冗談だと思われてしまうかも知れない。
答えを出せないまま、ふと気付くと降りるバス停に到着していた。そして自宅に到着するまで結局答えを出せないままだった。
「ただいま」
「あ、希さん。おかえり」
「帰ってたんだね。お疲れ様。ご飯食べた?」
「帰りに食べて来たよ」
21時過ぎに帰ると、一昨日から出張だった那央がリビングのソファーでテレビを観ていた。
白いワイシャツの袖を捲った姿は一見華奢な男性に見える。見慣れた姿のはずなのに今日は見え方が違う。
鼓動を強める胸を押さえ、その姿に吸い込まれるように那央の隣に座った。
何も知らない那央は、隣に座った私に「はい、お土産」と言って笑顔でお菓子を差し出す。
「那央、今までごめんね」
「ん? ……なに?」
那央は少し不安そうな顔をした。私の言葉から何を感じ取ったのか、それを気にしている余裕は今の私にはない。
「那央、あのさ……」
「ん?」
「あとで私の部屋に来て」
言うべき言葉が見付からず、とりあえずこう伝えるのが精一杯だった。
すると、那央が更に不安げな表情を見せた。何か勘違いさせてしまったのだろうか。
「えっと……。なんか絶望的な話?」
「え、絶望的って?」
「いや、同居やめるとか」
「違うよ。そんなこと考えてない」
「……良かったびっくりしたー。やめてよ心臓に悪い」
那央は少年のような笑顔を浮かべ、胸に手を当ててホッとした様子を見せた。
胸が跳ねる。この笑顔は心臓に悪い。
「で、どうしたの?」
「那央と一緒に過ごしたくて」
「えっ、いや……別にいいけどさ。どういうこと? なんか今日希さん変じゃない?」
「えーと……、今更どう言ったらいいのか分かんないんだけど」
ここまで来てもまだ言葉を探ってしまう。那央の目を見つめることしか出来ない。
その綺麗な瞳に吸い込まれそうな感覚に陥り、気付くと私は、そのまま那央の首に腕を回していた。きっと私はまだ酔っている。
「……え、希さん?」
細い身体は意外なほど柔らかい。
もう、言葉に出来ないなら、このまま行動で伝えてしまえばいい。きっと那央は拒絶しない。
少しずつ身体を密着させ、首筋に顔を埋めると、那央の両腕が私の腰を強めに引き寄せた。胸に感じる強い鼓動は私のものなのか、それとも那央から伝わってくるものなのか。
一度身体を離し、至近距離で那央の目を見つめた。きめ細かな白い肌に右手で触れ、その手を首筋へ滑らせる。那央は視線を逸らさない。
少しずつ視界が暗くなる。
そして目を瞑った瞬間、柔らかな感触が唇に重なった。




