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愛とは

時は流れて季節は秋。

こんな小春日和の穏やかな日は希さんと一緒にピクニックに行きたくなる。


そんなことを考えながら店の事務所でパソコン仕事をしていたところ、斜め前の席に座っていた店長が突然妙なことを呟いた。


「……やだ、忘れてたわ……!」


どうやら何かを忘れていたらしい。顔が深刻そうだ。もしかしたらまた本間さんに怒られるようなことをやらかしてしまったのだろうか。


「そんな、どうしたんですか……?」


空気を読んで深刻そうに合いの手を入れると、店長は急に席を立って早口でまくし立てた。


「お弁当よ! 今朝自分で作ったのに家に忘れて来ちゃったの! あぁもうやだぁ、慣れないことはするもんじゃないわ!」


全然深刻じゃなくて逆にびっくりした。

でもとりあえず店長が本間さんに怒られるところを見なくて済んでホッとした。また店長がしょんぼりしてしまったら私も一緒にしょんぼりしてしまう。


「でもなんでお弁当なんて作ったんですか? 店で頼んだ方が楽なのに」

「あなたのお弁当に触発されたのよ」

「え、愛妻弁当ですか?」

「そう。やっぱり手作りは温かみがあるもの。愛情の込もったお料理を食べると幸せな気分になるでしょ?」

「はぁ、たしかに。でも自分の愛情じゃ……」

「やぁね三浦さん。まずは自分を愛するところからよ。自分を愛せない人間は人からも愛されないわ」


何故か店長が仕事中に愛について語っている。もしかして愛に飢えているのだろうか。私の愛で良ければ余っているぶんだけ分けてあげたい。


「あっ、それとね。もう一つついでに思い出したんだけど」

「なんですか?」

「今度あなたにちょっと大変な仕事を任せたいと思って。このまえ本間ちゃんと話したのよ。伝えておいてって言われてたのにすっかり忘れてたわ」


むしろお弁当を忘れて来たことよりもこっちの方が重要な話のような気がする。そんな重要なことをついでに思い出されてしまうあたり、実は私は自分で思っていたよりも店長から愛されていないのかも知れない。


「詳しいことは本間ちゃんに聞いてね。今日は店にいるわ」

「あ……はい」


そう考えたら無性に寂しくなった。寂しくなって店の中を彷徨って本間さんの姿を探した。そして壁に隠れて店の中を見渡したら接客をしている本間さんの姿を見付けた。


「あぁ、やっと聞いた? 店長がいつ伝えるのかずっと様子見てたんだけどさ」

「本間さんが伝えてくれても良かったのに」

「いや、あの人なりに何か考えがあるのかと思って。でも単に忘れてただけなんだね。今度キツく言っとく」


これはまずい。店長がまたしょんぼりしてしまう。何か言い訳をしなければと考え始め、その直後にやっぱりやめた。どうせ私は店長にとってついでの存在なのだ。私から一方的に愛を与える必要はない。


「でも、急にどうしたんですか? 大変な仕事って……」

「そろそろ今の仕事にも慣れて来ただろうし。あとなんかさ、最近三浦さん落ち着いたからね。だから任せても大丈夫な気がして」


何か大きな誤解をされているようだ。私が落ち着いて見えるのは単に色恋沙汰が省エネモードに入ったからに過ぎない。


でもこれはチャンスだ。上手くやれば昇進に繋がる。これで希さんに一歩近付くことができるはずだ。


「でさ、三浦さんに何をやってもらうかっていうと……」


本間さんの話はこんな感じだった。


・とりあえずなんでもいいから好きな植物の種類を選ぶ

・その種の特別コーナーを店内に設け、仕入れの判断から入荷後の管理まで全て私が担当する

・神尾氏に助手になってもらい、私が不在の時は彼に管理を任せる

・そのコーナーの売り上げによって特別報酬を出す


要するに小さい店を1人で切り盛りしろということだ。本間さんの発案で、これまでに前例のないことらしい。それだけ期待されてしまっているということだ。


ちなみに本間さんは今の中川店長の前に店長のポジションにいた人で、そこでの経験で店のことを知り尽くした上で今のチーフバイヤーという立場にいる。だから立場的には中川店長よりも上。時々店長がしょんぼりさせられるのもまぁ仕方がないのだ。


「頑張ってね。いずれ私のポジションを任せることになるんだから」


ということはつまり。

将来的にはこの店の仕入れの大半を私に委ねるということか。いや、ダメだ。そんなことをしたら未来の妻の意見で店の中が多肉植物だらけになってしまう。


「前に三浦さんが仕入れた希少種もさ、なかなか売れないだろうと思ってたけど案外すぐ売れたしね。正直ちょっとびっくりしたよ」


これも誤解といえば誤解だ。あの多肉植物がたまたま某お上品なマダムの目に止まり、たまたまそのお方がお金持ちだったから簡単に売れただけであって、普通の人があんな高価な植物を易々と買うものではない。


そして『特売品』の表示についても無視できない。母は昔から特売品には目がなかった。お金持ちの中にも案外ケチはいるものだ。


「あんまり自信ないですけど……。ちなみにいつからですか?」

「じゃあ2ヶ月後にしようか。準備も時間掛かるしね。店長にも伝えておくよ」


こうして誤解に誤解が重なり、私は店の期待を背負って新たな試練に挑むことになった。


不安とやる気で悶々としながら我が家に帰ると、今日休みだった希さんがリビングで洗濯物をたたみながらテレビを観ていた。テーブルの上には豪華な料理が用意されている。


「あ、お帰り」

「ただいま。いい匂いするなぁ。なに作ってくれたの?」

「今日は肉じゃが。このまえ食べたいって言ってたからね」


これはもう愛する妻の帰りを待つ健気な妻の姿だ。同居開始から丸2年が経ってもお互いの愛情が色褪せることはない。


「今度希さんとピクニック行きたいなぁ。一緒にお弁当作ってさ」

「あ、それいいかも。最近涼しくなって来たしね」

「じゃあ次の休み晴れたら行こう。雨女の呪いどうにかしないと」

「大丈夫だよ。私の晴れ女の呪いの方が強いから」


希さんが作ってくれた絶品肉じゃがを頂きながら、今日の店での出来事を希さんに伝えた。すると思った通り希さんは「すごいね! 頑張って」と喜んで私の挑戦を応援してくれた。やっぱり愛すべき妻だ。これは頑張らなくてはならない。


「あ、じゃあ今より忙しくなる?」

「ちょっと残業増えるかもね。出張も」

「……そっか」


その時、希さんの表情が一瞬だけ暗くなった気がした。一瞬だけだから気のせいかも知れないけどいつもと違う空気が少し気になる。


「え、どうしたの? もしかして寂しい?」

「いや、最近出張増えてたみたいだからさ。今より大変になったら那央の身体が心配で」

「大丈夫だよ。まだ若いから」

「……ちょっと那央、私の前でそれ言っちゃダメでしょ?」

「えっ! なに言ってんの希さんだってまだ若いじゃん」

「あはは、冗談だよ。でも若くはないね。32は」

「私は年齢は気にしない」

「いや、那央が気にしなくてもさ」


笑いながら話してはいても、やっぱり表情が少し暗いように見える。もしかしたら自分の年齢のことを本気で気にしていたのだろうか。だとしたらちょっと無神経だった。


「希さん」

「ん?」

「……いや、何でもない」


どうにかフォローしようと思ったけどいい言葉が出てこなかった。こういうことは言えば言うだけ墓穴を掘ってしまう。だったらむしろ何も言わない方がマシだ。


「那央、やっぱり変だよね」

「……ん? なにが?」

「なんていうか……。いや、変なのは私か。ごめん、疲れてるのかも」

「えっ、ごめん肉じゃが作らせて。疲れてたら休んでていいのに」

「那央に喜んで欲しかったからさ。でも今日は早く休むね」

「うん、いつもありがとう。あとは全部やっとくよ」


今思えば、あれは希さんのほのかな嫉妬だったのかも知れない。出張が増えていることにも気付いていたようだし、あの言動からして私が何か秘密を抱えていることにも気付いていたのだろう。


でも、あの翌日から希さんの様子は元に戻り、それまで通り私への愛情を存分に見せてくれている。たぶん嫉妬というほど強い感情ではないのだ。


とはいえ、希さんに要らぬ心配をかけてしまっていることには少し心が痛む。だから必要に迫られたら優衣との契約について正直に伝えるつもりだ。


そして私の方はというと、今はもうほとんど惰性で優衣との関係を続けている。相変わらず一次的欲求を満たすためだけの愛のない関係だ。


「……那央さん、もう帰るの?」

「うん」


優衣は裸のままベッドに横たえていた身体を起こし、スーツに袖を通す私に寂しそうに言った。事後のベッドは乱れたままだ。


「明日休みなんでしょ? もう少しゆっくりして行きなよ」

「ごめん。用事あるんだ」

「用事? ……あの人?」

「まぁ」

「ホント健気だよね。どうせ叶わないのに」

「一緒にいられるだけでいいんだよ。彼女がそう望んでるなら」


最近はもう、本気でこう割り切っている。


愛とは何か。そう考えた時に、身体の関係が全てではないことに気付いた。希さんの私への愛は本物だ。そしてこんな関係の優衣に対して情はあっても愛はない。


「でももしさ、その人が他の人と結婚するって言ったら那央さんはどうするの?」

「受け入れるしかないよね」

「だったら私にすればいいのに。私なら那央さんに辛い思いさせないのになぁ」

「それはできない。最初からそういう約束だよね?」

「あはは、分かってるよ。冗談」


優衣は下着を身に着けながら笑い飛ばすように言った。このやり取りはもう幾度となく繰り返している。


ここで煙草でも吸えば雰囲気的にサマになるのかも知れない。でも煙草に手を出すつもりはない。ケムくて咳き込んで雰囲気を台無しにするのがオチだ。


「那央さん、一つ聞いていい?」

「どうぞ」

「好きでもない相手とセックスして満たされる?」

「い、一時的にはね」

「虚しくならない?」

「あんまり考えたことないな。求められたら応えるだけだよ」


優衣は相変わらず露骨な言葉を使う。いきなりドキッとさせられるのはこれで何回目か。いや、こんなことまでしておいていつまでも慣れない私の方がおかしいのだろうか。


考えたところで慣れないものは慣れない。とりあえず『私は純情』という都合のいい言葉で片付けることにした。


それにしても、優衣のこの質問は完全にブーメランだ。そもそもこの契約を提案してきたのは優衣の方。お互いの事情に干渉しないというのが暗黙の了解だったはずだし、優衣自身もそれを納得の上で提案してきたはずなのだ。


同じ質問を優衣にしたらどんな答えが返ってくるのだろう。急にそんな好奇心が湧いてきた。


「じゃあ優衣の方はどうなの? なんで私とこんなこと続けてるの?」

「言ったじゃん。私ただのビッチだって」

「要は欲求不満を解消したいだけってことだよね?」

「どうかな。今は……」


と、優衣はそこで言葉を飲み込んだ。いつもと少しだけ雰囲気が違う気がする。


「もう周りの目ぼしい男は食い尽くしたしね。あと残ってる人那央さんしかいないんだよ」


そして私はまた優衣の言葉に胸がガーンとやられた。やっぱりいつも通りの優衣だった。食い尽くした食べカスが私なのだ。別にそれでもいいけど、店長のついでの件といい、私はつくづく愛されない人間らしい。


「那央さんの周りにイイ男いない? いたら紹介して欲しいな」

「え、えーっと。……あっ、年下の男はどう? 可愛い顔の怯えた子羊みたいな」

「うーん。やっぱり男らしい堂々とした人の方がいいかな。年下は別にいいんだけど」


そして私は自分の発言を悔やんだ。

咄嗟のこととはいえ、汚れのない純粋な神尾氏を一瞬でも汚れた世界に誘おうとした自分に心底嫌気が差した。私も既に汚れ切っているのだろう。


いや、もしかしたら神尾氏もああ見えて意外と遊んでいるかも知れない。実際、清楚に見えて意外と……な優衣の例もある。だとしたら店長も真っ青だ。


「まぁいいや。今度いつ会える?」

「出張の予定が分からないからなんとも」

「……分かった。また連絡するよ」


そして翌朝。

私はいつもみたいに希さんのお弁当を持って浮かれ気分で店に向かっていた。最近ついに車のエアコンが壊れて朝の寒さに震えながら通勤している。


こんな私には多少バチが当たった方がいい。出勤前にエンジンが掛からなくなって慌ててしまえばいいのだ。そうなれば『日頃の行いが悪いから』と多少の気休めにできる。


そんなことを考えながら今日も無事に店に到着した。もしかしたら希さんがくれた交通安全のお守りが効力を発揮しているのかも知れない。それならそれで希さんに許されたということだ。


店に入り、開店前に鉢植えに水やりをしようと店の水道に向かっていると、多肉植物コーナーの前でしゃがみ込んでいる神尾氏の姿を見付けた。


何を見ているのだろうと思って近付いた時、神尾氏は私に気付いて「あ……、おはようございます……」と相変わらず怯えながら挨拶してきた。これが彼の通常運転なので最近は特に気にしていない。


「おはようございます。何を見てるんですか?」


すると神尾氏は、小さな鉢植えを両手でそっと持ち上げ、壊れ物を扱うようにゆっくりと私の前に掲げた。


「あの……、お花が咲いてるんです。すごくちっちゃくて可愛い……」


神尾氏の言う通り、その多肉植物は季節外れの花を咲かせていた。その小さな花を見つめる瞳は慈愛に満ちている。


「あ、ホントですね。この時期に珍しいなぁ」

「頑張ってお花咲かせたんですね……。僕ももっと頑張らないと……」


私はその汚れのない純粋な瞳から思わず目を逸らし、神尾氏の目の前で人知れず懺悔した。



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