いけない再会
うっかり告白じみたことをしてしまったあの日以来、私はしばらくのあいだ希さんの態度に敏感になっていた。しかしどれだけ観察しても特に希さんの様子に変化はなく、それまでと全く変わらない適度なイチャイチャ生活が続いた。
私も物事をあんまり深く考えない性格だから、希さんの態度が変わりさえしなければまぁいいかと楽観的に考えることにした。
そして特に大きな出来事もないまま数ヶ月の時が流れ、同居開始から1年近くが経ったある日の夜、リビングのテーブルに置いていた私のスマホに電話着信があった。
「那央、携帯鳴ってるよ?」
「あ、ごめん」
食器を洗っていた手を止め、布巾で手を拭う。最近密かに食器洗いのタイムを計って記録していたのに、今日は記録表に穴を開けることになってしまった。
音を鳴らし続けるスマホを拾い上げ、発信者の名前を確認した。その名前に軽く胸が跳ねた。
『遠山優衣』。
高校時代の片想いの相手だ。
「ん? 珍しいな」
「誰?」
「高校の後輩。なんだろ?」
ちょっとだけ気まずかった。今はもう優衣への想いは完全に消えているし、ここでまた接点ができたとしてもそれが蘇ることは99.9%ない。だけど希さんに優衣の存在を知られるのはなんとなく嫌だった。
スマホを持って急いで自分の部屋へ向かい、ドアを閉めると同時に通話ボタンを押した。
『那央さん、お久しぶりです』
声を聞くのはどれくらいぶりだったか。数年前にバレーボール部のOG会で直接顔を合わせて以来だ。
「あぁ、久しぶり」
『お元気ですか?』
「まぁ元気といえば元気かな。……どうしたの?」
『ごめんなさい。特に用事があった訳じゃないんですけど、スマホの電話帳見てたら懐かしくなっちゃって』
特別に用事があった訳ではないと聞いて少し安心した。久しぶりの急な連絡となると何か妙な勧誘の可能性もあるからだ。最近希さんもそんなことがあったと言ってゲンナリしていた。
そして、きっと来るだろうなと思っていた質問が予想通り電話口から聞こえた。
『今って彼氏いるんですか?』
やっぱり優衣は変わらない。相変わらず恋愛脳だ。
「いないよ」
『え、那央さんモテモテなのに。じゃあ今度合コンしましょうよ』
「いや、合コンはやめとく」
『えー、那央さんが来てくれたら盛り上がるのになぁ』
「あはは。ごめん、そういうの興味ないんだ」
『なんかもったいなーい。……あ、ところで今度遊んでくれませんか? 久しぶりに会いたいです』
特に断る理由はなかった。気持ちが冷めたとはいえ嫌いになった訳ではないし、友人として久しぶりの会話を楽しむのも悪くないと思ったのだ。
2週間後に約束を取り付け、優衣との約15分の電話を終えた。やりかけていた洗い物を済ますために部屋を出てリビングに戻ると、希さんはさっきと変わらずソファーに座ってテレビを観ていた。
私の電話の相手を気にする様子はなく、バラエティー番組を観ながら1人で笑っている。
「希さんは何も聞かないよね」
「ん? ……あぁ、電話ね。だって必要以上に干渉しない方がいいでしょ?」
「まぁ、確かに」
「那央も私もそういうタイプだから上手く行ってるんだよ」
「ごもっとも。やっぱり私には希さんが一番合ってるな」
「ふふ。急にどうしたの?」
「いや別に。こんな居心地のいい人ほかにいないと思って」
「嬉しいよ。私も同じ気持ちだからね」
会話を終えてから『余計なことを言ってしまった』と思った。何もやましいことはないはずなのに、心のどこかでやましさを感じているから無駄に喋ってしまうのだ。私は間違いなく浮気したら即バレるタイプだ。
その翌日から2日間の出張、それからしばらくは店で仕事、という感じで優衣との約束までの2週間を過ごす中、希さんにどう伝えようかとあれこれ悩んだ末……。
「そうだ希さん、次の休み出掛けるね。友達と約束してるんだ」
「あ、うん。分かった」
「多分遅くなるから夕食作れないけど」
「そんなの気にしなくていいよ。楽しんできて」
結局素直にこう伝えることにした。少し気まずかったけど嘘をつく方が気まずい。私のクセにちょっと気にしすぎだとは思う。
そして約束当日。
今日は私が休みで希さんは仕事だ。ホントは希さんのために家で夕食の準備をして待っていたかった。でも約束したからにはそんなことは言っていられない。
待ち合わせ場所は駅前のファミレス。車で行くにはちょっと不便な場所で、しかもあの付近はやたらと一方通行が多い。だから方向音痴の私の運転では若干不安だった。そんな事情からバスで20分かけて行くことにした。
実は最初、優衣が私のマンションまで車で迎えに来たいと言い出し、さすがにそれはマズいと思って「この辺は霊的にアレ」とか嘘をついてどうにかやめてもらった。優衣にはマンションの場所を知られたくないのだ。
なぜ私は友人に会うというだけでこんなに気まずくなっているのだろう。何度かこんなふうに我に返った。ずいぶん複雑な恋愛事情だ。
『早く着いたので先に店に入ってます』
バスの席でウトウトしていたらそんなメールが優衣から届いた。約束の12時半より少し早い時間だ。
駅前に到着してバスを降り、ファミレスに入って清楚な姿を探す。しかし店の中に清楚な姿はなかった。代わりに少し派手になった優衣が窓際のテーブル席に座ってスマホをいじっていた。
私の姿を見付けた優衣が表情を明るくした。少し派手になっても美人なのは変わらない。むしろこっちの方が優衣のイメージに合う。
「那央さんやっぱり綺麗だなぁ。前に会った時よりカッコよくなってませんか?」
「あはは、そうかなぁ。年取ったからじゃない? 最後に会ったの3年くらい前だったよね?」
「あの時たしか私が21だった気がします。『去年の成人式がー』とか話してたような」
「じゃあちょうど3年前か。懐かしいね」
優衣は今アパレルショップで契約社員として働いている。以前は大学を出てすぐに入った会社で事務員をしていたけど、仕事が合わなくて今の仕事に転職した。だから休みは私と同じでほとんど平日。今日も平日だからファミレスはそれほど混雑していない。
食事をしながら長い空白期間の出来事をお互いに伝え合い、時間を忘れて優衣との会話を楽しんでいると、隣のテーブル席に座っている若い女性がチラチラこっちを見ていることに気付いた。おばちゃんと違って控えめだからまだ微笑ましい。
「そうだ那央さん、ちょっと聞いてくださいよ。ついこの前まで付き合ってた男が……」
そして優衣は相変わらず異性関係の話が多い。最初は無難な話だったのに少しずつ内容がおかしくなってきた。純愛を貫いている私には衝撃的な話ばかりで小さな胸が大きなダメージを受けた。高校時代とは違うダメージだ。
すると今度は反対側の席のお爺さんが私たちの方をチラチラ見始めて余計に気まずくなった。まぁ、優衣がどれだけ性に奔放だろうと私に害はない。友人として最低限のツッコミを入れるだけだ。
「……あ、もうこんな時間ですね。那央さん、もし良かったらこれから私の部屋に来ませんか?」
「え? まぁ、別にいいけど」
「せっかくだからちょっと飲みながら話しましょう。バスで来たんですよね?」
『飲みながら』に若干戸惑いつつ、まぁ缶ビール2本程度なら希さんに怒られはしないだろうと優衣の誘いに乗ることにした。
ファミレスを出たあと、優衣に促されて水色の可愛い車に乗り込んだ。最近買った新車だそうだ。そういえば私の車もそろそろマズい。最近ついに運転席側のパワーウインドウが下がらなくなった。私も早く買わなくてはならない。
「私も車買わないと。もう壊れそう」
「え、那央さんって何乗ってるんですか?」
「おじさんっぽいやつ」
そして優衣はこの一方通行の多い複雑な道を迷いもせずに走っている。そんなくだらないことに劣等感を抱きながら、運転する優衣の横顔を見て希さんを思い浮かべた。多少派手にはなってもやっぱり少し似ている。
ドラッグストアに寄って買い物を終え、優衣のアパートに到着した頃には既に日が落ちていた。あと2時間もすれば希さんが仕事を終えて帰宅する。今は人の家にいるのになんとなくソワソワしてしまう。
2人で飲み始めて2時間くらいが経った。
チビチビ飲んでいた2本目のビールがそろそろ底をつく。でももうこれ以上は飲めない。私が正常な思考を保てる限界が缶ビール2本なのだ。
優衣の方は飲むペースが速く、既に缶チューハイを5本も空けている。優衣の酒の強さは知らない。接点があった時期のほとんどが高校時代だから今まで一度も優衣と酒を飲む機会はなかった。
今のところ口調に変化はないし、会話も違和感なく成り立っている。でも顔が少し赤くなっているのは確かだ。
「……あの、那央さん」
「ん?」
「付き合ってる人いないんですよね?」
「まぁ、いないね」
「なんか歯切れ悪ーい。実はいるんじゃないんですか?」
そして急にこんなことを言い出す。外から分かりづらいだけで意外と酔っているのかも知れない。
「なんでそんな突っ込むの……。ホントにいないってば」
「じゃあ、私と付き合ってください」
「まーたそういうこと言う。相変わらず軽いなぁ優衣は」
「あはは冗談ですよー。っていうか好きな人もいないんですか?」
ここで嘘をつくのは嫌だった。私は希さんが本気で好きだ。これまで自分に嘘をつくことなく一途に彼女を想ってきた。希さんが女性であろうと関係ない。
「いるよ」
「えっ! そうなんだ……」
優衣は驚いた顔をした。そんなに意外だったのだろうか。
ここでふと思った。優衣にこう言ってしまったら絶対に突っ込んだ質問をされる。正直あんまり聞かれたくはない。だったら先に事実を伝えた方がいい。
「けど多分無理。私じゃ相手にならない」
「え、那央さんでも? もう告白したんですか?」
「してないけど、一応そういう態度は見せてるんだよね。でも気付いてないっぽい」
「告白したら?」
「いや、無理な相手だから。今の関係壊すのイヤだし」
すると隣に座っていた優衣が、飲んでいた缶チューハイをテーブルに置いて私に寄り添ってきた。急に何事かと驚いていると、優衣は私の腕に腕を絡め、更に指をいやらしい感じに絡め、その上わざとらしく胸まで押し付けてきた。
いや、まさか。これはいつもの冗談だろう。やっぱり優衣は酔っているのだ。
「……私で良ければ慰めますよ?」
「ん……?」
「ちょうど私も人肌恋しかったので」
心臓が騒ぎ出した。
この目は本気だ。優衣が獲物を狙う目は高校時代に何度も見ている。まさかその目が自分に向けられるとは思っていなかった。
「え、ちょっと……、待って私たち女同士じゃん」
「酔った勢いってことで。お互いフリーなんだから問題ないでしょ……?」
触れ合った身体が更に強引に押し付けられ、その勢いで体勢を崩してしまった。上に覆い被さった身体を押し退けようとしても私の方が腕力が弱くて負けてしまう。
「いやだから、……やめ、ん……」
そして信じられないことに、優衣はそのまま強引に私の唇を奪った。
頭が混乱している。優衣はそっちの人間じゃなかったはず。あれだけ男好きの優衣が、まさか女の私を襲うなんて。
優衣は更に、服の上から遠慮のない手つきで私の身体に触れ始めた。気持ち良くてまともに抵抗できない。口では「やめて」と言いながら身体は正直に反応してしまう。優衣はそれを知ってか更に大胆な行動に出はじめた。
服を脱がされブラを外され、優衣の指先と舌が直にそこに触れた。私は声が漏れそうになるのを必死に抑えながら微妙な力加減で抵抗にならない抵抗を続けた。
「優衣……、待って。そこはダメ……」
「ふふ。那央さん可愛い……」
少しずつ自分が自分じゃなくなってくるのが分かった。夢なのか現実なのか、もう何が何だか分からない。頭にモヤがかかった状態で快楽だけに身を任せている。
そして私はそのまま優衣に犯された。
……のではなく、いつの間にか体勢が入れ替わって私が優衣を犯していた。
「那央さん、意外とエッチだったんですね」
「う……」
女性とこんなことをするのは初めてだ。まだ心臓がドキドキしている。脳が正常に戻ってようやく現実を直視できた。
途中で頭が真っ白になって幻覚を見た。一瞬だけあの人の姿を優衣に重ねてしまった。変な罪悪感で胸がザワザワするのはきっとそのせいだろう。最低な自分に嫌気が差す。
「ごめん。私も酔ってたから……」
「相性いいですよね? 私たち」
「え……?」
「セフレってことにしませんか?」
「え、待って。そんなつもりは……」
「そんな重く考えなくていいですよ。付き合って欲しいなんて言いませんから。ただのストレス発散ってことで」
優衣のあの言葉にはっきり答えなかった私は一体なにをどうしたかったのだろう。頭の中をごちゃごちゃさせたまま真っ暗なバス停で1人ポツンとバスを待った。
そして気付いたら目の前にバスが到着していた。ため息をつきながらバスに乗り込み、まだ少しぼんやりした状態で腕時計を見た。
今は21時過ぎ。多分もう希さんは家に帰っている。一体どんな顔して会えばいいんだろう。ずっとそればかり考えていたら降りるバス停を1つ通り過ぎてしまった。
「あ、お帰り。楽しかった?」
「……うん。久しぶりに会ったからね」
「ん? ……どうしたの? 元気ないけど」
希さんの顔を直視したことで後ろめたさが増し、無理矢理テンションを上げることすらできなかった。もはや焦って言い訳をする元気すら残っていない。
「いや、笑いすぎて疲れちゃって。今日はもう寝るよ。シャワー浴びてくるね」
脱衣所で服を脱ぎ、洗濯かごに服を入れようとしてハッと手を止めた。服を鼻に近付けるとほんのり優衣の香水の匂いがした。
希さんに気付かれただろうか。私は香水を使わないから、もし匂いに気付いていたら怪訝に思っただろう。
いや、多分この程度なら気付かない。
勝手にそういうことにして心を落ち着けることにした。
そして浴室で自分の姿が鏡に映ったのを見た時、急にあることに気付いて身体の隅々を確認した。キスマークらしきものが残っていたらマズい。希さんに気付かれて突っ込まれたら言い訳できない。
とりあえず確認した限りではキスマークは見当たらなかった。もし見落としがあって希さんに見付かったら『タコパでタコが飛んだ』とごまかすことにした。気にしすぎて疲れる。
でも、よく考えたら私がどこで誰と何をしようと自由だ。私と希さんは恋人契約を交わした訳ではない。だから私の今回の行動は別に浮気ではない。
そう考えなければ気持ちが収まらなかった。私は平気で浮気できる器用なタイプではなく、一途に1人の人だけを想い続ける不器用な人間だ。
それでも優衣を拒絶できなかったのは、多分心のどこかで満たされないものを感じているからだ。私は自分が思っていたよりも弱い人間だったらしい。




