交わらないもの
ユリアンが社交界に出る様になって一つだけ変化したことがある。
マリアンヌと参加したある夜会で男の姿を見つけると、ため息が零れた。
「ため息をついてどうした」
騎士団長の息子であるクリフがユリアンの憂鬱そうな顔を見てにかっと笑う。クリフの婚約者であるローズがマリアンヌと親しくしており、そのつながりで話すようになった。
騎士らしく大きな逞しい体を持ち、精悍な顔立ちをしている。性格はとてもはっきりとした男で、裏表を感じず付き合いやすい。まだ知り合って数か月だが、話して心地がいい。
「あっちに実父がいるのが見えた」
「はは! お前本当に実家が嫌いだな。せっかくなんだから適当に利用しておけばいいのに」
「……クリフにそう勧められることに納得できない」
簡単に利用しておけという言葉は清廉ではないが剛毅な性格のクリフにはとても似つかわしくない。赤い髪のせいか、熱血で真っ直ぐに見えるから余計に違和感がある。
クリフはニヤリと笑った。
「俺は使えるものは何でも使う主義でな。思い入れがないのなら、遠慮などせず利用し尽くせばいい」
「……そうするよりも苛立ちの方が強くてダメだな。潰したくなる」
「お前も相当鬱屈しているよな。まあ、俺たちと付き合えるんだからそういう人間か」
くくく、と楽しげに笑うクリフに顔をしかめた。
クリフの他にも第5王子と魔術師の息子と交流を持っていた。知り合って日が浅いというのに、昔から親しいかのような感覚があった。その理由が特殊な性格、と断言されている。
言いたいことはわからなくもないが、だからといって他に知られたくはない性格だ。
「マリアンヌに知られたくないんだが」
「わかっているって。囲い込みは重要だからな」
別の勘違いをしているような気がしたが、あえて聞かなかった。ここは聞いてしまった方が負けだ。手に持っていたグラスを空にすると、近くを通った給仕にグラスを預ける。
「それじゃあ、また」
「おうよ。困ったことがあったらいつでも相談に乗る」
「ありがとう」
思わぬ言葉に、笑みがこぼれた。ここまで来るのにとても苦しい日々だった。生き残ったとしても、ずっとベッドに横になっている生活になるのではないかと恐れていた日もある。
それが。
今はこの世界のものすべてが輝いていた。
手に入らないと思っていたものがユリアンにも用意されていた。
「お、いい笑顔。殿下にも見せてやりたいね」
「そう言われると笑いにくい」
「確かに!」
軽い会話を交わしながら、ユリアンはマリアンヌの方へと歩き出した。マリアンヌはクリフの婚約者であるローズと何人かの友人たちと楽しげに話している。
「ユリアン」
「そろそろ帰ろう」
「そうね。わかったわ」
ユリアンが説明しなくても、マリアンヌには伝わったようだ。会場をさっと見回して男の姿を捉えるとため息をつく。友人たちにも説明していたのか、意味ありげに微笑まれた。
二人はその場を後にした。
◆◆◆
夜会ではなるべく実父との接点を作らないように避けていた。それが意思表示だと思っていたし、もし心の底から戻ってきてほしいと望んでいるのなら、きちんとした手順を踏むはずだと考えていた。
ところがユリアンに突撃してきたのは、父親ではなくて異母弟のフリードだった。
「異母兄上、初めまして」
マリアンヌの母である伯母カティアに呼ばれて応接室に入れば、そんな挨拶をされた。今回初めて顔を合わせるのだが、シャセット侯爵家の特徴である緑色の髪と琥珀色の瞳を見ただけで血のつながりを感じてうんざりする。
ユリアンには父や異母弟に強い思い入れがあるわけではないので、突然の訪問に無作法とは思っても喜びはなかった。冷めた目でフリードを見てから、カティアに視線で問う。彼女はどこか楽し気な笑みを浮かべていた。
「思うところは色々あるだろうけど、とりあえず座りなさい」
座れば話を聞かなくてはならず、それはまた面倒な気がする。
だが、断ることもできずに渋々とカティアの横、フリードの向かいの席に腰を下ろした。さっさと用件を聞いてしまおうと、世間話などせずに単刀直入に聞く。
「……それで用件は?」
「異母兄上にシャセット侯爵家に戻って来てもらいたいのです」
「断る」
そんな話だろうとは思っていた。よくわからないのはシャセット侯爵ではなく、フリードがやってきたことだ。
母親が違っていても未成年の弟であれば話を聞いてくれるとでも思っているのか。シャセット侯爵の思惑がわからない。迂闊な発言をして、言質を取られないように気を引き締める。
「シャセット侯爵家に怒る気持ちはわかります。ですが、侯爵家は異母兄上の継承すべき家で」
「跡取りとして望まれてたのは君だ。僕ではない」
幼過ぎて記憶が曖昧であるが、体を壊した母親と病弱なユリアンの療養という名目の元、二人で別邸で過ごしていた。父親がやってくるのは週に1回程度で、父親に親の愛を向けられたことはない。
表向き、母親が亡くなってから後妻と出会ったことになっているが、フリードの生まれた時期を考えれば母親が亡くなる前から関係があったようだ。
母親が3歳で亡くなり、一人ぼっちになって、何とか別邸で生きている状態。
常に側にいる世話係の老夫婦は優しかったが、ユリアンの心の寂しさまでは埋められなかった。母親が亡くなってから5年、ベッドの上で過ごす日々。時々医師が来て、悪い血を抜いていくがそれだけだ。生きていく意味を見いだせないまま、ぼんやりと過ごしていた。
生きていても仕方がないと思い始めたころ、カティアが迎えに来た。はっきりとしない頭で、促されるままシャセット侯爵家を後にした。連れていかれた場所にはユリアンだけの天使がいた。
従姉として引き合わせられたマリアンヌはごく自然にユリアンを受け入れ、明るい世界へと引っ張り上げた。
世界が変わった。
あれからユリアンは寂しさを感じることが少なくなった。体調の悪さは簡単にはよくならなかったが、辛いときはいつだってマリアンヌが抱きしめてくれた。世界で一人っきりになったように感じる夜も彼女は側にいてくれた。いつだって側にいると伝える温もりがあったから、こうして立つことができる。
「……僕には異母兄上のような素質はありません。正当な権利を持ち当主に相応しい人がいるのなら身を引くのが正しいと」
「こうして健康になったのはペンウッド侯爵家の人たちが大切にしてくれたからだ。ペンウッド侯爵家の次期当主であるマリアンヌを支えていけるように努力した結果だ。それを相応しく育ったからペンウッド侯爵家を捨てろというのはあまりにも傲慢だと思う」
淡々と事実を告げたつもりだったがひどく冷たく聞こえたのか、フリードの顔色が悪くなる。
「そんなつもりでは」
「だが君の言っていることはそういうことだ。僕は予定通りマリアンヌと結婚して、彼女を支えていくつもりだ。シャセット侯爵家はフリード、君が守るべき家なんだよ」
話がこれだけなのかと、横に座るカティアを見た。彼女は我関せずといった様子でお茶を飲んでいたが、ユリアンの視線を受けてにこりとほほ笑んだ。
「それだけでいいの? 折角、身内の方が来たんですもの。もっと恨みつらみを言ってもいいのよ?」
「昔は恨んでいたこともあったかもしれませんが、そういう関心はすでになくなっています。どうでもいいというのか」
肩を竦めれば、フリードが息を飲んだ。ひどく傷ついた顔をしたことに首をかしげる。
「どうして……異母兄上にはシャセット侯爵家の才能が色濃く引き継がれているというのに」
「僕には関係ない」
「僕がどんなに望んでもそんな力はないんだ!」
悲鳴のような声に改めてフリードを見つめた。
自分よりも3才年下の、望まれて生まれた異母弟。
愛されること、手を差し伸べてもらえることが当たり前すぎるのか、想像力が乏しいらしい。
胸の中に広がったどす黒い何かを誤魔化すように息を吐いた。
「勝手だな」
「異母兄上」
「上手くいかなかった。罵られるのが怖いから代わってくれと。そう聞こえる」
「貴方にはわからない!」
「わかるわけがない。父親が一緒だという事実があるだけで、家族でも何でもない。知ることなんてできないだろう」
重苦しい沈黙が広がった。たとえ不遇に育ったとしても現実は健康になり、求められる能力があるのだから、助けを求めれば助けてもらえるとフリードは思っている。その考えが透けて見えて、神経を逆なでる。
あまりにもしつこいようだったら、何か手を打たねばならないかと思いめぐらす。
ここで見過ごして後々まで口を出されることを考えたら、面倒でも先に潰しておくのも一つの方法か。
少し癖のある頼もしい友人たちを思い浮かべた。第5王子やクリフなどに相談すればいくらでも方法が出てきそうだ。
「他に話したいことはないの?」
どのくらい沈黙が続いたのだろう。どちらも口を開かずにいたら、カティアが軽やかな声で問いかけてきた。自分の思考に入り込み過ぎて、だんまりになっていたことに気が付いた。カティアに仄かな笑みを見せる。その顔を見てカティアはあらあらと目を細めた。
「これ以上は特に」
「そう? もっとどろっとした感情を持っていると思っていたけど」
「いや、本当に恨みとかありませんから」
「まあまあ、いい子に育ってしまって。お前に僕の気持ちなんてわかるわけがない、と言いながら殴り合ってもいいと思うのだけど」
「絶対にないです。そもそも僕に腕っぷしを求めないでください」
むっとして言い返せば、カティアはころころと笑う。
「ユリアンが何もないというのなら、わたしから一つだけフリード殿に」
「なんでしょうか?」
フリードは気持ちを吐き出したせいなのか、どこか呆けた様子でカティアへと顔を向けた。
「シャセット侯爵よりもあなたの方が資質はあるから安心しなさい」
「……どういうことですか?」
「うふふふ。今でこそシャセット侯爵として踏ん反りかえっているけれど、元々はシャセット侯爵のお兄さまが継ぐべき家だったのよ。だけど、ユリアンと同じように魔力が多すぎて体が弱かった。兄を見ているようで、あの男はユリアンを直視できなかったのよ。自分の息子なのにね」
辛らつな言葉にフリードが目を見開いた。
「え? 父上が僕と同じ立場?」
「そうよ。だから立派に育ったユリアンを見て、劣等感と罪悪感でどうにかなってしまいそうだから、贖罪も兼ねてシャセット侯爵家に連れ戻そうとしているのよ」
「でも、いつだってお前はユリアンに到底追い付かないと」
ようやくフリードがこの家にまでやってきた理由が分かった。
父親は社交界に出るようになった息子を見て、慌ててしまったのだろう。同時に自分と兄の関係も思い出して、自分を責めるようにフリードを責め始めた。
反吐の出るような話に、初めてこの異母弟をほんの少しだけ気の毒に思った。
「誰が何と言おうと、君がシャセット侯爵家の次期当主だ。生まれる前から望まれていたのは君なんだ」
「異母兄上」
「魔力の力がすべてではない。僕はそう思う」
受け入れたくないのか、フリードは表情を硬くしたままだ。貴族家の当主の魔力なんて有事の際にしか使われないのに、絶対なものだと信じる人間は多い。足りないのなら、他で補えばいいという発想がない。
家族が納得して自分もそういうものだと思えても、外からの評価は違うものだ。彼も貴族だ。無能だと嗤われることを恐れる気持ちはユリアンでも少しだけ理解できた。
とはいえ、手を差し伸べる義理も情もユリアンの中にはなかった。
「お母さま! ユリアンは無事!?」
扉が勢いよく開いた。遠くでマリアンヌを止める声がいくつも聞こえる。フリードは突然入ってきたマリアンヌに憎々し気な目を向けた。
「マリアンヌ、僕は大丈夫だ」
すぐさま立ち上がると、肩で息をしているマリアンヌに近づく。よほど慌ててやってきたのか綺麗に結われていたはずの髪が少しだけ乱れている。そっとほつれてしまった髪を指で整えた。
「実家から文句を言いに来た人がいるって玄関で聞いて」
「友達との茶会は楽しかった?」
「え? ええ、楽しかったわ。みんな惚気がすごいから、わたしも負けずにユリアンの素敵なところを喋りまくってきたのよ。わたしのユリアンほど素敵な人はいないというのに、まったくもう……!」
最後の方は何を言っているのか理解できなかったが、「わたしのユリアン」という言葉だけですべてが満たされる。先ほどまでの暗くて嫌な気持ちがふっと霧散した。
「わたしのお茶会はいいのよ! それよりもユリアンに嫌なことを言ったやつは誰よ!」
我に返ると、マリアンヌはフリードの方へと目を向けた。
「……ユリアンの異母弟? 色がおんなじ」
マリアンヌの視線がフリードに釘付けになる。それが気に入らなくて遮ろうとする前に、フリードが立ち上がった。
「初めまして。フリード・シャセットです。いつも異母兄がお世話になっております」
「マリアンヌ・ペンウッドよ。はっきり言っておくけど、ユリアンはそちらに返すつもりはない。ユリアンはペットじゃないんだから、都合がよくなったから貰っていきますなんて考えないでほしいわ」
「……異母兄上が戻りたいと言えば」
意味ありげにちらりと視線を向けられて、再び心の中に黒い靄が広がっていく。これ以上の会話は不要だという前にマリアンヌが否定した。
「ユリアンが帰りたいなんて言うわけないじゃない」
「わからないじゃないですか。婿になるよりも侯爵家当主の方が魅力的だと思います。もし異母兄上が当主になっても貴女と結婚したいというのなら、それも許すつもりです」
あまりの言い草に、ユリアンの感情が吹き荒れた。マリアンヌはフリードの煽りに呆れたようなため息をついた。
「バカじゃないの。そんなことを言いに来たの?」
「自信がないんですか?」
「自信とかそういう問題じゃなくて……。もしかして、あなたは死にそうな自分を放置していた家族が迎えに来たら、嬉しくて感激して泣いちゃうタイプなの? それとも愛がほんの少しも与えられなくても、愛し続けられる聖人なの? どちらにしろすごいマゾなのね」
フリードはマリアンヌの言葉が理解できなかったのか、眉間にしわを寄せている。
「幸せに育てられたようで何よりだわ。だけど、人の気持ちに疎い人間は社交界で生き残れないわよ」
マリアンヌの言葉が途切れたところで、彼女の腰に腕を回した。見せつける様にマリアンヌを抱き寄せる。マリアンヌはちょっとだけ嬉しそうに笑った。
「はっきり言おう。シャセット侯爵家に爪の先ほども思い入れはない。僕はペンウッド侯爵家の一人だ。これは変わることはない」
これで終わりだと告げれば、フリードは力が抜けたように椅子に座った。
カティアに視線を向ければ、にこりとほほ笑まれる。
「もういいわね。二人とも下がりなさい。後始末はしておいてあげる」
「ありがとうございます」
「じゃあ、ユリアンを連れていくわね」
意思表示も終わった。カティアのいいように話はまとまるだろう。ユリアンだけでなくマリアンヌにまで喧嘩を売ったのだから、きっと高くなるはずだ。
気の毒にと思ったが、仕方がない。
気持ちを切り替えると、マリアンヌを連れて応接室を退室した。応接室から十分に離れてから、マリアンヌの足が止まった。
ユリアンも自然と足を止める。マリアンヌはユリアンの前に回り込むとじっと見上げてきた。
「ねえ、あんなふうに言ってしまったけどユリアンはそれでよかったの?」
「何が?」
マリアンヌの聞きたいことがわからず、瞬いた。マリアンヌの瞳には不安が揺れていた。不安になる要素があったかと、先ほどのやり取りを思い出す。
「やっぱり血のつながりというのは求めるものが違うというのか」
「ああ、そういうことか。僕の家族はペンウッド侯爵家の人たちだ。ずっと側にいて欲しいと思うのはマリアンヌだよ」
「それならいいんだけど」
どこか釈然としていない様子に、思わず笑みが浮かぶ。悩むマリアンヌの姿がとても眩しい。
「許せないな」
「え?」
「こんなにもマリアンヌを悩ませるなら、シャセット侯爵家を潰した方がいいかもしれない」
ぽかんとしていたマリアンヌだったが、すぐに真っ青になった。
「ダメでしょう! それって、え、何をする気なの? そもそも可能なもの?!」
「簡単とは言わないけど……可能かな?」
「やっぱりユリアン、優秀過ぎるでしょう……」
そんなことをぼやきながら、マリアンヌはユリアンにぎゅっと抱き着いた。背中に腕を回され密着してくる。こうして抱きつかれると、あれほど大きいと思っていたマリアンヌが小さく感じる。華奢な体を包み込むようにして抱きしめ返した。
「急にどうした?」
「わたし、思っている以上にユリアンがいないと駄目みたい」
「マリアンヌ?」
「もしかしたらいなくなるかも、と考えたらすごく胸が苦しくなった」
歓喜というには純度の少ない喜びが胸の中に広がる。マリアンヌは頬をユリアンの胸につけているので表情があまり見えない。
それでよかった。マリアンヌがどんな顔をしているのか知りたいが、恐ろしいほど自分勝手な願いで喜ぶ自分の表情を見せたくないとも思う。
「愛している。僕は君の側にいるよ」
「ふふ。それはわたしのセリフだわ。でも嬉しい」
愛を囁き合うとゆっくりと唇を重ねた。
Fin.