香りの海に溺れる
人の少ない車両からホームへ降りる。慣れないヒールで足を進めながら時計を見れば、十三時ちょうどを指していた。見合いの席を設けた店まで最寄り駅は徒歩で五分。約束の時間まではかなり余裕がある。
普段は「研究室から出ないから」と無頓着でいるが、見合いとなれば話は違う。くせ毛の髪を丁寧に巻き、清楚な白いワンピースに淡い色のジャケットを羽織る。数週間前から念入りに手入れをしていた成果があり、化粧のノリも良い。春の一押しである、軽やかに甘く弾むローズの香水も、ほどよく馴染んでいる。
しかし、赤尾の表情は晴れなかった。
改札を出てから、おもむろに携帯端末を開く。すぐさま飛び込んでくる電話の着信マークに赤尾は柳眉をひそめた。
表示されているのは、職場の同僚の名だ。迷うことなく通話ボタンを押し、開口一番に「また蔦井?」と問う。すぐさまそれを肯定するように、同僚が苦笑した。
『――ご名答。ごめんね、休み中に』
「今度は何をやらかしたの」
蔦井、とは赤尾が勤めている香料メーカーの後輩だ。同じく調香師としてフレグランスの開発、研究をしている。中途で採用され共に仕事をすること早半年、今や彼はなくてはならない優秀な人材になっていた。
――定期的に引き起こす事件がなければ、もっと手放しに評価できただろうが。
有休中の赤尾に電話がかかってくるとすれば、蔦井関連の事件が発生したときだけ。同僚の申し訳なさそうな声に、赤尾の懸念が的中したことを知る。
「香料サンプルが紛失した? それとも提出書類がシュレッダー行きの束にまとめられていたとか、まったく別の荷物を納品先に送ったとか?」
『よくそんなに思いつくわね……いえね、実はあんたの私物を持って出て行ったみたいで』
「私物?」
『えぇ、仕事関連のノートではないと思うんだけれど。たしか、黒い手帳よ』
黒い手帳。そう聞いた途端、赤尾の目がキュ、と細められる。
『借りるって伝えてほしい、とだけ言われてさ。止められなかった。ごめん』
「……いえ、連絡してくれてありがとう。仕事には支障がないものだから、大丈夫よ」
それだけを伝えて電話を切る。そして、すばやく電話番号を打ち込み、発信した。発信先は蔦井だ。
二つ目のコール音の後、通話がつながった。ゴウ、と強い風の音が入ってくる。続いて、「あれ?」と惚けたような男の声が聞こえた。
『こんにちは、赤尾先輩。今日たしか休みですよね』
「勤務中のあなたは外で何しているの。あと、わたしの手帳を返してくれる?」
『僕はいま休憩中です。ちょっと仕事が煮詰まっちゃって。参考にと思って先輩のアイデア手帳借りたんですよ』
そう彼がしゃべっている間にも、ゴウゴウと吹きつける風の他に、音が聞こえてくる。
はためく布、しゅるりと解かれ固く結び直される靴紐、風にあおられ軋む幹、鳥の鳴き声、踏みしめられる砂つぶ、そして――押しては引いてを繰り返す、潮騒。
目を閉じて一つひとつの音を吟味した赤尾は、蔦井の居場所を言い当てた。
「あなた、海にいるのね。並木があって砂つぶが細かい……X地区の海岸ね」
断言すれば、通話先はしばし無言になる。
『さすが、猫の宿人相手にかくれんぼは無謀だなぁ』
話す間にも、赤尾は再び改札を通り抜けた。見合いの時間はとうに過ぎているが、一刻も早く蔦井の手から手帳を取り返さなければ。
「そこを、一歩も、動かないように」
間延びした返事を聞く間もなく、赤尾は苛立ちを隠さずに通話を切った。
***
その名の通り、生きとし生けるもの――草木や動物、果てには不可思議な生き物まで――が何らかの要因によって宿った人間を、《宿人》と呼ぶ。
宿人と呼ばれる存在は、はるか昔から存在していたらしく、かつては《憑き物付き》として隔離されたり虐げられたりしていたようだ。
確かに、宿ったものによって人ならざる力を発揮する姿は脅威に映るかもしれない。ただ、現代ではその特質が受け入れられ、能力を生かす職に就いているものがほとんどだった。
赤尾は猫の宿人だ。特に嗅覚や聴覚といった五感が突出している。その性質を生かし、今は調香師として活躍している。
職場にもちらほらと宿人がいる。蔦井も宿人だ。宿人の中でも数が多い、植物の。
ただ、同じ宿人ではあるものの、彼の能力を赤尾は心底恨んでいる。
電車に揺られて二十分。X地区の駅に降り立ったとき、すぐさま潮の匂いが届く。
ただでさえ猫の宿人として特化していた嗅覚が、調香師として技術が磨かれたことでより正確に匂いを教えてくれる。匂いに振り回されたくなくて常ならば気を散らしているが、今は人探しの最中だ。
周囲から立ち上り、運ばれ、残る香りを一つひとつ見分する。
蔦井が好む煙草の銘柄は鼻孔をくすぐる苦みの中にスパイシーなシナモンが香る。
使うシャンプーは清々しいミントの香りの中にグレープフルーツが顔を覗かせる。
洗剤は仕事中でも集中できるようにか、ほのかにミルクと柔らかいウッドで包み込むような匂いだ。
そして、肌からは――。
「――っ」
風に乗って運ばれた香りに、思わず赤尾は鼻を覆った。
気づけば、随分と波音が聞こえる海岸沿いの歩道にいる。歩くごとに、一層潮と砂と生活臭が混ざり合った空気が絡まる。
しかし、その中に覚えのある香りが混ざっていた。
高鳴る心臓を押さえて、もう一度香りを吸い込む。海辺の香りの中に、ひと際異質とも言える香り。
――見つけた。
近づくごとに強まるその香りに、心臓は飛び跳ね、頬は上気し、息もつけなくなりそうになる。そんな自分を冷静に捉えながらも、赤尾は香りの根源へ導かれるように進む足を止めることができなかった。
ようやく辿りついたのは、海岸を一望できる灯台のテラスだった。カツン、カツンとヒールを鳴らす音に気づいた男が振り返り、人懐っこい顔で笑う。
「あ、先輩。遅かったですね」
蔦井がいた。ストライプのシャツの上に、支給されている白衣をひっかけて風になびかせている。ひらひらと振る左手の、その反対には手帳が開かれていた。
それが自分のものだと分かると、赤尾はへたり込みそうになる足を叱咤し、駆け寄った。
「あなたねぇ、先輩の私物を勝手に持っていくのはやめなさいよ」
「言伝はしましたよ」
「それでも、こんなタイミングで」
そう言う赤尾をつま先から頭まで見た蔦井は、心底面白くなさそうなふてぶてしい顔で呟いた。
「あぁ、またお見合いですか。懲りないですね、先輩も」
こんなに邪魔しているのに。その言葉と共に件の香りが強くなる。煮詰まり気泡すら浮かばない、蜜のように甘く、深く沈み込む澱みのようなそれが、赤尾の鼻孔を塞いだ。
途端に、腰が砕けた赤尾を蔦井は抱きとめる。
一層匂いに近づき心臓が早鐘を打つ。パニックになった赤尾は引き離れようとするが、腰を支えられ離れられない。「落ち着いてください」と蔦井の困ったような声が聞こえたが、冗談じゃないと頭のどこかに残った冷静な部分で赤尾は毒づく。蔦井から離れれば、この症状は落ち着くのだから。
「あ、あなた、な、んで」
「何で、と言われても。いつもはTPOをわきまえているだけです。今はそうだな、その必要がないから、で良いですか?」
喘ぐように息をする赤尾に笑いかける蔦井は普段通りだ。それが憎たらしくて、赤尾はこの男を同じ職場に配属した人事を呪った。
蔦井は夏梅――いわゆる、またたびの宿人だ。
植物に憑かれた宿人は大抵その植物由来の香りをまとうことが多い。蔦井もまたそうだ。またたびの香りをまとうことができる。そして、その香りを嗅いでしまえば、猫の宿人である赤尾は腰砕けになってしまう。酷く簡単で単純でごもっともな作用だった。
それが赤尾にとっては反吐が出るほど憎い。
人一人会話困難にしておきながら、何が「その必要がないから」だ。
「はなしなさい」
「危ないからダメです。それに、この手帳を見るに、僕の匂い好きでしょう?」
「は」
見られた。そして感づかれた。沸騰するように熱かった身体が、一瞬冷えた。
目の前で蔦井が手帳を捲る。その手を止めたい、そんな願いは叶わず、あるページを指さした。
「これ、またたびの臭気の構成メモですね。まぁ、元々人間の鼻には引っかからない微弱な香りですからね、ハッカの香りを足して……そこから我流で匂いのノートを継ぎ足している」
ゆっくりと辿る指先には『甘く』『燃えるような』『ねっとりとした』と香りを表現するメモ書きが自分の文字で綴られている。
見るのも嫌で、手帳から視線を逸らす。が、それを愛おし気に見つめる蔦井の横顔が目に入り、息が詰まった。
「僕の匂い、こんな風に感じていたんですね」
香りが爆ぜた。そう感じた。これ以上ないほど匂いに包まれて、蔦井の胸にすがりついてしまいには身体をすりつけたくなる。
それを最後の理性で押しとどめて、赤尾は息を荒げて吠えた。
「あの、ねぇ、わたしはくりえーたぁよ。おなじにおい、さいげんしてどうす、の」
調香の師から数多教わったが、そのうちの一つが「香りの再現をするな」だった。香りの再現は誰にだってできることだ。表現師であるならば、己の感性を取り入れたものを作らなければ。その教えに赤尾は賛同したし、今もそう思っている。
赤尾が必死に紡いだ言葉に、蔦井は頷いた。
「だからこそ、です。この付け加えた言葉は、先輩の素直な言葉でしょう。だから嬉しい」
「え」
「普段はこんなにへそ曲がりだから、僕も自信喪失していたんですけれどね。こんなに好意が綴られているノートを見たら、もっと押すべきだなと思って」
「なにを」
「先輩、お見合い止めて、僕と付き合いませんか」
蔦井の黒黒とした目がまっすぐ赤尾を貫く。それを受けて、赤尾は息を忘れて――ようやく口を開いた。
「……ヤダ」
「えぇ……こんなに熱烈な言葉を素直に手帳に並べてるのに? 『愛撫するように』って普通香りの表現で書きます?」
「るっさい! 何もかもあなたの能力のせいよ!」
「何が嫌なんですか! せめて理由を! 僕がまたたびの宿人だってこと以外で!」
騒いでいるうちに匂いが薄くなる。徐々にクリアになった思考で延々と考え込む赤尾に「やっぱりまたたびか……」と蔦井は泣きそうだ。そんな彼を見て、小さくポツリと零した。
「だって……またたびに負けた感じがする」
「はい?」
「猫の宿人だし、相手がまたたびの宿人だったら、あぁ本能には勝てなかったんだって思われるのが腹が立つ。屈したみたいで」
そもそも、猫はまたたびの匂いではなくフェロモンに反応していると言われているにも関わらず、何故猫の宿人は香りとして感じてしまうのか。言い募ろうと思えばいくらでも不満は出てくる。それほどに、またたびに狂わされる自分が受け入れがたい。
「……またたび抜きだったら、僕のこと、好き?」
半身を全否定されつつも、蔦井はめげない。が、赤尾の言葉に膝をつく。
「や、でも蔦井くん女たらしだからな。ひっかけられてる、て周囲に思われるのもムカつく」
「…………ただちょっかいかけるだけの目的で女性のお見合い三度も妨害するわけないでしょう! 人を何だと思ってるんですか!」
「その言葉、あなたにそのままお返しするわ。わたしの有休返してちょうだい」
あと、どさくさに紛れて抱き寄せられたことを許していない。さっと離れる赤尾に蔦井は情けない顔をして、おもむろに挙手をした。
「やり直し! もう一回チャンスをください」
「どんな?」
「エベレスト級のプライドがある赤尾先輩がすんなり気持ちよく了承してくれるような、お膳立てをするので……!」
「またたび禁止ね」
泣きそうな顔をして頷いた蔦井に、赤尾はようやく微笑んだ。