弟
見てしまった。見てしまったのだ。
「はぁ……はぁ……」
暗い部屋にこもって息を整える。電気は点けない。少しでも動いたら叫んでしまいそうだから。
(これは夢だ。疲れるとすぐ悪夢を見る癖だ)
自己暗示を繰り返しても動悸は収まらない。どんなに深呼吸をしてもその度にさっきのことがフラッシュバックしてきて吐き気を催す。
「怜音……どうして」
どうしても頭から離れてくれない。玲音が――弟が母を殺したことが。
私はごく普通の両親のもとで贅沢でもなく、貧乏でもない一般家庭の生活を十八年間続けていった。その間に三つ下の怜音も生まれ、平凡な、けれど幸せな毎日を過ごしていた。
玲音は少しぶっきらぼうで親に反抗的になっていたものの無口ながらの優しさというのか、表立った功績はないけれどコツコツと自分にできることをこなしていた。
お母さんは専業主婦でお父さんは普通の会社員。私は学歴も顔も平々凡々。陰キャではないけどクラスの中心でもない、漫画でいうモブのような存在だった。
でも怜音は違った。切れ長でまつ毛の長い目。筋の通った高い、だけど気取らない鼻。角張っているわけでもなく、また余分な肉があるわけでもない頬。健康的な形のいい唇。
顔だけでもこんなに褒められるのに怜音を全部褒めだしたらきっとキリがない。それほどまでに完璧な人間だった。
三つ違うということで中学高校と重なることはなかった。だからなのか、怜音の噂を聞いた同級生や先輩からは橋渡し役のように手紙やお菓子をほぼ毎日のように渡されていました。
ここまで聞けば「怜音に嫉妬している」と思われるかもしれないけれど、そんなことは一度もなかった。
私はそれこそ怜音をかっこいいと思ったことはあってもちやほやされたい。モテたいなんて思うことはない。両親のように自分のなりたい職業に就いて、普通の人と結婚して、子どももそれなりに出来て、老後を過ごしたい。そんなはたから見たらつまらなそうな人生を送りたかった。
だけどそんな普通は十七の時狂っていった。いいえ。本当はもっと前からなのだろうけど、能天気な私の頭でも分かったのはその時だった。
「離婚?」
いつも遅くまで仕事をしてくるお父さんが早く帰ってくるということで久しぶりに四人で夕飯が食べられると内心わくわくしていた私は両親の言葉に驚きを隠せなかった。
「な、なんで? そんな素振り一度だって」
「今までは調停だったの。再構築か離婚かで揉めてて。変な噂を立てられても困るからこのことは内緒にしておこうって」
お母さんは淡々と私達に告げる。まるで予行練習でもしていたかのように。お父さんはお茶を飲んで一息ついている。怜音は何も言わない。驚いているのかそれとも知っていたのか。今となっても分からない。
「なんで離婚するの?」
「……子どもには関係ないことだ」
「急に離婚だって言われて納得できるような純粋な子じゃないよ」
「理由を話したところで離婚することに変わりはない」
今までの生活は全て仮面夫婦としての劇だったこと。私達を子ども呼ばわりして関係ないとはぐらかすこと。流石の私も怒りを覚えないことは無かった。
「理由が分からない限り離婚なんて認めない。たとえ別れたとしても暮らすことなんてできないよ」
「それでももう仕方の無いことなの。私とお父さんとどっちについて行くかは二人に任せるから」
胃がムカムカしてきた。二人に任せるって何? 勝手に別れを決めつけて子どもを巻き込んで自己中もいいところじゃない。心の中に留めておこうと思ったのについ口に出てしまった。
「そんな身勝手な人達が親だと思わなかった」
お母さんが傷ついたような顔をしたけど知らない。だって私は悪くない。被害者は私と怜音よ。
「……今冷静になれないから部屋戻る。じゃあね」
沈黙で満たされているリビングを足早に出ていく。自分の部屋に入って鍵を閉めて枕に顔を埋める。自然に目の前がぼやけていった。
なんで。どうして。ひどい。疑問と親に対しての責めの言葉が頭の中で響くだけで冷静になんてなれない。ゴミ箱がティッシュ塗れになるまで涙と鼻水を拭いてもまだ溢れてくる。
そのまま目を赤く腫らして寝落ちしてしまうまで泣き続けていた。
結局私はお母さんにつくことにした。お母さんは専業主婦で、養育費を渡されたとしてもこれから高校という怜音をまともに育てられない。だけど私はもう高三。これから就職すれば何も負担はない。だからお母さんを選んだ。
住んでいた一軒家の家はお父さん名義だから私達はアパートを借りた。元の家から三時間電車でかかるような田舎。
お母さんはパートを始めた。私は高校を中退して近くのスーパーの正社員になった。
お母さんは何度も私を気遣おうとするけど無視している。親に向かって失礼? 理由も話してくれないまま普通の幸せな生活さえ送らせてくれないどころか裏切った親に仕送りをしていることだけでも感謝してほしい。
田舎だからか近所付き合いは中々楽。母子家庭っていうところで少し怪しまれたこともあったけどそこはどうにかなった。皆優しい。売れ残りの惣菜をくれたり井戸端会議をしたり、一部を除いて平凡でのどかな五年間だった。
ねえどうして? どうして怜音がここにいるの? ねえ怜音。なんでお母さんの首を吊っているの?
「おかえり」
怜音は縄を引いて調節しながらこちらに気づいて少しだけ微笑んだ。私は危険を察知して寝室に駆け込む。
「はぁ……はぁ……」
お母さんの首を一周するように縄が巻いてあった。お母さんの口からは涎が垂れていて、目はぐるんと上を向いて泣いていた。
「姉さん」
心臓が止まりそうになる。アパートの扉は全部引き戸だから鍵はかけられない。怜音が引き戸を開けると同時に私は部屋の隅に逃げる。向こうには揺れているお母さんが見える。
「こ、殺さないで。ゆるして怜音」
そんな言葉が私の口から出た。怜音は一瞬ポカンと口を開けると見たことない笑顔で私に手を伸ばした。
「帰ろう姉さん。俺と一緒に暮らそう」
私の肩を抱いてほっぺにキスをする。
「もう邪魔者はいなくなった。俺もちゃんと就職してるよ。給料もそこそこあるし」
「お、お母さん……」
「あれはもういないよ。親父も殺したし。だから俺達は自由だよ」
「こ、ころ、殺し」
怜音の姿が恐ろしい。化け物のよう。目眩がする。
「大丈夫。姉さんに不自由はさせないから」
今度は額にキスされる。その瞬間プツリと糸が切れたように視界がブラックアウトした。
「可哀想に。お父さんが事故死してからお母さんが自殺してお姉さんも行方不明だなんて」
仕事の先輩や同僚からは毎回のように言われては同情されている。俺は見目がいいから少し憂いを帯びた表情をすれば誰でも味方になる。
ある日。父が酔っている間に自分から離婚の理由を吐いてくれた。
俺と姉さんは一切血が繋がっていなかった。姉さんは母の連れ子で、俺は父の連れ子だったらしい。俺達が産まれてから再婚したから言ってみれば姉さんとは赤の他人。
離婚を切り出したのは父だった。何でも俺を産んだ母親がもう一度やり直したいと泣き落としをしてきたから。何ともくだらない。だけどその時ばかりは両親に感謝をした。姉さんと完全な他人になれたのだから。
俺は離婚してから五年間。ひたすらに勉強をして高校も首席合格。かなりの高スペックで大学からいくつも推薦が来た。就職を選んだけど。
成人になって職場でも高い地位に選ばれた。これでやっと姉さんを迎えに行ける。それでも邪魔ものは多かった。両親は仲良く生活していて一家離散なんてものはない。一人暮らししようにも親が突然訪問してくることも考えられる。絶縁だって同じだ。何より無駄なことに金を使いたくない。そしていいことを考えた。
邪魔なやつは全員殺してしまえばいいんじゃないか。
そうだ。思い出した。こいつらは姉さんを苦しめ最後には泣かせたようなやつら。殺されて当然な人間なんだ。五年もこいつらの言いなりになってきた。もう自由になったって責められる筋合いはない。
結論から言えばほとんどが上手くいった。両親は事故死に見せかけて易々と殺せたし、義母が住んでいたところもすぐ見つかった。中年女性だったしなんの抵抗もなく殺せた。
だけど問題はそこからだった。自殺に見せかけてこっそり家を出て独り身になった姉さんを迎えに行く。そう計画していたのに──姉さんは帰ってきてしまった。
姉さんはすごく驚いて怯えて、隣の部屋に逃げてしまった。殺さないでとも言ってる。馬鹿だな。殺すわけないのに。
俺は姉さんを落ち着かせるために頬にキスをした。あれ。安心すると思ってたけど更に顔色が悪くなっちゃった。
「大丈夫。姉さんに不自由はさせないから」
姉さんは糸が切れたように気絶してしまった。
「ただいま」
俺は両親と暮らしていたマンションに帰ってきた。あの人達の痕跡が残るものは全て消し去りたいが、無駄遣いはしたくない。交通の便もいいし治安もいい。何より少し騒いでも音は漏れない。
「おかえり怜音」
姉さんは疲れ切ったような目で俺の方を向いた。料理中なのか包丁を持ってトマトを切っている。姉さんは料理が上手いからいつも楽しみにしてる。
「お風呂は沸いてるよ」
「じゃあ先に入る。今日の晩飯は?」
「ハンバーグだよ」
あの日から一年経って、姉さんも怯えた表情から昔の優しい表情に戻った。過去はどうあれ俺たちは幸せだ。
「じゃあ行ってくるー……うわっと」
俺は床に落ちている鎖に足を引っかけて躓いてしまった。
「ごめん姉さん。苦しくなかった?」
「……うん大丈夫」
俺は姉さんの首に巻いてある鎖に手をかける。うん。息も苦しそうじゃないし大丈夫かな。
「良かった。じゃあ行ってくるね」
今度は鎖に気をつけて風呂場に向かおうとする。だけど衝撃が背中に襲ってきた。
「は?」
目線だけを後ろに向ければ姉さんの手には包丁。そして包丁で刺されているのは俺の背中。血がどんどん広がっていく。
「なんで……」
「ごめんね怜音。ごめんね」
崩れる体に泣いている姉さんが馬乗りになる。包丁を掲げながら。
「もう駄目。私には耐えられない」
姉さんの目からはとめどなく涙が流れる。繋がっている鎖が小さく鳴る。
「一緒に逝こう」
姉さんの歪んだ笑顔を最後に俺の意識は黒く染まった。
女は冷たくなった弟から降りる。両手は真っ赤な液体で気持ち悪い。それを拭うこともせずに、自分の心臓の真上に包丁を押し当てる。
「ごめんね怜音。最低なお姉ちゃんでごめんね」
怜音がこんなことをしたのは自分のせいだ。五年前、怜音を見捨てたせいだ。まだ子どもの怜音の心を殺したせいだ。
「今度は絶対あなたを守る。何があっても怜音は守るからね」
女は包丁を力いっぱい自分の体に突き刺した。
二つの遺体は数日後、警察に見つかった。スーツを着た男と、その男を優しく抱きしめている女だった。