金金
妻が俺の金を必要としていた。
どうかしてるんじゃないかと俺は言った。本当に妻の馬鹿さ加減にはほとほとうんざりさせられる。だが、妻は俺の言葉を聞き入れなかった。
「元はと言えば、あなたから始まったことじゃないの!」
壁の塗料が剥がれるくらいの剣幕で妻は俺に怒鳴った。なぜ、この程度のことで怒るのか俺には意味が分からなかった。お願いだからそんなに怒鳴らないでほしい。妻のそんな姿を俺は見たくない。
「元はそうかもしれんが、まさかお前がここまでなるとは思わないじゃないか。俺は最初から面白半分だったんだ。日々の繰り返しに疲れて、ちょっと刺激的なことをやってみたくなっただけなんだ」
「つまり、こういうこと?」妻は自分の声の音量ボタンを押すと言葉を続けた。「私が勝手にやったことだと、でしゃばってやったことだと、そう言いたいってこと?」
「別にそこまでは言ってないだろ」
俺もリモコンのボタンを押した。
「俺はお前に、いい加減に止めてほしいと言っているんだ。こんな愚かなことに熱中して、人生を棒に振るようなことはしてほしくないと、そう思ってるんだ。一体、お前は何がしたいんだ。俺とどっちが大事なんだ」
「どっちも大事よ」妻は上目遣いになりながら俺に放った。リビングに置いてある皿が身を震わせるのが感じられた。
「どっちも大事だから……あの子を一生懸命育ててるんじゃない! あの子が大きくなれば、私たちは幸せになれるのよ。あなただって、きっと同じ気持ちのはずだわ。そうじゃなかったら、あの子を育てると決めることなんて、あなたが言うはずはないわ」
「だから言ってるだろう。面白半分だって、退屈しのぎだって」
妻が言い返してくる前に俺は反論を続けた。
「そもそも『あの子』って何なんだ。アレを、まるで自分の息子みたいに思ってるのか。じゃあなんだ、お前はあの子の養育費を俺に欲しいと言ってきてるってことか」
「そうよ。何がおかしいの。ただの『養育費』じゃないの」
「ただの、じゃねぇだろ!」俺は遂にいきり立った。もう、我慢の限界だった。
「お前はあいつに取りつかれてるんだ。踊らされてるんだ。そのことにいい加減気づけっ。洗脳されてるんだよ、お前は!」
「されてないわ! 私はただ、自分とあなたのためにやっているだけ」
「いや、されてる!」
「されてない!」
「されてる!」
押し問答が延々と続き、熱気に包まれる俺たち。しかし、闘いのリングから俺たちを引きずり下ろしたのはやはり、例の『あの子』だった。
うめき声を聞いて、妻は急に口を閉ざした。そして、静かにこれだけ言った。
「あの子が……私を呼んでいるわ」
瞳に動きがなかった。まるでロボットのように。俺はそこに妻の変わり果てた姿を見た。出逢ったあの頃とは違う……絶望の、枯れゆく花を見た。
妻はゆっくりと別の部屋に向かっていった。リビングから離れていった。
そもそも俺が雑誌の最後のページからこれを注文してしまったことが全ての災厄の始まりだった。
[金金]それが奴の名前だ。その名の通りマネキンで出来ている赤ん坊の人形で、時々スピーカーからうめき声を出して、金銭を欲しがるためにこういう名前がついたらしい。ふざけた名前だが、これが彼女を虜にした。
こいつの一番の魅力は、一定の金(つまり養育費)を奴に与えると、あるとき、俺たちに幸福をくれるというしくみだった。目標ラインが段階別で分けられているらしく、くれる幸せも、金を入れるたびに徐々に大きくなっていく。最初は一つの生卵に二つの黄身が入っている、くらいのものだったが、今では俺の嫌いな上司が突然クビになったり、彼女の魚アレルギーが治ったり、交通事故から急死に一生を得たりと、とんでもないことになっている。上司の件については俺に幸運が来ているから、単なる偶然だと俺は思っているのだが……妻はそれさえも奴のしたことだと思い込んでしまっている。
俺は回想するのをやめ、妻のいなくなったリビングの白い壁を眺めた。塗料は……剥がれ落ちていなかった。
リビングの扉を開け、恐る恐る彼女の部屋に向かった。奴はそこにいる。踊らされている妻を救えるのは俺しかいない。
静寂が恐怖を呼んで、俺は部屋のドアをゆっくりと開けた。無臭という匂いが鼻に入ってきた。
妻の横顔が見えた。彼女は床に正座をして、金金と向かい合っていた。小さな、とても小さな人形--これが俺たちを狂わせたのだ。
「あなた……」妻が目を合わせずに俺に言った。「こっちに来て」
不思議な感覚だった。まるで現実ではないような、RPGの世界にいるような、そんな浮世離れした感覚だった。
そう、きっとそうだ。俺は思った。こんな馬鹿げた話、きっと夢に違いないのだ。俺は夢を見ている。それに今まで気づいていなかっただけなのだ。
だが、彼女がこちらを向き、隣に来るように言ったとき、そんな俺の微かな希望は塔の最上階から崩れていってしまった。彼女の動かない瞳を見て俺は自分に言い聞かせた。これは夢でもなく、RPGでもない。現実に俺の目の前で起こっていることなのだと。
俺は妻の言う通りに彼女の隣に正座をして、奴と向き合った。隣にいるのが妻の身体を借りた別の誰かようだった。
「いま、お金をいれたの」彼女が感情の抑揚なく言った。
「二〇〇万円」彼女は続けた。「貯金から。これで最後にするつもり」
俺は怒りにどうしていいかわからず、驚嘆の表情で彼女の方を見た。憤りがやがて呆れに変わっていき、結局俺はなにも妻に言うことは出来なかった。
急に妻の横顔が微笑みに変わった。俺は恐ろしい予感がし、金金の方に目線を戻した。
明らかに変化が起こっていた。金金が、ただのマネキンが、全身に光を放ち身体を変化させていたのだ。光はすぐに眩いものになり、俺はまともに見られなくなった、恐怖で逃げ出したくなったが、身体がどうしてか動いてくれない。脳が命令を発しても俺の身体は硬直を続けていた。
そうしているうちに、光が徐々に弱くなっているのに気づいた。恐怖の次に生まれた感情は好奇心だった。一体、何が起きたのだろう。
光が完全に消えた。俺は本当に、本当に、その時、あんぐりと口を開けた。
「オギャーオギャーオギャー」
俺たちの眼前に、産まれたばかりと思われる本物の赤ん坊がいた。親を求めるように激しく泣いている。俺は開けた口を閉じられなくなった。言葉を、忘れた。
人間らしさを失った俺は、ゆっくりと妻の方を向いた。彼女がどんな反応をしているのか知りたくなったのだ。向くときに、出逢った頃の可憐な妻の姿が頭をよぎった。いま起きた恐ろしい事実を妻と一緒に分かち合いたかった。
「おっ……おい……」
妻が俺の方に顔を向ける。
「ねっ! だから言ったでしょ!」
そして、幸せそうな笑みになった。