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運命の特異点

作者: 去間閑

第2回星新一賞に応募し、落選した短編小説です。

誰の目にも触れないままにしておくよりはと思い、投稿しました。

過去は変えられないが、未来は変えられる。誰もがそう思い生きている。未来へ目を向けるため。あるいは、過去への未練を断ち切るため。しかし、もしもそうでないのだとしたら、どうなるのだろうか。

そんな取り留めのない思考をしながら、青年は公園のベンチで煙草を吹かしながら酒を飲んでいた。太陽はようやく西に傾き始めたばかりである。青年の隣には、壮年が腰を掛けていた。並んで座る二人は、どこか似ている。

時は数分前にさかのぼる。

公園の敷地のほぼ中心にあたる、なにもない空間に光が出現した。光が収まったとき、そこには二人の人物が立っていた。

「ここが……過去ですか、博士?」女性に尋ねられた壮年は、眼鏡のブリッジを押し上げながら、うつむいて目を閉じた。

「そうです、望月もちづきさん」そう答えた壮年は顔を上げ、言葉を続ける。

「前に話した通りです。私達の行動で未来を変えても、その結果は私達が元の時代へ帰る際に修正されて、なかったことになってしまいます。この時代の人間が起こした行動でなければ、未来を変えることができません」

「それで、私達に協力してくれるかもしれないこの時代の人というのは……?」

「あそこのベンチに座っている男が見えますか?」

「ええ……」よく見れば、その男はまだ明るいというのに、酒をあおっていた。

「あれは……この時代の私です。この頃から私は、時空についての研究をしていました。私達のことを、信じてくれるはずです」

驚く女性に、壮年は語る。

「私が変えたい過去も、この日なんです。暴走する車に気づいていれば、もしかしたら……と、ずっと考えていました」

「私に話をさせてください。これは元々、私の問題ですから」

「……わかりました」


「隣、いいかな?」壮年は青年の横に立ち、そう話しかけた。

壮年の方を振り向くのも面倒なのか、青年は問いかけに対して、アルコール飲料の缶から口を離さずに、頷くだけで返事をした。

「よっこいしょ」青年の隣に腰を下ろした壮年は、青年と同じ方向を向いたまま独り言のように呟いた。

「研究に行き詰っているようだね。私もよく、そうやって昼間から酒をあおっていたよ」

口をつけていた缶を飲み干してから、青年が口を開いた。

「……俺はもうすぐ死ぬのか?」

「君にしては面白い冗談だね。私は君のドッペルゲンガーではないよ。だいたい、君はまだこんなに老け込んではいないだろう?」

「確かにな。じゃあ、あんたは何なんだ? さっきから見てたが、そちらの方と一緒に何もないところから出て来ただろう」

「未来の君……と言えば、信じてくれるかな?」

「いつ頃の未来だ?」

「この時代から、三十年後といったところだ」

「もっと近い未来かと思った。あんた……若く見えるな」

「君が若い頃に老けて見えたおかげかな」

「それで……用件は何だ? ただの時間旅行じゃないだろう」

「それは、私がお話しします」女性が壮年と青年の会話に割り込んだ。

「これからこの場所で起こる事故を、防いで欲しいんです。私の大切な人の命を、取り戻すために」そこまで口にしてから、女性は視線を公園の一角に向けた。青年もそちらに目をやる。若い男女、と形容するには不似合いな、姉と弟のような二人がそこにいた。

「あれが、この時代の私です。私が十五歳、あの子は十二歳でした。傍から見れば、あの子が私に懐いているようにしか見えなかったかもしれません。あの子は私のこと、お姉ちゃんとしか呼びませんでしたから。でも、私は本気でした。私にとって、愛した人と呼べるのは、あの子だけです」

「……お話はわかりました。少し、席を外していただけませんか」

そして時は、現在に至る。

声が届かないところまで女性が離れてから、青年は再び口を開いた。

「どうして、あの人に嘘をついた?」

「何のことかな?」壮年はとぼけながら、内ポケットから煙草の箱を取り出した。

「うつむいて目を閉じるのは、俺が嘘をつくときの癖だ」青年は壮年の動作を指摘した。

先を続けてくれ、とでも言いたげに、壮年は煙草を口にくわえたまま無言で青年を見つめた。

「わかっているだろう。俺とあんたは、厳密には同一の存在じゃない。もし本当に俺とあんたが、同じ世界の別の時間軸に存在する同一人物なら、俺達は対消滅を起こして消えているはずだ。俺達は……限りなく近い平行世界の別人同士だ」

壮年は何も言わずに、煙草に火をつける。

「もし俺がこの世界の未来を変えても、あんたの世界にはなんの影響もない。あの人の恋人が蘇えるなんてこともない」

吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出してから、ようやく壮年は話し始めた。

「彼女は、私のスポンサーでもある。彼女の資金援助がなければ、私は研究を続けられなかった」

「だからだましたのか。未来への希望をエサにして」

「未来ではない。彼女の希望は過去にあった」

「どっちでも同じことだろう。過去を変えれば未来が変わる」

青年はいらだちを隠そうともしない。それを見て壮年は、思わず破顔してしまった。

「何がおかしい」

「いやあ、すまない。私にも若い時代があったんだな。昔の私が、そんな若さの象徴みたいな熱っぽいものを持っていたとは知らなかった」

煙草を口にくわえたまま、壮年は両手を大げさに広げて、何かのプレゼンテーションの発表者のようなポーズを取った。

「研究費を得るためのブラフやパフォーマンスなんて、どこの研究者でもやっているだろう。私の場合は、そのスケールが少々大きかっただけのことだ」

「罪悪感はないのか」青年の問いかけに、壮年は視線を逸らしたまま答えない。普通なら、無視していると判断されても不思議はないほどの時間が経過しても、壮年はただ黙って煙草をくゆらせている。しかし、青年は知っている。こういうときの自分は、答えを考えている状態だということを。次の言葉を壮年が見つけるまで、青年は待つことにした。

「……私個人の感情に何の意味がある? 『ある』と言ったからといって、それが免罪符になるわけではないだろう」ようやく壮年が発した言葉は、質問の答えとしては趣旨がずれているように思えた。だが、罪悪感を否定はしていない。

「最低だな」

「君だって、大して変わらないはずだ」

「俺はあんたとは違う」

「なら、未来を変えてみるといい。そうすれば、君の未来は私の未来とは異なるものになる」

「それが、あんたの狙いか? 俺を挑発して、その気にさせるのが」

「……君の想像に任せるよ」壮年は微笑み、青年の追及をはぐらかした。

「……気に入らないな。俺がタイムマシンを完成させたら、あんたの過去も変えてやる」

「残念だが、それは不可能だ」

「何?」

「私ぐらいの歳まで研究すればわかる。君がタイムトラベルで転移できるのは、私の世界ではない。私や君の世界にとてもよく似た、また別の世界だ」

その言葉を聞いた青年は、悔し紛れに煙草の火をもみ消しながら、缶の中身を飲み干した。そしてすぐさま、新しい缶に手を伸ばして飲み始めた。

青年はアルコール飲料の缶を持っていない方の手を、歳を取った自分へ差し出す。

「……一本くれ」

「自分のはないのか?」

「とっくに吸い切っちまったよ」空になった煙草の箱を見せながら、口をへの字に歪める。

「では、私も一本もらおうかな」

壮年は煙草を一本差し出しながら、もう片方の手で青年の傍らの缶を一本手に取った。受け取った煙草に火をつけた青年が、口から煙を昇らせて呟く。

「あんた……まだこの銘柄、吸ってるのか」

「一度身に付いた習慣というのは、なかなか変わらないものだ。おかげで苦労しているよ」

「医者に止められている、とかか?」

「実は酒も煙草も、こちらではもうほとんど売られてないんだ」

「どういうことだ?」

「要するに、体に悪いものはやめようということだ。今では売られているのは害のない代用品ばかりだ」

「じゃあ、こいつは?」指に挟んだ煙草を持ち上げて、青年が尋ねる。

「販売中止になる前に買い占めたんだよ。日持ちしそうな蒸留酒と一緒にね」

そう言いながら、手に取った缶を開け、口をつけた。

「ビールを飲むのは何年ぶりかな……」呟きと共に、ため息を漏らす。

「それは発泡酒だ」青年が壮年の間違いを即座に訂正する。

「まあ、いいじゃないか。細かいことは」壮年の口調が、わずかだが明るくなる。

「やはりこうして、アルコールやニコチンを直に摂取するのは格別だ」

壮年の目つきが、どこか遠くを見るものに変わった。

「事故を起こした……いや、これから事故を起こすことになる運転手は、麻薬を使用していた。恋人を失った彼女は、自分の部屋にこもって本を読み漁るようになったらしい。それから月日が流れて、彼女は研究者の道へ進んだ。世界から麻薬をなくすためにだ。研究成果が形になると、彼女は特許も取らずに製薬会社へ技術提供をした。一刻も早く市場に流通させたかったんだろう。おかげで麻薬の密売人達は廃業だ。合法的に同じ効果の薬が手に入るのに、本物を売っても儲からないからな。麻薬が撲滅されてからしばらくすると、製薬会社の業績は一時的に伸び悩んだ。食い扶持を稼ぐために、製薬会社は新しい事業を展開した。目をつけられたのが……」

「酒と煙草って訳か」青年の言葉に、壮年は頷く。

「酒も煙草も、麻薬ほどではないにしろ依存性がある。元々、酒や煙草が嫌いな連中もいたから、禁酒禁煙の大義名分には困らなかった。こちらでは、酒や煙草をたしなんでいるような奴は、社会不適合者の烙印を押されてしまう」

「……嫌な世の中だ」

「君や私にとってはそうかもしれんが……大抵の人にとっては健康的で平和な世の中だ」

「今の話からすると、あの人は俺やあんたのことを快くは思ってないんじゃないのか」

「私も面と向かって言われたことはないが……心中は穏やかではないだろうな」

「だったらなんでわざわざ、あの人はあんたを頼って来たんだ?」

「私以外の者では、タイムマシンの製作は不可能だったからだ」黄ばんだ歯をのぞかせて、意地の悪い笑みを壮年が浮かべる。青年は眉をひそめた。

「……信じられないな。この分野で俺やあんたより優秀な奴は、山ほどいるはずだ」

「そうだ。君も知っている通り、彼らはみな、私よりもずっと優秀だった。だが……ほんの少しだけ運がなかった。タイムトラベルの理論を完成させるための最後のピースを、彼らは生きているうちに見つけることができなかった。そうしているうちに時空関係の研究は下火になり……彼らの後継者も現れることはなかった」

「なるほどな……」あざけるような笑みを浮かべて、青年が呟く。

「しぶとく生き残って最後のピースを見つけたあんたが、全部独り占めって訳か」

「教わっただろう? 研究を成功させる秘訣は……死なないことだと」

不意に、壮年の顔から笑顔が消えた。

「彼女に言ったことは、まるっきり嘘というわけではない。この日から、私の中で何かが変わってしまった気がするんだ。もしあの少年を救えていたなら、私の運命も何か違っていたかもしれない。そう思えて仕方がないんだ」

滅多に人と目を合わせることをしない壮年が、青年の目を見た。

「私を助けてくれないか」

「……わかったよ」

「だが……」口角をつり上げて、青年が笑った。

「……酒と煙草がある世界を守るためと言ってくれた方が信じられたぞ」

「まあ……確かにそれもある」目をそらしながら、壮年も笑った。

「フフ……最初から素直にそう言えばいいだろう」

壮年と青年のどちらも気づいてはいなかったが、二人はよく似た顔で笑い合っていた。


時が、運命の特異点に到達した。

耳をつんざくような急ブレーキの音。少女の悲鳴が上がる。アスファルトに横たわる、青年と少年。少年の方は、泣きじゃくりながら叫んでいた。

青年は、空を見上げるように仰向けになったまま、身動きひとつしない。

青年は奇妙に思っていた。今日は雨など降っていないのに、アスファルトの地面が濡れていることを。すぐに、それが自分の血のせいだと気づいた。そこで、青年の意識が遠くなっていく。青年の耳には、すぐ隣にいる少年の泣き声も、どこか遠くの音のように聞こえていた。そのぼんやりとした泣き声に不思議な満足感を覚えながら、青年は意識を手放した。

壮年の腕時計が滞在時間の限界を告げる。周囲の風景が、歪みながら暗闇に沈んでいった。


時間の旅行を終えた二人は、博士の研究室にいた。

「何も……変わっていないみたいですね」

声と肩を震わせ、望月は絞り出すように呟く。

そんな望月を見て博士は、胸に痛みが走ったような気がした。

「望月さん、私は……」博士は言いかけた言葉を、振り返った彼女の、涙をためた瞳を見た途端、飲み込んでしまった。

「博士……私、知ってました。この世界の過去を変えることは……」

ひとすじの雫が、悲しく微笑む彼女の瞳からこぼれた。

「私の知るあの子を取り戻すことは、不可能だということを」

驚きに目を見開いた博士を見据えて、望月は言葉を続けた。

「それでも、私はいいと思いました。どこかの世界で、あの子が生きていてくれるなら……」しゃくり上げるように、彼女は息を深く吸い込んだ。

「たとえ、私があの子と共に生きることは出来なくても、その世界の私が幸せになってくれるなら……」取り繕おうとした微笑みは、すぐに崩れてしまった。顔を両手で覆うと、望月は膝から崩れ落ちた。

「そう、心に決めたはずなのに……駄目みたいです。私は、別の私の幸せを願えるような人間じゃなかった。私は結局、自分が幸せになりたかっただけなんです」

飲み込んだ言葉を吐き出すこともできず、博士は立ち尽くした。

不意に、甲高い小さな音が博士の耳に聞こえてきた。耳鳴りだろうかと博士が思った次の瞬間、顔を上げた望月と目が合った。どうやら望月にも、同じ音が聞こえているようだ。次第に音が大きくなっていく。今度は、視界が揺れ始めた。

「地震……!?」

「いや……違う! 何だこれは……」

混乱しながらも、望月の推測を博士は否定することができた。揺れが体に全く伝わってこなかったからだ。高音は目まいがしそうなほど鳴り響き、近くの物体の揺れは残像が見えるほど激しくなった。そしてすべての物体が、少しずつ光を発し始めた。最後には、彼らは目がくらむほどのまぶしい光に包まれた──。


一夜が明けた。博士は誰もいない研究室でひとり紫煙をくゆらせながら、先程までそこにいた訪問者のことを思い返していた。

「まるで……夢を見てるみたいです」

「私もですよ、望月さん……いえ、神奈かんなさん」

博士がしたことは、世界を改変する行為であった。その改変による歪みが、二人に現れていた。世界が改変される以前と以後の記憶を同時に保持している影響で、博士と望月神奈の記憶はまだ混乱していた。

「そういえば、みちるくんは?」その名は、望月の子供のものである。

さとるが……主人が、面倒を見ています」主人、という言葉を噛み締めるように神奈は発した。

「博士。博士には、本当になんてお礼を言ったらいいのか……」

「この結果は、私も予想していなかったことです。お礼を言うべきなのは私の方です。神奈さんのおかげで、私はタイムマシンを製作することができた。そして、タイムトラベルが可能だと実証できた。それだけで、私は満足ですよ」

「でも、博士は……」神奈は博士の足下に視線を落とす。

博士のズボンの両すそからは、金属光沢を放つ足首と、それに連結された靴がのぞいていた。

「気にはしていません。どうやらこちらの世界では、保険金のおかげで研究が続けられたようですし」手書きのノートを見ながら、博士は穏やかに微笑む。それは、日記をつけない博士が日記と同じくらいまめに記録をつけていた、研究ノートだった。

「いったい、何が起こったんでしょう……」神奈は疑問をぶつけてきた。

「あくまでも推論に推論を重ねたものに過ぎませんが……ひとつの仮説を立てることはできます」博士は眼鏡を外してレンズをふきながら、自分なりの答えを話すことにした。

「あの世界の私は、確かに悟君を助けました。私が最後に見た光景では、彼は酷い怪我を負ったように見えましたが……どうにか一命を取り留めたのでしょう。そしてその後……私のようにタイムマシンを造り上げた。そして、私がしたように近しい平行世界へと転移し、その世界の私に、その世界の悟君を助けることを頼んだのではないでしょうか……」そこで一旦話を区切ると、博士は眼鏡を掛け直した。そして先程よりも少々興奮気味に、また自分の仮説を語り始めた。

「今話した、タイムトラベルによる歴史の書き換えが、いくつもの世界へ連鎖していった。そして、宇宙を直進し続ければやがては出発点へ戻って来ると言われているように……因果が私達のところへめぐってきた。希望的観測ですが……私という人間が存在しているあらゆる世界で、神奈さんの願いはかなったのかもしれません」

「結果的には……私自身も、この実験の被験者だったと言えるでしょう」そう言って自論を締めくくった博士の瞳には、子供のように純粋な好奇心の光が宿っていた。


頭上からの物音で、博士は現実に引き戻された。階上から階段を下りる足音が響いてきたのに続いて、博士の研究室のドアが開く。そちらに視線を向けた博士は、黒い髪を肩まで伸ばし黒縁の眼鏡を掛けた、年若い少女のような助手と目が合った。ほとんど化粧っ気のないその顔にはそばかすが見えるが、その方がむしろ愛らしさがあると博士はよく思う。

「おはようございます、博士」

「おはよう、鈴木君」

「それで博士、今回の報酬は……」

「鈴木君の分は、そこのトランクの中にある」

「現物支給……ってことはもしかして、貴金属とかですか!」

「開けてみればわかるよ」

トランクを開けた途端、助手の笑顔がきょとんとしたものに変わった。

「博士……何ですか、この紙の束」

「実物を見るのは初めてかい? 紙幣だよ」

「え? でも……資料で見たことあるのと違いますよ。日本人じゃないみたいだし」

「米ドルだからね」

「ベイドル……ジンバブエ・ドルとかの仲間ですか?」助手の顔が引きつり始めた。

「まあ、一応はね」

「お宝として、価値があったりとかは……」

「そういう価値はあまりないと思うよ。かつては世界で一番流通してた通貨だから……」

「なんで、電子マネーでもらわなかったんですか!」さっきまで笑っていた助手が、今度は怒り出した。この喜怒哀楽の激しさにも慣れてきたなと感じつつ、博士はなだめることにした。

「先方の希望だよ。だいたい、私のような怪しい人間が、電子マネーなんて記録が残る金を受け取れるわけがないだろう? 先方に迷惑がかかるし、誰かにタイムマシンのことを嗅ぎつけられでもしたら、厄介だ」

「だからって、昔のお金なんてもらっても……」

「大丈夫だよ、鈴木君」そう言って博士は、うなだれる助手に一枚のメモ用紙を渡す。

その紙には、アメリカドル紙幣から世界共通の電子マネーへ両替する場合の為替レートが、博士の字で書かれていた。

「法律上はまだ額面通りの通貨として有効だよ。ちなみに、鈴木君が今持っている一束で一万ドルだ」

「こ……これだけで、そんなにするんですか! だったら、これ全部で……!」

「君、そんなに暗算が得意だったのかい?」

「お金の計算は別です! よかったあ……」

どうやら彼女は、「ドル」と聞いてジンバブエ・ドルのような紙くず同然の通貨だと勘違いしてしまったらしい。

「こんな重そうなの、博士の若い頃の人は持ち歩いてたんですか」

「ごく一部の人はね。普通の庶民は、そこまでの金額の金には縁がなかったよ」

博士は助手と会話を続けながら、冷蔵ケースからワインの瓶を引っ張りだしていた。ケースの中には、まだ様々な種類のアルコールがある。

博士は食器棚からワイングラスを二つ取り出し、ワインを注ぎ始めた。

「博士……私、飲めませんよ」

「そういえば、そうだったね。すっかり忘れていたよ」

博士は、助手が酒を飲めないことを失念していた。

「グラスを持って乾杯に付き合ってくれるだけで構わないよ」

「結局、博士が全部飲むだけですもんね」

「そういうこと。それじゃあ……乾杯」

ワインを一口味わった博士は、助手と目が合った。珍しく神妙な顔で、こちらを見つめている。

「どうかしたかい?」

「いえ……博士って、やっぱり人間なんだなって」

助手の発言の意図を図りかねた博士は、首を傾げた。

「初めて会ったとき、博士のことを間違えちゃいましたよね。脚の金属骨格が、初期型のパーツと同じだったから……」

「フフ……そうか。やはり私は、人間らしくないのか……」自嘲気味に博士が呟く。

相手を気遣うという面においては、人間である博士よりも人間でない助手の方が、人間味にあふれていた。その人間らしさを今回も助手は発揮して、話題を切り替えた。

「そ、そういえば、気になったんですけど……」

「何かな?」助手の優しさを薄々と感じた博士は、その流れに乗ることにした。

「博士は別の世界の博士の、未来を変えたんですよね」

「そういうことになるね」

「だったら、その別の世界の博士がタイムマシンを造る必要はなかったんじゃないんですか? もう未来は変わったんだし」

「私は元々、過去を変えるためにタイムマシンを造ろうとしたわけではないからね」

「じゃあ、何のためですか?」

「強いて言うなら、自分のためだね。ただの好奇心だよ」

「世のため、人のためとかじゃないんですか?」

「本気でそんなことを理由にする奴がいたら、余程のお人好しかサイコパスのどちらかじゃないかな。第一、タイムマシンが世に知れたら、悪用されかねないよ」

「変えられるのは平行世界の過去だから、そんなに心配しなくてもいいんじゃあ……?」

「今回の一件で、タイムトラベルの影響が元の世界にまで波及する可能性があることがわかってしまった。もう、軽々しくタイムトラベルは出来ないよ」

「でも、神奈さんみたいに不幸な過去を変えられるなら……」

「神奈さんの場合は、例外中の例外だよ。研究費と報酬を用意してくれたからね」

「博士……本当に冷たい人ですね」

「それなら……君は今回、タダ働きでいいのかな?」

「そ、それとこれとは話が別です!」

「ふふふ、冗談だよ」

そのとき、研究室に置かれた情報端末から、交通事故のニュースが流れてきた。事故現場である公園が映し出される。それと同時に、事故を起こした運転手の体内から麻薬が検出されたとの情報が報じられていた。

「めでたし、めでたし……とはいかなかったか」溜め息をついた後、静かに冷めたような口調で博士は呟いた。望月神奈の未来が変わった影響で、麻薬はまだこの世界にはびこっている。

「どうするんですか、博士?」助手の問いかけに、一杯目のグラスの中身を飲み干してから博士は返答する。

「どうもしないよ」さほど興味もなさそうな返事が帰ってきた。そしてすぐさま、助手が手に持っているグラスへ手を伸ばそうとした。

「何もしないんですか? 博士なら、世界を幸せにできるのに……」

助手の言葉に、博士は手を伸ばした姿勢で固まった。そのままの体勢で首を傾げた以外、身じろぎひとつしない。本当に自分達の祖先のようだ、と助手は思った。

「世界のすべてを幸福にできるなんて、私は思っていないよ」博士は眼鏡のブリッジを押し上げながら、うつむいて目を閉じた。

「そもそも、世界の幸せというのは誰が決めるんだい? 誰かにとっての幸福な未来は、他の誰かにとっての不幸な未来かもしれない。私は神様じゃないんだ。そんな重過ぎる責任は……取れないよ」そう語る博士の瞳は、助手の義眼よりも暗い色を帯びていた。

博士は助手の手からグラスを優しく、それでいてしっかりとした手つきで受け取った。

沈黙が、二人のいる研究室を包み込んだ。

その沈黙のおかげで、二人は外がやけに騒がしいことに気づいた。外を監視させている隠しカメラの映像に、武装した連中が映りこむ。

「もう、嗅ぎつけられたか!」

「博士、まずいですよ! この格好……警察です!」

「いや、恐らく違う。データベースに登録がない」不法に入手した警察関係者の顔認証データと襲撃者達の顔を照合した結果だった。

「まったく……酔いが醒めてしまったよ」

「どうするんですか?」

「迎え撃つ」何事も考え込むことが多い博士にしては珍しく、即答だった。

「タイムマシンを置いて逃げるわけにはいかない。壊すのはもっと御免だ」

「鈴木君もあれを置いていきたくはないだろう?」札束の詰まったトランクを指差して、博士は尋ねた。

「当然です!」先程まで二人の間に漂っていた空気はどこかへ消え去ってしまっていた。博士はグラスに入っていた残りのワインを一気に流し込んだ。

「よし……今ある世界を守ろう、鈴木君」

「はい!」

奇妙な二人の、慌ただしい一日が始まろうとしていた。


お楽しみいただけたなら、幸いです。

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