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野良怪談百物語

歩きタバコ

作者: 木下秋

 澄んだ星空だった。


 見上げれば、オリオン座がポツポツと光っている。


 草木も眠る丑三つ時。冬の冷たい空気を切り裂くように、仕事帰りの男が早足で家路を急いでいた。


 静止画のような住宅街。動くものは、男と煙だけ。


 男は歩きながら、煙草を吸っていた。ちょうど、『歩きタバコ禁止』の看板を通り過ぎ、男はそちらをチラリと見る。



(……どうせ、誰も見てねェ)



 革靴にスーツ、コート。マフラー含めて、全て黒ずくめである。そして、同じく黒い革の手袋。左手をポケットに突っ込み、右手はぶら下げ、副流煙ふくりゅうえんをくゆらせる。


 暗闇に溶け込みそうなその男は、煙によってかろうじて輪郭をとどめているようだった。


 右手を口元に近づけて、ゆっくり、味わうように吸う。そしてそれを離し、少し鼻で息を吸って、吐く。


 フゥゥッ。


 前方に吐かれた煙はその場に滞留たいりゅうする。男はその中を突っ切るように、歩く。



 ――視界に、保育園が見えてきた。今は息子が通い、かつて自分が通っていた保育園。


 中の様子は、ほとんど変わってしまっていた。毎日遊んだ遊具たちはどれもなくなり、新しいものに変わってしまっている。


 郷愁感きょうしゅうかんを覚えながら、柵越しに園内を見る。ふと前を向き直ると、その保育園の正門前に、女が突っ立っていた。


 暗闇の中できらきら光る白髪混じりの髪が、腰まで伸びている。微塵の水分も感じさせない、枯れ枝のような髪だった。身体は拒食症患者のように、異様に細い。背は女性にしては高く、百六十以上はあるだろう。腰が全く曲がっていないところから想像するに、見た目より若いのかもしれない。


 見窄みすぼらしいボロボロの服に身を包んだ女は、園内を虚ろな目で見つめていた。そして、何かブツブツ呟いている。


 男は一瞬で、“これは関わってはいけない人間”だと判断した。見なかったふりをし、通り過ぎようとする。


 通り過ぎる瞬間、妙な臭いが鼻をついた。ごみむさぼる、野犬のような臭い――。



「ねぇ」



 ビクリと反応し、男は反射的に振り返った。そして、すぐに後悔した。


 女が、こちらを向いている。



「…………歩きタバコは、やめてよ」



 やはり、老婆にしては声が若い。女の背後には外灯があり、逆光で表情はうかがえない。


 しかし、ぎらぎらと光る両眼だけは、光っているかのようにはっきり見えた。



「は……はぁ……?」



 その異様な光景に、返事を振り絞るのがやっとだった。



(“歩きタバコをやめろ”ってェ……?)



 男は意味がわからなかった。なぜやめなきゃいけないのか。……条例で決まってるから? でも、今は深夜の二時だ。誰にも迷惑をかけてない。


 かねてより煙草が自由に吸えなくなった世の中に不満を抱いていた男は、だんだんと怒りを覚え始める。



「……なんでアンタにそんなことを言われなくちゃあならないんだ。なんで“歩きタバコ”をやめなくちゃあならない」



 女の身体が、ビクリと強張る。


 そして、震えるように言った。



「…………だって……子どもに当たったらあぶないでしょう」



(……はぁ?)



 子どもに当たったら危ないぃ? 何を言ってんだコイツは。今何時だと――。



 その時。男の右足――スラックスの膝裏辺りを――何かが掴んだ。そして、弱々しい力でクイッ、と引っ張る。



 男は、全身が凍ったように動けなくなった。目の前の女を凝視した。震えていた女は、徐々にそれを笑いの震えに変える。


 クッ、クッ、クッ。ウッ、フッ、フッ。と、肩を揺らせて笑っていた。逆光でよく見えないその暗い顔に、笑みがへばりついている。


 男は全身の力を振り絞るようにしてきびすを返すと、一度たりとも振り返らずに、全力で走った。


 振り返る時、膝にあった感触が離れ、何かを蹴飛ばした。しかし、それも見なかった。見ないようにして、ひたすら前を見て走った。


 家に着いた時、手に煙草はなかった。どこかに落としてきてしまったらしい。


 恐る恐る、右足の膝裏を見ると、なぜかそこには泥が付着していた。

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