それなら、俺は
「なんで着信拒否してるの?」
翌週、講義の始まる直前に、彼は私の座る席の前まで来ていた。
叱られた犬のような情けない表情だった。
私は黙りこくって、それを無視した。
「何か悪いことをしたなら謝るよ。何が悪かったかわからないんだ」
私は、返事をしない。
智子は、我関せずと言った様子だ。事情がわからないから、口を挟むのが躊躇われたのだろう。
周囲の生徒の視線が私達に集まっている。
注目されようと知ったことか、と私は思った。
「事情を言ってくれれば、いくらでも謝る」
「いくらでもって、やっすい謝罪……」
私は、思わずぼやくように言っていた。
「許してくれるなら、なんでもするよ」
「じゃあ一生私の視界から消えて」
「……それ、中退しろってこと?」
そんなつもりでないことは、彼も知っているだろう。
わざわざそんな言い方をする彼に、私は苛立って口を閉ざした。
「また、来る」
彼は苦い顔でそう言うと、友人達の元へ戻って行った。
彼らの数人は、訝しげにこちらを見ている。
私はその視線から逃げるようにして、智子に視線を向けた。
昼休みに、翔太の恋人と話したことの内容を告げると、智子は苦笑いを顔に浮かべた。
場所は、学食である。周囲は生徒達の喧騒に包まれていて、開いている席も少ない。
智子は家から作ってきた弁当を、私はカウンターで注文したきつねうどんを食べている。
「案外、女性にだらしなかったんだ」
「軽薄な男だったのよ」
「それは、怒るね」
「でしょ? 誰だって怒るわよ、そんなの」
思い出すと、私はまた苛々としてきた。
「けど、前にも似たようなことなかったっけ」
苛立っていた私は、その一言で少し冷静になった。
頭の歯車が勢い良く回り始める。
「今回は、彼女さんが実際にいるんだから。恋人でもないのに、いちゃいちゃする?」
あの時との違いは、もう一つある。あの時の私は、事情を知らずに距離を置かれる彼を気の毒だと思っていた。
けれども今回は、純粋な怒りしか覚えていないのだ。
もっとも、前回の彼には恋人はおらず、今回の彼は恋人をないがしろにしている。
その差は、大きかった。
「まあ、誰とでもいちゃいちゃする人でも嫌だしね」
しかし、それでも翔太は諦めていないのだった。
講義が終わり、帰ろうとした時のことだった。
大学の敷地の外まで後数歩というところで、私は翔太に見つかった。
「待ってよ」
翔太の声が背後からした。
私は構わず、歩き続けた。
「待ってって」
翔太が、私の肩を掴んだ。
私は乱暴にそれを払いのけた。
「恋人でも、出来たの?」
思いもしない言葉に、私は呆気にとられた。
そして、数秒送れて、マグマのように煮えたぎった怒りが体を支配した。
「なんでそんなこと思うの?」
「服の趣味が、変わったから」
「鬱陶しい」
私は、吐き捨てるように言っていた。
「そういう勘繰りをするの、本当に鬱陶しい」
「事情ぐらい言ってくれないと、納得いかないことってあるでしょ。俺はお姉さんのこと、仲の良い友達だと思ってた。恋人が出来たとか、そんな外的要因で切れるぐらい薄い縁だとは思ってなかった」
その台詞は、恋人が出来ても私とデートしようとする自分を正当化しようとする言葉のように思えた。
私は、彼の恋人が告げたことを吐き出してしまおうかと思った。恋人に不義理な人間など嫌いだと言いたかった。
しかし、言えば彼は恋人を責めるだろう。
「追ってきたら、警察呼ぶ」
私は吐き捨てて、その場を後にした。
土曜日の昼になった。
あれ以来、翔太に追いかけられることもなくなった。
彼も、諦めたのだろうか。
元々細かった二人を繋ぐ糸は、あっさりと千切れた。
私は、部屋で映画を見ていた。
彼に影響されて、レンタルDVDショップで借りた作品だった。
それを思うと、私は少しだけ切なくなった。
数日前ならば、DVDデッキを捨てたくなったかもしれない。しかし、そんな怒りは、既に失せていた。
サスペンス映画だった。広い館に閉じ込められた主人公が、犯罪者達に追われるという作品だ。
足音を殺して移動する主人公に、私は感情移入し始めていた。
その時、部屋の扉がノックされた。
「はい」
私はDVDを一時停止して、玄関まで移動して、部屋の扉を開けた。
翔太の姿が見えて、私はすぐさま扉を閉めて、鍵をかけた。
なんで彼がこの場にいるのか、私はまったく理解できなかった。
また、不毛な言い争いをしたいのだろうか。
「警察呼ぶよ」
私は、低い声で言っていた。
「このままで良いから、ちょっと話を聞いて欲しいんだ。それで駄目なら、諦めるよ」
翔太の声は冷静だ。
私は、それに素直に従うことにした。
「ストーカーだと判断したら、即座に警察を呼ぶけれど、いい?」
「そう判断されたら仕方ないね。諦めるさ」
よほど、大事な話らしい。私は、素直にそれを聞くことにした。
そして同時に、くだらない言い訳だったら本当に警察を呼んでやろうと思った。
学生同士の喧嘩に警察を借り出すとは、とんだ迷惑行為だった。
「あの子は、名前を聡美って言うんだ。俺にとっては妹みたいな存在でさ」
「妹みたいな存在で、恋人ではないって言い訳?」
「それだけ抜き出すとなんか嫌な感じだけど、恋人じゃないのは本当なんだよ。恋人のふりをしてくれって頼まれてるんだ」
予想外の言葉に、私は戸惑った。
「恋人のふり?」
「ストーカーみたいなことをする男がいるって話でさ。俺が恋人のふりをすれば、相手も諦めるだろうからって。だから、しばらくはお姉さんとも距離を置いてたんだ」
「……けど、あの子はあんたを恋人だって言った」
「それを言われると弱い。まさか俺も、あいつがそんな行動に出るとは思わなかった」
私は、考え込んだ。翔太の発言は、一応矛盾はしていない。けれども、それを信用するだけの根拠がなかった。
「信じ難いなら、メールボックスを見てもらってもいいよ。あいつとの間に、関係が疑われるようなメールなんてないからさ」
「そこまでしたくない」
「じゃあ、俺への疑惑は宙ぶらりんのまま? 俺はこのまま、お姉さんに女にだらしがないと思われ続けるわけ?」
それを言われると、弱かった。
ポストに、携帯電話が差し込まれた。
「確認して」
少し怒っているような口調で、翔太は言った。
なるほど、考えてみれば、彼にも怒る理由はある。私は、相手を女にだらしがないと判断して、一方的に避け続けたのだ。
しかも、彼に対してそういう疑惑を持つのは、これが一度目ではなかった。
私は、彼の携帯電話を開いた。
差出人が聡美と書かれたメールを、開いていく。
結果的に、彼の言っていることは本当だった。
彼女が恋人のふりをしてほしいと頼んだメールまでが、きちんと残っていたのだ。
「ごめん」
私は、謝罪するしかなかった。
「誤解が解けて何より」
彼は、溜息混じりに言った。
「しかし、信用ないんだな、俺って」
「……ごめんよ」
私は、鍵を開けて、扉を開いた。
彼が、安堵したような表情でそこに立っていた。その表情に、私は救われた思いだった。
彼の差し出した手に、私は彼の携帯電話を置く。
「……どっちかに恋人が出来たら、俺達ってこうやって避けあうようになるのかな」
翔太の声は、どこか寂しげだった。
そんなことはない、とは私は言い切れなかった。まさに、今回はそんな状況になってしまったのだから。
「それなら、俺はお姉さんと付き合いたい」
翔太が、さらりと言った。
私は、目を丸くした。
言葉の意味への理解は、数秒遅れてついてきた。
「冗談、だよね?」
「本気だよ」
翔太は、余裕のある表情で言う。
「って言うかね」
言って、翔太は苦笑した。
「好きでもない相手に避けられたからって、普通はこんなに必死にならないでしょ」
私は、歯車が錆びついてしまったかのように鈍く動く思考回路で、それはそうだよなと変に納得してしまったのだった。
逆の立場だったなら、無視された時点で諦めそうなものだった。
結局、聡美のストーカー被害は、それそのものが狂言だったらしい。
彼女は翔太が好きで、彼と密接になろうとストーカー被害をでっち上げたのだ。
肝心のストーカーが、滅多に姿を現さないので、翔太も疑わしいとは思っていたところらしかった。
問い詰めると、彼女は呆気なく全てを話し、おまけとして翔太に振られたらしかった。
「趣味が悪いって言われたんじゃない?」
そう訊ねた私に、彼は苦笑顔を浮かべた。
翔太に呼ばれて、私は彼のアパートを訊ねた。そして、二人で散歩をして、近所の川原まで歩いた。
川原に沿うように、桜の木が並んでいる。丁度、満開の時期だった。春休みに慣れきった生徒が、慌しく活動した四月も、もう末なのだ。
涼やかな風に揺られて、桜の花が舞い散っている。
「また、すぐに暑くなるんだろうな」
翔太は、苦笑顔で言う。
「冬は雪が降ってないって首をかしげて、春は暑いって苦しむ。雪国育ちも難儀だね」
「実際、違和感酷いんだよ。寒いのに足場がしっかりしてるってさ」
「雪かきしなくて良いから得じゃない?」
「けど、夏は蒸し暑い」
「慣れなきゃね」
「で、そろそろ返答が聞きたいんだけど?」
翔太が、私の顔を覗きこむ。
私は、慌てて視線を逸らした。
「返答?」
相手が何を言いたいかをわかっていながら、私は話を逸らした。
「告白の」
「うん」
あの告白の話は、あれ以来意識的に表に出さないようにしてきたのだ。
それなら、俺はお姉さんと付き合いたい。そう彼は言った。
確かに、このままでは二人はそのうち疎遠になってしまうのだろう。今のように、デートをしたり、本を貸しあうことはしなくなるだろう。
ただの友人なのに、そんなことをやっていたのが不思議だったのかもしれない。
あの時間は、確認の為の時間のように思えた。
「私、不細工なんだけど」
「そんなことはないよ」
「肌弱いし」
「気にしないよ」
「甘い雰囲気とか、そういうの、出来る気がしない」
「お姉さんのキャラ的には、そうだろうね」
沈黙が場を包んだ。
川原から涼やかな風が吹いて、二人の間に桜が舞った。
「私で、いいの?」
翔太は、即座に微笑んだ。
「うん。お姉さんがいいんだ」
それは、魔法の言葉のようだった。
この瞬間、私と彼は、恋人同士になったのだ。
「抱きしめて良い?」
そんなことを確認する彼は、酷く初々しく見えた。
「抱きしめ返したりはしないよ」
私は弱弱しい声で、彼の申し出を許した。
まな板の上の鯉の気分だった。