翔太と、距離を置いてくれませんか
短編時はさらっと流すつもりだった部分なのですが、長編にするとそうもいかなくなる不思議。
季節は巡り、春がやってきた。
何か日常の中に違和感があった。それが何に起因するものか、私は知っていた。
「二週間近く、連絡がないのよね」
私は大学の講義の最中、呟くように言っていた。周囲では、黙々とシャープペンシルを走らせる生徒もいれば、他愛のない話を楽しんでいる生徒もいる。
「そっちから連絡してみたら?」
智子の意見は、今日も的確だ。
「別段、用事もないんだ」
翔太からの連絡が、二週間なかった。最近では、珍しいことだった。
何かしら、数日に一度は連絡が来ていたのだ。
いつの間にか、翔太は私にとっては空気のような存在になっていた。
存在感が薄まったわけではなく、むしろその逆だ。傍にあって、当たり前のものになっていた。
私生活の話をするのも当然のことになり、時には二人で映画館に足を運ぶこともあった。
野球観戦に行ったという話も度々聞いた。彼はきっと、この土地に残って、野球観戦を続けるのだろう。それは地元に帰る私にとっては羨ましくもあり、他人事でもあった。
その連絡が、途絶えた。
「会って直接聞いてみれば?」
「やだよ、なんだか恥ずかしい」
問題は、彼と講義が一緒になっても、その傍には彼の友人達がいるということだ。
翔太の友達は私と毛色が違う。いつも賑やかな彼らを、私は苦手がっていた。
思えば、私と彼は住む世界が違うのだ。本によって生まれた交流は、両者を結ぶ細い糸のように思える。
その糸は、容易く切れてしまうのかもしれない。
「学校が始まったねってメール一通でも良いじゃない。事情がないなら、返信が来るよ」
「事情って?」
智子は、悪戯っぽく微笑んだ。
「彼女が出来ました、とか」
「彼女が欲しい人が、そもそも私の相手なんかするかな」
「あんたも女の子なんだよ」
智子は、苦笑いを顔に浮かべた。
「けどさ、恋人が出来たから連絡が途絶えますってほど、男女の友情って薄いわけ?」
「逆に考えてみなよ。恋人が、自分以外の異性と頻繁に連絡とってて、デートまでしてたら、腹が立つでしょ?」
「ああ、それはムカつく」
「でしょ。男同士より、女同士より、男女の友情ってやわなもんだわ」
「経験談?」
「一般論」
私は、話をあえて横道に逸れさせた。
翔太が恋人を作る姿を、なんとなく想像出来なかったのだ。
恋人が欲しいなら、そもそも私のような人間にあこまで懐かないだろう。
いや、恋人が欲しくなったか、出来てしまったからこそ、連絡が途絶えたのだろうか。
彼は真面目な男だ。恋人に義理立てして、他の異性との連絡の頻度を減らすということは十分に考えられた。
それでも私は、彼が恋人を作ろうとする姿を想像出来ないのだった。
私は溜息を吐きたくなった。男女の友情というのは、面倒な結果と紙一重のものなのかもしれない。
他の教室へ移動している最中、私はその光景を目にしてしまった。
コンビニの傍のベンチで、女性と座る翔太。二人の距離は肩が触れ合いそうなほどに近く、女性は翔太の口に、スプーンでアイスを運んでいる。
翔太は少し困ったような表情で、それを口にした。
「遅刻するよ」
智子の言葉で、私は我に帰った。そして、翔太から目を逸らした。
最近どうしてる?
そんな短いメールが届いたのは、女性といる翔太を目撃した二日後のことだった。
春休みに生活時間帯が狂ってしまった私が、それを手に取ったのは、土曜日の十時過ぎだった。
そちらこそ、何かあったんじゃない?
私は、そう書いて返信した。
返事は、すぐに届いた。
少し面倒なことになって、連絡が取り辛い。お姉さんと一緒に映画が見たいよ。
その文面を見て、私は呆れてしまった。
可愛い彼女を作っておきながら、それを隠して他の女とデートをしようだなんて、信じられないことだ。
男と男なら、友人同士で映画を見ても誰も怒らない。しかし、男女の話となると、答えはまた違ってくる。
そして、私はふと気がついた。
私にとって、翔太とは一体なんだったのだろう。
一緒に本の話をして、一緒に映画を見て、一緒に他愛もない話もした。
暇つぶしと称したデートをすることも、しばしばあった。
密かに恋人を作った彼に、怒りを覚える権利は、私にはあるのだろうか。
一般論で考えれば、あるのかもしれない。けれども、これはデートではなく、友人同士の暇つぶしなのだと称し続けた私には、ないのかもしれない。
私はそこで、思考を一度止めた。
そうすると、彼の為に考え込むのが、酷く馬鹿らしく感じられた。
恋人がいるのを隠して、私とのデートを企む男。その事実だけで、私が怒るには十分だった。
誰にでも人懐っこい彼は、尻尾を振って駆け回る犬のように思えた。
私は、メールの返信を放棄した。
昼食の準備をする。玉葱の4分の1をスライスして、鍋に水と共に入れて加熱し、沸いたお湯にコンソメを入れた辺りで、テーブルの上に置いた携帯電話が震えた。
私は、物憂く思いながらも、折りたたみ式の携帯電話を開いた。
話があるから、大学近くの喫茶店に来て欲しい、というものだった。
日時は、明日の午後一時だ。
面倒臭いな、と思ったものの、話ぐらいは聞いても良いかもしれないと思った。
もっとも、それが愉快な話になるとは、私には到底思えないのだった。
喫茶店に入ると、見知った顔がいた。
この前、大学構内のベンチで、翔太と座っていた女だ。
翔太本人はいない。
人気のない喫茶店にいる客は、私と彼女だけだ。
その姿を見て、私は何か引け目のようなものを感じた。
春の日差しを思わせる白いワンピースに暖色のロングカーディガン。栗色の髪は毛先が緩くウェーブしている。女性であることを十二分に生かした格好だ。
対する私は安物のパンツルックだ。薄い紺色のシャツの上に、黒いパーカーを着ている。闇夜を歩いていたら、風景に溶け込んでしまいそうな色合いだ。肩まである黒い髪は、自分では綺麗だと思うのだが、母に言わせれば座敷わらしだ。
細身だから、何を着ても似合うよ、と言ってくれた相手がいた気がする。
その正体が翔太だったことに気がついて、私は少し苛立った。
私は仕方なく、彼女の傍に近寄ることにした。
「翔太の知り合いだよね」
声をかけると、彼女は目を丸くして、私を値踏みするように眺めた。
「貴女が、そうなんですか」
何故か、疑わしげな声だった。
「そうなんですかって言われても」
沈黙が、場に流れた。
「翔太は、いる?」
「来ません」
彼女の返答は、短かった。
「私が、貴女を呼んだんです」
予想外の返答に、私は言葉を失った。
「貴女と、話したかったんです」
「と言うと?」
私は、仕方なく彼女の向かいに座った。
可愛らしい女性だった。私と翔太が並んでも、絵にはならないが、彼女と翔太ならば話は違ってくるだろう。透明感のある肌と、白いワンピースは、まるで綺麗な花のようだった。
私は改めて、彼との距離を感じてしまった。
しかし、馬鹿らしい話でもあった。私はどうやら知らない女性の為に、貴重な日曜の時間を費やすことになったらしい。
「翔太と、距離を置いてくれませんか」
「ああ、そういう話か」
ウェイトレスがやってきた。私は、注文はもうしばらく考えたいと答えた。
本音を言えば、長居をする気がなかったから注文しなかったのである。
「貴女は、翔太の恋人なのかな?」
女性は、一瞬自身の足元を見た。
「はい」
「なるほど、そしたら、仕方ないね」
仕方ない、としか言いようがなかった。
「別に、異論はないよ」
私は淡々と、そして偉そうに答えた。なんとなく、そうしたい気分だったのだ。
負け犬のように視線を落とすのは嫌だった。
「あんたも可愛いし、美男美女で似合ってると思う」
「私も、そう思います」
彼女は、真剣な表情で言う。
少しは謙遜しろよ、と私は思った。
「じゃ、用事がそれだけなら、私は帰るよ」
「着信拒否、してくれませんか」
「そこまでやる?」
私は、少し呆れてしまった。
「そのほうが、安心出来るから」
「まあ、構わないよ」
平然と言った私だが、内心には動揺が満ちていた。
翔太と私を繋ぐ細い糸。それが今、断たれようとしている。
相手を鬱陶しいと思ったこともあった。けれども、話していて楽しいと思ったことは、その数倍はあった。
二人でいる時間は、楽しかった。
一緒に見る映画を、いつの間にか楽しみにしていた。
私は、負けたと思った。
私には、彼女のような熱意はなかった。常に受身で、与えられることが当然と思っていた。
彼の好意を知りながら、恋人になろうとはしなかった。
結局は、その差なのだろう。
私は、着信拒否リストに、彼のメールアドレスと電話番号を登録した。
ついでに、携帯電話に登録してある彼の連絡先も消去してみせた。
「お幸せに」
そう言って、私は喫茶店から出た。
爽やかな風が吹く中で、私は軽い気だるさを覚えていた。
「服を買う?」
電話越しの智子の声は、訝しげなものだった。
小さな駅を出て、私はアパートに向かって歩いていた。
「ちょっと気分転換しようと思ってさ」
「まあいいよ、私も買いたいものがあるし。予算がちょーっと怪しいけれど」
「少しならおごるよ」
「なんかあった?」
「ん? なんで?」
「なんか、声がシリアス」
「そう?」
私はなんだか、心の脆い部分を突かれたような気になった。
「ちょっとね、疲れることがあったんだ」
「私で良ければ聞くけど?」
「ちょっと情けなすぎて、話せそうにない」
「そう? いくらでも聞くよ?」
「ありがとう。智子が友達で良かったよ」
「……なんか、深刻そうだね。話したくなったら、いつでも電話するんだよ?」
「うん、ありがとう」
私は電話を切った。
見慣れたアパートが近付いてきた。
私はその一階の、道路よりの部屋の住人だ。
部屋の前には、スーパーの袋が置かれていた。
私は、その中身を覗き込む。
複数のお菓子の袋と、メモが入っていた。
そのメモには、いないようなので置いていきますという文章と、翔太の名前が書いてあった。
「何を考えてるんだか……」
私は、その袋を蹴飛ばしたくなったが、食べ物を粗末にするのも悪いので、素直に受け取ることにした。
それは、恋人にしてみれば、着信拒否してくれと言いたくなるわけだ。
私は部屋に入ると、彼が買ってきたポテトチップスを食べながら、今後は彼のことを無視することに決めた。