家デート
あれ、この二人がくっつくのって無理じゃね? と思ったのが先日のこと。
なんとか軌道修正出来た気がしないでもないです。
毎日のように続いた翔太との本のやり取りは、気がつくと週に一度ぐらいになっていた。
お互いに、薦めるための本が尽きたのだ。
元々、進学先に持ってきた本は多くない。さらに、本の貸し借りをしているうちに、お互いに苦手なジャンルがあることも見えてきた。
そうなると、七月にもなれば、互いに薦める本がなくなるのは自然なことだった。
メールの頻度は減り、たまに面白い本を見つけたら連絡を取る、というような状態になった。
私はその状況に、安堵を覚えてもいた。
翔太は人懐っこすぎる。彼がパーソナルスペースに侵入してくることを、私は危惧した。
大学は夏休みに入り、翔太との接点はメールだけになった。
時間は穏やかに過ぎていった。
その日は、智子が家にやってきていた。開け放した窓の外は闇夜だ。智子は浴衣を着ている。近所の祭りに行った帰りなのだ。
テーブルの上には、コンビニで買った弁当が二つ並んでいた。
「翔太くんとは連絡取ってるの?」
浴衣を脱ぎながら、智子が言う。
まるで、娘の恋路を心配する母親である。
「たまーにね」
「恋愛感情、なさそうね」
「ないね。話してて楽しい時もあるけれど、たまに凄く面倒になる」
「外面より内面重視なんだね」
褒めるように、智子が言う。
彼女は、スーツケースから取り出した衣服に着替え始めた。
「興味があるなら紹介するよ?」
この話題を続ける気がないので、私は投げやりに言った。
「趣味が合いそうにないから、遠慮する」
苦笑して、智子が言った。
人を褒めておきながら、彼女自身も交際相手の外見はそこまで重視しないらしい。
「智子の理想の男って、どんな人?」
「生活能力がある人。スポーツマンならなおいいかな」
智子は着替えを終えて、浴衣を畳み始めた。
「堅実だねえ」
それは、未成年にしては、夢のない返事のように思えた。
「大事だよ、生活能力」
智子は、人の良さそうな外面の下に、冷静沈着な心を持っている。そんなところに、私は親近感を覚えることもあれば、不安を覚えることもある。
彼女の視点でものを見れば、私の欠点は浮き彫りだろうな、と思ってしまうのだ。
その時、テーブルの上に置いてあった携帯電話が震えた。
私は折りたたみ式のそれを取って、開いた。
翔太からのメールだった。
「いただきます」
浴衣をしまい終えた智子が、弁当を食べ始めた。
メールの内容は、久々にトラベルを見たら面白かった、という内容だった。
「翔太?」
智子が問う。
「翔太」
「健気だねえ。可愛いわんこみたい」
智子は、揶揄するように言った。私はなんだか、気恥ずかしくなった。
小説のタイトル? と私は返信する。
すぐに返信が来た。
知らない? とだけ書かれた短いものだ。
その後のメールのやり取りをまとめると、九十年代の有名な映画を見たという話だった。
映画をあまり見ないの? という彼の問いに、私は肯定した。
なら、面白い映画を紹介するよ。と彼は申し出た。
私は特に考えなしに、お願いしますと答えたのだった。
面白い物語が見れるならば、私としても望むところだ。
携帯電話を折りたたむと、智子が興味深げに私を見ていた。
「なんだって?」
「映画を見たって話。紹介してくれるんだって」
「ふうん」
智子の手が止まった。
その顔に、笑みが広がる。
「ねえ、それって、デートになるんじゃないの?」
「違うよ」
私は、反射的に答えていた。声が若干上ずっていた。
「DVD貸してくれるってだけの話だよ」
「相手がそう思ってくれてたらね」
智子の言葉が、水面に落ちた一滴の墨汁のように私の心の色を変えて行く。
携帯電話が震えた。私は慌てて、それを開く。
どうせなら一緒に見ようよ。どっちの部屋で見る? という内容のメールだった。
私は、頭を抱えたくなった。
「ねえ、交際してない異性を部屋に招くってどうなの? 普通?」
私が問うと、智子は思いもしないことを言った。
「聞かないで。私はあんたより異性との縁は薄いんだ」
「やっぱり、あの子と私の感覚って違うのよね」
私は思わず愚痴っていた。
私はそんなに容易く、異性を自分の部屋に招く気にはならない。
彼の気安さは、まるで同性を誘っているかのようだった。
「まあ、今の状況のまま疎遠になるのは嫌なんでしょうね」
智子の意見は、冷静そのものだった。
彼と距離を置いて安心している私がいるのは事実だった。けれども、このまま縁が切れるのを惜しいと感じている私がいるのも事実だった。
「……距離を保ってくれる人だったらなあ」
さっきから愚痴ばかり吐いている。そう思いながらも、口から出てくるのは愚痴なのだった。
週末に、私は見知らぬ土地の、見知らぬ二階建てのアパートの前に立っていた。
翔太の住んでいるアパートだ。
友達の家を訪ねるだけだ、と言い訳する私がいる。余計な警戒をするのは失礼だ、ともっともらしいことを言う私がいる。
けれども、私の心は不安で一杯だった。
男性の部屋を訪ねるなんて、小学生時代にすらなかったことだ。
小さい頃には男女間で対立がしばしば起こるものだが、私はその時期に散々男を馬鹿にしたものだった。
古びた階段を上がって、二階の一番奥の部屋の前に辿り着く。
二○五号室と書かれたその部屋が、翔太の部屋だ。
私は、心の中で覚悟を決めた。
そして、八つ当たりをするようにチャイムを強く押した。
しばらくして、翔太が扉の横にある窓から顔を出した。
「いらっしゃい、開いてるよ」
促されるままに、私は部屋の中に入って行った。
綺麗な部屋だった。
白いカーペットの上に、白いテーブルがある。それは、日光を受けて輝くフローリングの床に酷く似合っていた。テーブルから手が届く距離に、小型の冷蔵庫がある。部屋の片隅には、折りたたまれた布団がある。本棚とその上には、古い本が並んでいる。そのさらに上には、黄色いメガホンが二つ並んでいた。DVDデッキと小さなテレビが、部屋の中央を眺めている。クーラーの駆動音がしていた。服は多分、クローゼットの中なのだろう。
室内の涼しさに、私は驚いた。
「寒くない?」
「クーラー、ちょっと止めようか」
彼はテーブルにあるリモコンのボタンを押した。
クーラーの駆動音が止まった。
「いつもこんな調子なら風邪引くよ」
私は窓を開けた。冷たい空気が、外へ逃げていく。
「座ってよ」
彼は、返答を避けた。
物珍しさから部屋の中を眺めていた私は、テーブルの傍のクッションの上に座った。
散らかっている部屋を想像していたので、周囲の綺麗さに肩透かしを食らった気分だった。
「あのメガホンは、なに?」
私は、興味本位に尋ねる。
「ああ、それはさ、応援用のメガホン」
「応援用?」
「言わなかったっけ。俺、虎党なんだ」
「虎党?」
「タイガースファンってこと」
彼はそう言うと、洗い場からコップを持ってきた。
なるほど、本棚にはタイガースの本や、野球の週刊誌がある。
「ここは甲子園も近いから、友達と応援に行ってるんだよ。皆、野球仲間だから」
「へえ」
私の返事は短かった。興味のない話題だったこともあるし、緊張しているせいもあった。
彼が、お茶を注いだコップを私の前に置いた。
「そういや、映画だったよね。トラベルでいい?」
「それは、この前見たんでしょ? 違う奴のほうが良くない?」
「それじゃあ、ピアニストなんてどうかな。悲恋ものだけど」
「うん、それで」
彼が取り出したDVDが、デッキの中に吸い込まれていく。
程なく、映画が始まった。
私は、それに集中できなかった。
狭い部室で異性と一緒になっても、こんな気持ちにはならなかった。翔太と二人きりで狭い部屋の中にいるという事実が、私を落ち着かなくさせていた。
「家デートだね」
心の中から、智子が囁く声がした。私はそれを聞こえないふりをした。
彼は冷静そのものだった。
映画のシーンや登場人物について、所々で感想を述べている。
場面は、ピアニストが右腕に大怪我をするシーンに差し掛かった。
「痛そうだよな」
彼が苦笑交じりに言う。
「これ、どうなるの?」
「ヒロインが頑張る」
彼は、今後の展開までは詳しく語らなかった。
その瞳は、真剣に画面を眺めている。
「この俳優、この作品がきっかけでブレイクしたんだ」
そう語る彼は、まるで、漫画のキャラクターについて語る子供のようだった。
それを見ていると、私は緊張と警戒心が少しだけ緩むのを感じた。
この人は、子供のような純真さで、小説や映画の物語を好んでいるのだ。
そして私は、その趣味を共有できる貴重な友人として扱われているのかもしれない。
好きな作品について、誰かと語りたいという気持ちは、私にも良くわかった。
だからこそ、彼の部屋を訪れたのかもしれない。
私が危惧していたのは、彼が甘い雰囲気で部屋を満たそうとすることだ。そんな展開は、訪れそうになかった。
画面には、階段に座って苦悩するピアニストが映っている。彼が見上げるのは星空だ。
私は徐々に、物語に集中し始めた。
怪我が原因で以前の実力を失ってしまうピアニスト。その傍に寄り添うヒロイン。けれどもピアニストは、怪我の原因であるヒロインを憎み、遠ざけてしまう。
そのうち、主人公は他者を指導することに喜びを見出すことになる。
しかし、その頃にはヒロインの気持ちは主人公から離れていた。
二人は決別し、主人公が子供達にピアノを教えているシーンで物語は終わる。
エンディングの曲が流れ始めると、私はいつしか体に入っていた力を抜いた。
「どうだった?」
彼の問いに、私は素直に答えることにした。
「大事なものは失ったけれど、救いはあるエンディングね」
「繊細な物語を描くのがこの監督の特徴なんだよ。他にも有名な作品があるんだけれど、見る?」
「いいね。けど、ちょっと休憩したい」
「いいよ」
彼は容器に入っているお茶を、私のコップに注いだ。その手が、クーラーのリモコンの上で一度動きを止めて、自身の膝の上に戻った。
「意外」
私は、思わず呟いていた。
「なにが?」
「お茶、きちんと沸かしてるんだ」
「今更そこかよ」
そう言って、彼は微笑んだ。
爽やかな笑みだった。
「お茶も作れば料理もするよ。お姉さんは?」
意外と、生活能力があるらしい。実際に部屋を見るまでは、散らかった部屋や、流し場に積み重なったコンビニ弁当の空を想像していた私だった。
「期待はしないほうがいいわね。これがドラマだったら、女性がお礼に料理を作るんだけれど」
私が作れるのは、野菜炒めや肉じゃが程度だ。普段はコンソメスープを単品で食べて一日を過ごしているようなことすらある。
「お姉さんの料理か。食べてみたいな」
「女性に期待をもてなくなるわよ」
私は、苦笑交じりに言う。
「それでもいいよ」
話が、妙な方向に転がり始めた。
私は、話題を変えることにした。
「普段君が言ってる友達って、野球友達なの?」
「うん。高校時代からタイガースの応援を一緒にしてた友達。一人が京都出身で、地元で進学することになってさ。俺達も付き合ったわけ」
「野球、好きなんだ」
「高校時代まで野球やってたよ。他の二人もだけど」
意外な思いだった。
彼の友達に対する私の印象は、悪いとしか言いようがない。帰宅部で高校時代からナンパに精を出していたものだとばかり考えていた。
「坊主頭だったの?」
「うん」
「似合わなそう」
私は、坊主頭の彼を想像して笑ってしまった。
「決まりだから仕方なかったんだよ。腹筋未だに割れてるよ。見る?」
悪戯っぽく笑って、彼は自分の服に手をかけた。
「その服を捲りあげたら、大声出す」
私の声は、既に大きかった。
彼は降参とばかりに両手を上げた。
しかし、笑みは顔から消えない。
「……もしかして、警戒してる?」
今更か、と私は呆れかけた。
そして、腹を見せようとされただけで取り乱す自分を情けなく思った。
「私が、異性の部屋に入り慣れているように思う?」
どれだけ勇気が必要だったか、私は彼に知ってほしいと思った。
やはり、私と彼は住んでいる世界が違う。彼にとって、異性とはさほど意識するものではないのかもしれない。
彼は私が躊躇するラインを、軽々と飛び越えていく存在なのだ。
「そこまでは考えが至らなかったな。けど、ちょっとは慣れたでしょ? まだ落ち着かない?」
「……ある程度は慣れたけど」
私が小さい声で言うと、彼は満足げな表情になった。
私は、不可思議な感情を抱いた。彼が、誰にでもこんな風に腹筋を見せようとするのかはわからない。しかし、見知らぬ女に、腹筋を見せてちやほやされる彼を想像すると、どうしてか面白くないと感じてしまったのだった。
「じゃ、次の作品見ようか。体力は大丈夫?」
私は、小さな苛立ちを心の棚に閉まった。
「どうせ暇だからいいよ。付き合う」
次の作品は、遠距離恋愛を扱った作品だった。
私は今度は、物語に集中することが出来た。
物語が中盤に差し掛かる頃に、来客があった。
彼は対応する為に、玄関に出て行く。
私はDVDデッキの一時停止ボタンを押した。
「あれ、女の子?」
玄関から聞こえてきたのは、若い男性の声だった。
髪を茶色に染めた長身の男が、そこにはいた。
私は軽く、頭を下げた。
「お前の姉ちゃん?」
男は、声のトーンを落とさずに翔太に訊ねる。
同い年だよ、と、私は心の中だけで呟いた。
「違うよ、友達」
「なんだよ、だからお前ナンパを嫌がってたのか。言えよなー。けど、お前の趣味って意外だな」
人を蓼のように言ってくれるものである。
私の自尊心は、彼の発言で穴だらけになった。
「なんの用だ?」
流石にまずいと思ったのだろう。翔太は不機嫌そうに話を変えた。
「いや、近くまで来たからよろうと思っただけ。けど、来客があるなら真っ直ぐ帰るわ」
そう言って、彼は中身がつまったコンビニの袋を翔太に手渡した。
「じゃあな」
彼は部屋を出て行った。
翔太はテーブルの傍に座ると、コンビニの袋の中を探り始めた。
その中から、ポテトチップスの袋が出てくる。彼はそれを開いて、テーブルの上に置いた。
「……私と一緒にいたら言われるよ。趣味悪いって」
私の声は、自身で驚くほどに小さかった。
「趣味が悪いとは言ってないでしょ」
「似たようなものよ」
不釣合いだと笑われるのは、私の危惧していたことだった。
結局のところ、私は眼鏡の似合うモブキャラクターで、彼は美形の主要人物なのだ。
「あいつは、真面目そうだって言いたかっただけだよ」
真面目そうな人間は、翔太に似合わないという話だったのだろうか。
「それはそれで、失礼な話よね」
「ごめんよ。悪い奴じゃあないんだけどな」
楽しかった時間は終わり、気まずさが二人を包んでいた。
翔太が微笑んだ。
天使のような笑みだった。
「お姉さんは可愛いし、別に可愛くなくても俺は同じ態度を取ってたと思う」
その言葉に、私は落ち着かなさを感じた。しかし、それはこの部屋に入った直後のような緊張を伴うものでなく、むしろ心地良さすら感じられるものだった。
「お姉さんは素敵だよ。だから、自虐的なことはあんまり言わないでほしい」
私は、言葉が思いつかなかった。落ち着かなさが、冷静さを心から追い出してしまったかのようだった。
「どこが素敵なんだか」
私は、気を紛らわそうと、お茶を口に含む。少し苦かった。
「面倒見が良いところと、真面目なところと、俺と趣味が似通ってるところ」
「趣味が似通ってる点は、否定しないけどね」
「続き、見よっか」
翔太が、笑顔で言う。
こちらの機嫌が直ったことを、見透かしているらしい。
この人懐っこい男に、敵わないかもしれない。そんな考えが、私の頭をよぎった。
テレビ画面に映った俳優達が動き始めた。
私は、物語に集中し始めた。
既に、体から緊張は抜けきっていた。
私達は、たまにお互いの部屋を行き来するようになった。
手ぶらではなんなので、私はしばしばお菓子を作って彼に持って行った。
彼は、それを酷く喜んだ。作るのは簡単なお菓子ばかりなので、私はその反応にむしろ恐縮した。
ある日、彼は私の部屋に来て言った。
「ねえ、これなに?」
彼はテーブルの上にあった瓶を掲げて、私に見せる。
「ああ、アロマオイル。肌が弱いから、化粧水は自分で作ってるんだ」
「そっか。お姉さんも女の子らしいところがあるんだね」
「今まではどう思ってたわけ?」
私は、呆れ混じりに言った。
流石に、失言だったと思ったのだろう。彼の表情から、笑みが消えた。
「……素敵な女の子だと思ってたよ」
「まあ、聞かなかったことにしてあげましょう」
彼の価値観だと、私は女性に該当しないのかもしれない。その疑惑に対して、私は不服と思うことはなく、むしろ安堵したのだった。
素敵だと褒められたら舞い上がる癖に、女性として見られていないことに安堵する。
彼にどうして欲しいのか、私自身も良くわかっていなかった。
ただ、彼はいつの間にか、私との距離を縮め、友人の席を確保していたのだった。