俺、文研辞めるよ
私と翔太の本の貸し借りは続いていた。
翔太はマメな性質なのか、本を読み終えると感想を欠かさずメールで送ってきた。
私もそれにつられて、メールを打つ回数が増えた。
そのうち、メールの中に、ちらほらと私生活の話が混じり始めた。
例えば、こんなメールが届いたことがあった。
五月なのに信じられないぐらい蒸し暑い、という内容だ。
確かに、気温と湿度は日に日に高まりつつあった。
彼は、雪国出身だからこの暑さには耐えられない、とぼやいた。
私の住んでいる地域は滅多に雪が降らない、と返事をすると、冬に里帰りしたら写真を撮って送るよ、という内容のメールが返ってきた。
別段、そこまで興味があるわけでもなかったので、相手の好意に戸惑ってしまった。
また、こんなメールが届いたこともあった。
友人がナンパをしたけど俺は別行動をとった、という内容のものだ。
それが届いた時の私の憂鬱さは、言葉に表しようがない。
報告などせずに、影でナンパに精を出してくれても私は一向に構わないのだ。
その時に彼が周囲から非難されようと、それは彼の判断の結果だ。私は忠告することは出来ても、強制することは出来ない。
しかし、これではまるで、赤の他人である私が彼を束縛しているかのようだ。
私の意見のせいで、彼と友人との間に亀裂が生じたら、と思うと、ますます憂鬱になった。
お前の行動など知ったことかと返信したかったが、その率直な言葉が人間関係に亀裂を入れることは目に見えていた。
本を手渡すたびに、誤解されがちな彼が見せる明るい笑顔が、私の心を慰めているのも事実だった。
しかし、ナンパとはありふれた行為なのだろうか。やはり、彼と私との日常には距離があるのだろう。
異性とメールをするというのは、このような気だるさを伴うものなのだろうか。
そんな疑問を智子に問うと、贅沢者めというからかいしか返ってこなかった。
彼女は本心では、私をどう評しているのだろう。案外、馬鹿にされている気もした。
「斎藤くん、最近来ないね」
文研の部長である八坂幸恵が言った。
椅子に座らずに、二階の窓から外を眺めている。
場所は、部室だ。窓から離れた壁際に小さな本棚がある以外は、テーブルと椅子しかない。本棚には、文庫本と漫画雑誌が所狭しと押し込まれている。窓からは、強い日差しが差し込んでいた。
確かにこの土地は、私が知っている土地よりも夏の来訪が早いように思えた。
「大学には来てるみたいですけどね」
私は、本に落としていた視線を彼女に向けて言った。
「まったく、佐伯にも困ったものだわ」
彼女は、柔らかく苦笑した。
どうしてそこで三回生である佐伯の名前が出てくるのかはわからない。
「ねえ、もしも会ったら、出てくるように言ってくれない?」
部の中にも味方はいるものだ。私と彼女が協力すれば、翔太を部に馴染ませることも出来るかもしれない。
彼に対する不名誉な誤解を、解くことも出来るかもしれない。
そう考えると、私の心は弾んだ。
「いいですよ。あの人、悪い人じゃなさそうですしね」
「うん。気の優しい良い子だと思うわ」
部長の評価が的確なことが、私は嬉しかった。
翔太のことを思うと、憂鬱になることもしばしばあるが、それでも彼が悪い人間ではないことは明らかだった。
扉が開いて、生徒が入ってきた。
「こんにちわ」
彼女の挨拶に、私と幸恵が答えた。
彼女は、名前を黒崎祥子という。私とは同い年で、話すことが多かった。横に並んで講義を受けることも、しばしばだ。
少々気は弱いが、優しい性格をしている。人間には本性があるものだが、彼女に限っては仮面の下にも穏やかな表情があるように思えてしまう。
彼女は、私の隣に座ると、バックを床に下ろした。
「あんた達も苦労することになるだろうねえ」
幸恵は、どうしてか苦笑いを浮かべてる。
「苦労、ですか?」
私は、その言葉の意図が読めずに戸惑った。
「うん。そのうちわかるわ。メリットとデメリットは表裏一体だってね」
私と祥子は、戸惑うしかない。
「最近、貸す本の趣向が変わった?」
喫茶店で、ある日翔太がそんなことを言った。
「うん、変えてる。けど、面白いでしょ?」
私は、淡々と返事をした。
「うん、面白い」
「話題になる作品は、やっぱり面白いのよね」
そう言って、私は紅茶を口に含む。
「けど、待ってたらアニメなりなんなりで内容を知れそうだよな」
「勉強と思って読みなさいな。文研で流行ってる中から、私の好みの作品を渡してるんだから」
「まあ、お姉さんの趣味は疑っちゃいないけどね」
そう言って、彼は微笑んで見せた。
ファンがついてもおかしくないような爽やかな笑顔だった。
彼は時に、私をお姉さんと呼ぶようになった。
智子が言うには、私を慕っていることの現れらしい。
こんな大きな弟を持った覚えはないのだが、指摘して気まずくなるのも嫌なので放置している。
「勉強が終わったら、一緒に文研に行こう」
私の提案に、翔太は戸惑ったような表情になる。
「なんで今更」
「部長さんと私がいたら、居辛くもないでしょう」
翔太は苦笑した。
「人を、不登校の子供みたいに言って」
的確な例えだ。
案外彼は、私よりも智子と話が合うのではないか。そんなことを私は思った。
小説の話はともかく、私生活の話は智子とするように誘導できないだろうか。
あれほど翔太をイケメンと持て囃す智子だ。そのほうが彼女も嬉しいだろう。
私はそこまで考えて、自分自身に少し呆れた。二人に今考えたことを話せば、何様なのだと叱られてしまうだろう。
「人間は自分に合った空間で過ごすべきだと俺は思うよ、お姉さん」
ナンパを繰り返している友人といることが、彼に合っているのだろうか。
そう思った私だったが、話がまたこじれそうなので口には出さなかった。
実際に私は、彼の友人を悪口を言えるほどに知ってはいないのだ。
「けど、私は貴方が部室にいたほうが過ごしやすいわ。人目を避けてちまちま本を渡しあう必要もなくなるでしょう?」
それ以前に、私は文研が彼に抱いた誤解を払拭したかった。
「人目を避けてるのは、そっちの意向だけどね。俺は、堂々としてても構わないけれど」
「やだよ」
「なんで?」
「人に見られたら恥ずかしい」
「俺といると恥ずかしいの?」
彼は、意地悪く微笑んでいる。
「違うわよ」
本音を言えば、彼と一緒にいて、不釣合いだと笑われるのが嫌だった。白鳥がアヒルを連れている、と言われたくもなかった。
そもそも、私と彼はまるで違う世界に生きているのだ。その間にある接点は、本だけだ。
「私は、貴方ほど外見に自信がないんでね」
「外見なんて関係あるかな」
彼が微笑んで、じっと私を見る。
「お姉さんは、十分に素敵だよ」
私は、あえてアピールするように深々と溜息を吐いた。
「今度そういう言葉をかけたら、メール着信拒否するからね」
「本音なんだけどね」
「よし、着信拒否する」
「わかった、もうやめる、降参」
彼はそう言って、おどけて両手を挙げた。
このまま、彼と交流を続けて良いのだろうか。私の心の警戒信号は、彼の発言は危険の兆候だと告げているのだった。
彼は、私の気など知らずに、呑気に微笑んでいる。
物語の主要人物たる彼と、脇役たる私では、発言一つに対する重要度もまるで違うのかもしれなかった。
読むのが速い彼だ。勉強は、半月で終わった。
そして、彼が再び文研に足を踏み入れる日がやってきた。
私は、部室で彼を待った。
祥子と二人で椅子に座って話をしていると、扉が開いた。
入ってきたのは、佐伯と榊だ。
二人が席につくと、話題になったのは、アニメ化されることが決まった漫画の話だった。
売り上げでは掲載誌の中堅所ではあるが、熱狂的なファンが多いことで知られている作品だ。
その作品は私も好きだったが、祥子にとっては未読の作品だった。
なので、佐伯はその作品の解説を始めた。
私は、違和感を覚えた。その正体が何なのか、私は結論を出せなかった。
話題に乗りながら、違和感の正体について考えているうちに、扉が開いた。
「こんにちわ」
翔太が、笑顔で入ってきた。
「こんにちわ」
私は、大きい声で返事をした。
祥子と榊がそれに続き、気弱げな返事をする。
最後に、佐伯が冷ややかに微笑んで返事をした。
「横、座りなよ」
私はそう言って、椅子をひとつ引く。
「ありがとう」
そう言って、彼は椅子に座った。
「そういえば、星の輪の新刊が出るな」
佐伯が、話題を変えた。
星の輪というのは、有名なシリーズ作品だ。発売済みの内容は、全てアニメ化されている。
「次は主人公とライバルがどうぶつかるかって話ですよね」
榊が返事をする。
「どう盛り上げるんだろうな。組織はもう半壊状態だし」
「俺は、ヒロインの生死が気になりますね」
翔太が、さりげなく話題に入る。
私は、心の中でガッツポーズをした。
「星の輪、読んだの?」
佐伯が、意外そうな声を上げる。
「ええ、全巻読みました」
「外伝は?」
「いえ、まだ」
佐伯は、勝ち誇ったような笑みを顔に浮かべた。
「外伝の主人公、格好良かったよな」
「ですね、メインの話と絡まないのかな」
佐伯が話題を変えて、榊がそれに乗った。
「外伝って、どんな話なんですか?」
翔太が、笑顔を崩さずに言う。
「それは、自分で読んだほうがいいよ。そのほうがじっくり楽しめるからね」
佐伯は、声だけは優しかった。
佐伯と榊が星の輪の外伝の話で盛り上がり始める。
祥子は困ったような表情で相槌を打ち、私は唖然としていた。
流石にこれは、文句を言わなければならない。
そう思って口を開くと、部長である幸恵が部屋の中に入ってきた。
「やっほう」
ひょうきんな挨拶に、全員が表情を緩める。
私も、彼女の登場に安堵して、肩に入っていた力を抜いた。
「お、斉藤くん久々だね。随分ご無沙汰じゃない」
「お久しぶりです。気まぐれに来てみました」
「うんうん、いつだって私は君を待ってるよ」
そう言って、幸恵は翔太の隣に座る。
「で、例のバイトって見つかったの?」
「いえ、中々時間の都合がつかなくって」
「店によっては結構無茶なシフト入れるしねえ」
彼がバイトを探しているだなんて話を、私は始めて知ったのだった。
佐伯は、声のトーンを落として、面白くなさげに榊と話の続きをし始めた。
「バイトするつもりだったの?」
私の問いに、翔太は笑顔で頷いた。
「うん。金はあって困らないしね」
私はどうしてか、胸にもやもやするものを感じてしまった。
彼は、どうでも良いことは私に報告する癖に、悩みのひとつも打ち明けてはくれないのだろうか。
幸恵が自分のバイト先の話をはじめ、翔太はそれに相槌を打つ。私も、二人の会話に混ざろうと努力した。
そのうち、幸恵がふと気がついたように言った。
「ねえ、ジュース買ってきて貰ってもいい? お金出すから、全員分」
「はい、いいですけど」
「それじゃ、お願いね。もう二人来ると思うから、その人達の分も」
私は千円札を渡されて、部室を後にしたのだった。
釈然としない思いを抱えて、私は廊下を歩く。
あえて翔太の知らない話題を選んだ佐伯。私の知らない翔太を知っている幸恵。それが靄となって、頭を支配した。
そして私は、自分自身の矛盾に呆れた。
翔太の私生活の話を疎んじていたのは、自分自身ではなかったか。
ジュースの自動販売機は、二階建ての部室塔の出入り口にある。
私は千円札をその差込口に入れてから、ジュースの種類を指定されていないことに気がついた。
考え込んでいると、祥子が駆け足で近寄ってきた。
「祥子。一緒に持ってくれるの?」
「うん、いいよ。それより、部室の空気がたまらなくなってさ。気分が悪くなりそうだから、来ちゃったの」
「ふうん。皆の飲むジュースって、わかる?」
「炭酸系なら間違いないんじゃないかな」
「まあ、そうだね」
そう言って、私は淡々と自販機のボタンを押す。
大きな音を立てて、受け取り口に落ちた缶を、私は手に取った。
「気分が悪くなりそうって? 話題が二分してるから?」
「なんか、愛憎劇がね……」
「愛憎劇?」
「気づかない?」
祥子は、戸惑うように言う。私は、自販機からジュースを買いながら、頷いた。
「佐伯さんって、部長のこと好きだよね」
私の指が、ボタンを押す手前で止まった。
「だからずっと、斉藤くんに意地悪してるんだと思う」
私は戸惑いながらボタンを押すと、それまで自販機が吐き出した四本の缶を、祥子に持たせた。
そして、さらにジュースを買い始めた。
さっきの違和感の正体が、やっとわかった気がした。
佐伯は、祥子の知らない作品について解説した。そんな親切が出来るなら、翔太が孤立するようなことはなかったはずだ。
彼はあえて、その逆をやり続けてきたのだろうか。
「けど、佐伯さんって部長にアピールしてたっけ」
「そういうのが下手なんじゃないかな。他にも斉藤くんに意地悪してた人はいるけれど、皆部長が気になってるんじゃないかなって」
敵は一人にあらずか。私は、心の中で溜息を吐いた。
「けど、部長は斉藤くんのこと気にしてるよね。だから、部屋の空気が気持ち悪くって」
「それは、考えすぎじゃないかな」
そんな誰も彼もが恋愛の尻尾を追っているとは、私は考えたくはなかった。
幸恵が翔太を部室に招いたのは、先輩としての心遣いの結果だと信じたかった。
「考えすぎかなあ。けど、斉藤くんの隣に部長はいつも座るし、今だって貴女を追い出したじゃない。部長は今、斉藤くんのメルアド聞きだしてるんだよ」
そういえば、ジュースを買ってきてくれと頼まれたのは今回が初めてだ。
考えすぎだ、と苦笑する私がいる。その反面、そう考えればしっくりと来ると考えてしまう私もいるのだ。
私は徐々に気が重くなってきた。
「部室、帰りたくなくなった」
「私も、あんまり帰りたくないな」
「なに? つまるところあの連中って、恋敵になりそうな奴はいびって追い出すわけ?」
「斉藤くんに対する態度を見てたら、そうなんじゃないかなって」
祥子はどうやら、冷静に状況を観察していたらしい。そして、私はあまりにも鈍すぎたようだ。
「帰りたくないなあ」
私は溜息を吐きながらも、部室への道を戻り始めた。
祥子は黙って、その後に続いた。
争いあう男女の中で、彼女にとって安心できる相手は私だけなのかもしれない。
出てくる時は、部室はただの狭い部屋だった。しかし帰り道、その部屋はまるで魑魅魍魎が蠢く魔窟のように思えた。
部室に戻ってからの時間は、あっという間に過ぎて行った。
その内容を、私は今ひとつ思い出すことが出来ない。
翔太を呼び出しておいて、一人で逃げることは出来なかった。かといってどちらの話題に乗ることも出来ず、気まずい思いをしながら本を読んでいた気がする。
祥子は、一生懸命に佐伯と榊の話題に乗っかっていた。
最後には、三回生がさらに二人やってきた時に、翔太が用事を思い出して席を立った。
私がそれに乗じて席を立ち、それを追いかけるように祥子が続いた。
後に残ったのは、上級生ばかりだ。彼らは、幸恵に恋をしている同志なのかもしれない。
幸恵は言った。メリットとデメリットは表裏一体だと。
なるほど、確かにそうなのかもしれない。
幸恵は優しくされるが、同時に美形の男子を遠ざけられてしまう。
翔太は女性受けが良いが、同時に他の男達に危機感を抱かせる。
中々世の中は、上手く運ばないものだ。
部室塔の出入り口で、私は翔太に追いついた。
「ごめん」
私は、彼が振り向くと頭を下げた。彼の顔が、見れなかった。
「お姉さんのせいじゃないでしょ」
顔を上げると、彼はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「けど、理由がわかったなら、もう部室に呼ぶのは勘弁ね」
「うん、ごめん。私……鈍感だった」
「いいんじゃないかな。それもお姉さんの良いところでしょ」
「どこがよ」
私は、思わず声を高くしていた。
しかし、翔太は動じない。
「お姉さんみたいな真面目な人間もいないと、世の中回らないよ」
「褒めてるのかけなしてるのかわからないわね」
翔太は、苦笑しただけだった。
「俺、文研辞めるよ」
引止めの言葉は、思いつかなかった。
その変わりに、口からするりと出た言葉があった。
「私も、辞める」
翔太の顔から、笑みが消えた。
「けど、趣味で話し合う相手がいなくなるでしょ。お姉さんが楽しく暮らせてるなら、それはそれで良いんじゃないかな」
「貴方がいるでしょ」
そう言って、私は彼の横に並んだ。そして、彼の肘を引いて歩き出す。
後ろで、祥子が興味深げに会話に聞き入っていることに気がついたのだ。
あるいは、二人に話しかけるきっかけを失っていたのかもしれない。
「考えてみると、部室で話している時よりも、貴方と感想を言い合ってるほうがよっぽど楽しかった」
「俺も、お姉さんと話してるほうが楽しいよ」
弾んだ翔太の声を聞いて、私はしまったと思った。
調子に乗らせてしまったのかもしれない、と思ったのだ。
「やっぱ今のなし。別にあんたがいなくても、私の生活は変わりないわ」
「きっと寂しいよ」
「……自信過剰ね。顔のせいかしら」
「酷いな。けど、お姉さんは顔は拙くないのに自信過小だ」
「そうやって女を口説くの?」
辛らつな発言に、翔太が絶句する。
私は意地が悪いなと思いつつも、笑みが顔に広がるのを感じていた。