親友来訪
親友の名は、五十嵐明と言い、八角家の親戚筋にあたる家族の長兄だった。
彼は誠発見の報を知ると、一も二もなく八角家へと現れたのだった。喜色にまみれ、やや女性的に整った容姿を大いに崩し、彼は嵐のように八角家をかき回そうとしていた。
そんな彼に在宅中の母と妹は驚き、引き止めることなく誠の部屋へと進ませた。
内心に、良い方向に転がってくれることを乞い願う思いがあったことは、言うまでもない。
嵐は時として、神風となりうるのだ。
彼は部屋の扉を荒々しく開けると、今にも抱きつきかねない勢いで、ベッドに腰かける誠の正面に立った。
「久しぶりだね、親友」
「ああ。探してくれていたらしいな。心配をかけてすまん」
誠はその突然の来訪にも動じることなく、いつも通り違和感無く受け答えをする。レティシアの姿ではなく、当然誠の姿で、だ。
その姿はあまりにも自然で、明は目頭を押さえる動作さえした。どれだけ探そうと、依然消息不明だった親友が帰ってきたのだ。喜ばないはずがない。
明が笑顔でベッドに座る誠に右手を差し出す。差し出された誠はその手を不思議そうに見た。
「握手だよ、握手。再会の喜びに」
明は苦笑いしながら、強調するように右手をぶんぶんと縦に振った。
「ああ、そうだな」
パシィッ、と軽快な音が部屋に響いた。誠が強く明の手を取ったのだ。
「そうそう。それでこそ、」
ふいに、明の言葉が詰まった。怪訝そうに、繋がれた手を観察しているように見える。そして、何度も確認するかのようににぎにぎと手を繋ぎ直す。
「どうした」
「ん、ああ。何でもないよ」
誠が聞くと、明は誤魔化すように手を離した。気にしないで、と手を振りながら、彼は学習机付属の椅子に腰掛けた。
確実に、彼は何かを不審に思った。誠の過去がそれを肯定していた。明はわたしと握手することによって、眉根を潜めるような疑念に駆られたのだ。
それが何かまでは感情に疎いレティシアにはわからない。なにより、何かを疑われたことに気がついたこと自体が僥倖であるのだ。
「二年間、誠は結局どこにいたんだい? そもそも、失踪か誘拐かすらも僕には分からなかった」
明は顔を右手で覆い隠して、悔しそうに言った。真剣に彼は誠を追い求めていたのだろう。なのに見つからなかったことを、悔いているのだ。
言動から察するに、疑って掛かってきていないというのは、恐らく彼が疑いに確証を持てていないということだろう。
だからレティシアは考えた。レティシアなりに精一杯考えた。今は疑われている。何故か知らないけど疑われている。なら、これ以上疑われるようなことはしてはいけないのではないのかと。
「異世界に拉致されてた」
だから誠は冷静によく考えた末に、真面目な顔で正直に、現実味に著しく欠けた真実を答えた。
明は目をぱちくりとさせて誠を見た。最初は驚き固まっていた明だったが、言われた言葉の咀嚼が終わると、困惑して誠を見た。
「からかわれているのか、冗談なのか。悪いけど、馬鹿な僕には理解が出来ないようなんだ。もったいぶらずに本当のことを教えて欲しい」
困ったように笑っていた。疑うにしても、異世界だの滑稽にすぎると、穏和な顔の裏で考えているのだ。
卑屈になり、被害妄想著しくなった頭で、レティシアは妙な幻想に駆られた。信用されるには、と美保の時を思い出したが、誠の姿では魔法を使えないからと断念する。
レティシアに戻るという案は、誠の記憶が断固として許そうとしなかった。明とは、あくまで対等な友人関係でいたいと、つまらない考えが頭をよぎる。
「信じてくれないのか」
しかし、つまらないと思いつつも、レティシアは情に縋るやり方で明の信を得ようとした。作られた悲痛な面持ちは、傷ついたと視覚だけで相手に訴える。
「……信じようにも、異世界なんて言われたら」
案の定、情に絆された明が頭をガシガシと掻いて言った。バツが悪そうなのは、彼の人が良すぎる証拠だ。このような怪しい友人を前にして、疑いを全面に出さずにいるなんて、彼を除いて出来る人間は皆目見当がつかない。
そうだ。昔から彼は騙されやすい男だった。その人の良さにつけ込まれ、いつも貧乏くじを引き、そして今、わたしにさえつけ込まれようとしている。
どうしてその彼がわたしに疑念を覚えたのか、後学の為にも知りたいと思った。
「……なら、聞かせて欲しい。誠が異世界で何をしてきたのかを」
明は覚悟を決めたように、凛々しく笑って見せた。そこに先ほどまでの優柔不断さは見えない。人が良かろうが、やはり彼は食えない男だ、と誠が言っていた。
レティシアは涼しい顔でそれを見つめる。
「少し、長くなる」
「かまわない。知りたいんだ」
部屋に張りつめた空気が漂い始めた。
誠は厳かに語り始める。レティシアを明に教えるつもりはない。よってその物語の主人公は、勇者誠。彼はレティシアになることなく、勇者として召喚され、力を手に入れ、魔王を倒し、仲間に惜しまれながらもこの世界に帰ってきた。
脚色などお手のモノだった。彼女にとって、そうあって欲しかったと、何度も乞い願い、また諦めてきた夢であったから。
誠は終始無言を貫いていた。その沈黙は迫力を醸しだし、今か今かと責め時を狙っているようだ。少しでも矛盾するところが見つかれば、そら見たかと彼は襲いかかってくるに違いなかった。
幸い、彼女は演じきった。造られた人形のわたしに操られる道化を。
矛盾点は見つからない。
誠の姿で喋り終えると、疲れたと言ってベッドに寝そべる。どうして彼はいまだわたしを睨みつけるのだろうか、レティシアにはもう彼の心情を伺い知ることはできない。
異世界の話は何もおかしくなかった。最後に勇者は日本に帰還してハッピーエンドだ。ここが劇場ならカーテンコールと共に爆音の拍手が鳴り響いておかしくない、素晴らしい出来だというのに。彼は拍手どころか、主役を睨む始末。
どこが気に食わないのか。教えて欲しい。
わたしの願った勇者の何が悪いのか。
「誠」
憐れむような声だった。明は誠の名前を、寂しそうに呼んだのだ。その表情も、わたしを可哀想だと憐れんでいる。
レティシアはカッとなった。どうして憐れまなければならないのか。馬鹿にしているのか。もしや、彼はこの後に及んで頭ごなしにわたしの、わたしの夢を否定し、気狂いと称するのか。それは感情が限りなく薄まった彼女にして、沸騰させるにたる所業であった。
「もしやと思うが、俺を否定するのか。キチガイのサイコ野郎と呼ぶのか」
誠は身を起こし、初めて感情が籠もった目で明を睨んだ。彼女は物語を作っておきながら、それを否定されることを忌み嫌った。己がいくら傷つこうと、彼女は一向に構わない。しかし長く考えた物語を否定されるのは、彼女にとって現実を拒絶されるよりも許し難い。
明はいきり立つ誠を見ても、涼しい表情を変えなかった。
「俺は正気だぞ。夢じゃない。夢ならこの二年間、俺はどこにいたと言うんだ」
誠の言い分は正鵠を射ていた。事実明には二年間消息を掴むことができなかったのだ。
明は一つ嘆息した。
「……誠は、魔法が使えるってこと?」
──信じた。誠は理想の物語が、今一人の中で真実となったことを震えるように喜んだ。現実は汚濁にまみれていたけれど、明の中でわたしは理想の勇者となれたのだ、と。
明の言葉には、最初から回答を用意していた。
「使えない。どうやら地球じゃ使えないようなんだ」
この変身魔法中は使えない故に、地球では使えないことにした。どうせ自分以外に魔法使いはいないのだから、この嘘がバレることはない。科学に物理法則のこの世界なら、無い方が自然なのだ。
彼女を浅はかと罵ってはいけない。彼女の嘘は魔法使いでなければ見破れないのだ。そして、誠の知識の中で魔法使いはおとぎ話の存在だった。
だから、わたしは理想の勇者でいられる。彼女はそう信じて疑わない。
空っぽの笑みを浮かべた誠の言葉は、果たして明の眼に剣呑な光を灯すに足りた。
「僕は嘘が嫌いだ」
宣誓するように、明が呟く。立ち上がって、静かに目を閉じた。彼は、確かめるように、言葉を紡ぐ。
「どうでもいい人間ならいい。話したくないなら、いい。嘘をつくのをなんでもかんでも、嫌いだと言ってるわけじゃない。だけど」
そしてゆっくり、目を開く。その時、明の眼光が鋭い矢となって、誠を射抜いた。
「親友にくだらない嘘を吐かれたら、僕は怒るよ。……ねえ、誠。嘘は吐いてないよね?」
そう言って、明はギシリと木の板を鳴らして誠に一歩近づいた。狭い室内だ、その一歩で明は誠を見下せる立ち位置にきた。
レティシアは是か否か、判断しかねていた。明が怒っている、気がする。でも理由に心当たりがなかった。誠時代の記憶が、嘘を言った明の怒りは恐ろしい、と警告を発しているがバレる嘘を吐いたつもりはない。
異世界行きの件は信じてくれたようだし、いちいち蒸し返しもしないように思えた。魔法の件など、この地球に住む平和ボケした弱者に分かるはずもない。
彼女はそう決めつけていた。
よって、
「全て本当だ。信じてほしい」
彼女は人の機微に疎く、地球の裏の常識にもまた疎い。
もしも彼女が一度でも、彼とレティシアの姿で相対していればまた違った結果だっただろう。
もしも彼の姿の感情が、飾りではなく本当ならば、軽々しく肯定などしなかったに違いない。
彼女は間違えた。
「……嘘つき」
ぽつりと床を見たまま、寂しそうに呟く。
見下す明の瞳は、暗い縁取りをされたように隈が強調され、哀れな罪人でも睨むようになにも映し出さない。
彼は掌を明に向けた。
誠は目の前に現れたそれを、見つめるだけでなにもしない。状況に理解が追いついてないのだ。
暫しそのまま停止するが、誠はなにもアクションを起こさない。音が鳴るほど、彼は強く歯噛みした。
彼女は経験論から、この地球に魔法使い、魔導師、魔術師、呼び名に違いはあれどオカルトの存在はいないとした。その方法は間違っていない。
けれど、分かりやすい経験論は、同時に脆弱でもある。
それは、前提の崩壊である。
「──火よ」
簡易詠唱と共に明の掌に集まっていた魔力が、収縮され変化し、轟と拳大の火の玉が魔力の代わりにそこに突然現れる。
「熱っ」
当然のごとく誠の顔がそれに軽く焼かれた。反射によって、すぐさま顔が仰け反ったが瞬間の出来事に誠の身体では、避けるには無理があった。変身後の姿が誠である限り、彼女は一般人の力しか持たないのである。
誠は火で炙られたが、それは火傷した程度の認識でしかない。
そんなことより、彼女の中の誠がアラームをガンガンと鳴り響かせていた。原因はいまだ明の掌に滞空する、魔法だ。
過去の誠の経験が叫んだ。ヤバい、嘘がバレたぞ。許してもらえるまで謝り倒せ! と。明が魔法を普通に使ったことよりも、気になるのはそこである。
──チリチリと頭が痛む。わたしは拒んでいた。
「ねえ、どこまで僕を馬鹿にすれば気が済むの」
誠は首をぶんぶんと横に振った。
仰け反らした分だけ、明は誠に身体ごと近づき火の玉を向ける。誠はさらに身体をそらし、明が追随する。ついには誠はベッドに仰向けに倒れ込み、馬乗りのように明が跨る。火の玉は数センチしか顔と離れておらず、限界まで頭をベッドに沈めるも、遠火で炙られている様相だった。
レティシアは迷っていた。このまま誠の姿を貫き通すのか、それともレティシアに戻って事情を説明するのか。理性で考えれば、戻るのが最善。だのに、何故か頭は戻りたくない、と鬱陶しくも主張する。
「それだけ内に魔力の暴風を溜め込んでいながら、魔法を使えない? ふざけるな。僕が魔力を集め始めたのだって気がついた癖に。どうして避けようとしない。どうして今も抵抗しない」
明は憎々しげに言った。その瞳に点る怒りは、燃え盛る赤い炎ではなく、静かに燃える高熱の青い炎に似ていた。馬乗りに跨ったまま、明は火の玉がない左の手で胸ぐらを掴んだ。
抵抗しないのではなく、誠の姿だから抵抗できないんです、と彼女は悪びれもせずに考えた。
下手に誠の姿のまま抵抗して、喧嘩になったら確実に負ける、とレティシアは情けなくも冷静に判断していた。そして気絶してレティシアに戻るのは、最悪のパターンだ。姿さえも偽ったとバレれば、明は絶交するに違いない。
そもそも信じてもらえるかも怪しい。そうなれば、確実に親友はわたしを襲うだろう。たとえ彼我の魔力差がいくらあろうと、明はそういう人間だ。
レティシアの胸がつきりと痛んだ。その痛みがなんなのか、今の彼女にはわからない。
「すまん。騙して悪かった」
彼女が言えることはそれだけだ。せめて誠心誠意謝るしかないと、過去の誠が言う。
「うぐっ……ぅ」
その答えは胸ぐらが強く引き締められることだった。苦しげに誠の顔が歪む。
「僕が腹立たしいのはそれで騙し通せると思っていたことだ。苦労したんだ。君がクソったれな嘘を吐いたとき、表情を変えないでいることにさ」
騙されたことによる激しい怒りを宿しながら、同時に氷河のような冷酷さを彼は器用に内在させていた。
「あの異世界の話、嘘だろ──?」
それはレティシアにとって聞き捨てならない言葉である。己がいくら考えようと、それは真実に足り得ない。ならば、せめて誰かの中では自分がおとぎ話の勇者でありたいのだ。
彼女はこの後に及んでそう思う。それは、願うことを忘れた彼女が、久方ぶりに願ったことであったからだ。叶わぬ夢は、空想の世界で。
「そんなことは、」
「ない、と言い切れるの。本当に。嘘じゃない。君は天地神妙に向かって、一切の嘘を吐いていないと誓えるか」
彼はそのささやかな願いを凶悪な表情で遮った。言葉には棘があり、執拗で粘着性を持っている。端から信じる気がないと、さらに締まった襟首が言う。
彼の瞳だけは、悲哀と寂寥に彩られていることに彼女は気づかない。
彼女には、どうしたらいいのか分からなくなっていた。これが敵であれば、今すぐレティシアに戻って懺悔の暇なくその強大すぎる力で、卑小な存在を押しつぶし、肉と骨に変えていたに違いない。
どうでもいい人間なら、やはりレティシアに戻り圧倒的な暴力によって、格の違いをしらしめ、身震いさせる畏怖を与えていた。
しかし彼は親友だ。誠が言う。己が力が最強だと親友にひけらかすのは、果てしなく矮小な行為に思われた。その行為は奴らとなにが違うのか。
己が魂だけは、奴らのような卑劣、低俗、厚顔に堕としたくはない。そうなればわたしは己を許すことなく軽蔑し、生きることを辞さなければならない。
彼女は突如雷に撃たれたような衝撃を感じた。それは物理的ではなく、精神的に彼女は打ちのめされてしまったのだ。
一体なにが違うというのか。己が事実を隠し、必死に嘘を言い放ち、ガキのように癇癪を起こす。なにも違わないではないか。瞳が焦点を失い、宙空をさまよう。己の恥ずかしさに汗が身体中から吹き出した。
思考が奴らに及ぶと、彼女は途端に冷静さを失った。逃避する思考を卑怯と罵り、嘘を吐き己に利するのを俗物と蔑む。
レティシアは己の行いが全て奴らとの共通点であるかのように思えてきた。そんなことは許されない。耐え難き恥辱に誠の表情が苦渋に満ちた。
「……言いたく、ない」
彼女は誓うのを拒んだ。同時に、嘘だと認めることも拒んだ。それは唾棄すべき行為に思われたが、彼女はどうしても言いたくなかった。
たとえ奴らと同列に数えられようとも、それでもレティシアはあのおぞましい記憶を口になぞ出したくなかった。
「……ごめん。僕も熱くなりすぎたようだ。話したくないことを、無理矢理聞き出そうとするなんて、どうかしてる」
彼は最初に、話したくないことなら、いい、と言っていた。それを律儀に守ったのだろう。彼の手の火の玉は霞のように消え去った。そして強く握りしめていた胸ぐらも離し、馬乗りからも立ち上がる。
明は誠の手を掴み、助け起こした。スプリングがキシリと音を鳴らした。
二人は並んでベッドに座る。
誠は迷っていた。せめて本当の姿を明かすべきだと考えていた。しかし明かしたくないという相反する考えが、性懲りもなく頭を漂っている。
どうして頑なに知られることを拒むのか、そんな心、とうに枯れ果てたと思っていたのに。
明もまた、沈黙を守っていた。思わず嘘に過剰に反応し、キレてしまったがそれはお門違いだったと自嘲しているのだ。守れなかった、救えなかったのは己の癖に、手前勝手にキレて何様だと、己を嘲け笑っていた。
長い沈黙が二人に流れる。
「……五十嵐家は、代々魔法を伝える由緒ある家系なんだ」
このままでは埒が明かないと感じた明は、自分の出自を語ることにした。本来は言ってはならないこと。その秘匿性故に、地球では魔法が無いことになっていた。
彼は気づいているだろうか。他者が求めず自身を語るのは、まるで免罪符を手に入れようと躍起になっているようにしか見えないことを。
「やめろ。言うな」
誠はこれ以上聞いてはいけないと判断した。それは己の危うい精神の均衡を保つためであった。
聞いてはいけない。しかしぼそぼそとしか言わない誠の声は、空気に溶け込んで緩やかに消えた。
「だから」
「……言うな」
口の中で溶けて消える声でしか、誠は喋っていない。ほんの少し前、明が当たり前のように魔法を使った時に、ほとんど気にしなかった理由。どころか、怒りを解かねばと見当違いな悩みを思考していたのは、レティシア自身の為だった。
聞きたい。聞かねばならない。唆されるように、ぐるぐると余計な思念が割り込む。一秒が数十秒にも感じる。
いつしか誠の顎には大量の汗が滴り落ちていた。
今の誠を見て、誰が感情が無い、などと言うだろうか。ふざけた戯言だ。こんなにもレティシアは苦悶し、煩悶し、憤怒を押し隠しているというのに。
「僕は幼い頃から魔法という──」
「──黙れぇ!」
空気が震えた。そう勘違いするほどの声量で、誠は叫んだ。本人はいまだ俯き怯えたように丸まっているのに、威圧感だけが周囲を当たり散らすように威嚇していた。
明は驚き、その場を飛び退いた。本棚に背中がぶつかり、ばさばさと本が落ちてゆく。痛みに顔をしかめるが、明の目だけは様子がおかしくなった誠を捉えていた。
誠は俯いたまま、決してあげようとはしなかった。
「誠、一体どうしたのさ」
明は努めて平時の声を出そうとしたが、震えているのは隠せていない。もう圧迫感はなくなったが、あの一瞬得体の知れない化け物に追いかけられ、無惨に殺される情景を幻視した。
その恐怖が身を苛み、目の前の親友が恐ろしい別の何かに見えてきてしまっている。それにしても何がそこまで誠の逆鱗に触れてしまったのか、レティシアの事情を何も知らぬ明にはそれが分からなかった。
「──あ、ああ──」
レティシアは、タガが外れたように噴き出した怒りを冷まそうと、必死で己を抑え込んでいた。どうして、とつまらない過去の亡霊が今にも襲いかかろうとしていた。
助けてほしかった。感情が消え去る瞬間が、自身が塗り変えられていくおぞましい感触が、記憶の中から呼び起こされ侵されていく。
発狂してしまえば楽なのに、精神を陵辱されている己にはそんな当たり前の常人が持つ権利すら、奴らに剥奪されていた。
何度も叫んでいた。“助けて”そんな言葉は、唯一許された脳内で飽きるほど叫んだ。その安息地すらも、気づけば奴らに弄ばれ、辱められ、わたしは、全てを諦めた。
どう考えても助けはこない。だってこの世界には味方がいない。そして地球には魔法がない。異世界を発見することは不可能。だからわたしは諦めるしかなかった。奴らにわたしが書き換えられていくのを、呆然と指をくわえているしかなった。
──地球には魔法がない。
その前提は、覆されてはいけなかったのだ。わたしが諦めた意味がない、レティシアはぐるぐると回る思考で意味を求めた。
だって、そうでしょう。わたしが諦められたのは、地球に魔法がないからで、友の助けを待つなんて、そんな希望は最初に捨てた。
レティシアの瞳は次第に焦点を失う。天と地が逆さまになるようなアイデンティティの崩壊を感じ始めていた。
ぽたぽたと、顎から滴り落ちる汗がベッドを延々と濡らす。
ぼやける視界の端に、マホウツカイの親友がいた。彼は心配そうにこちらを覗き込み、一歩踏み出すか迷っていた。
それはおかしい。だってマホウツカイは異世界にしかいないのに。つまりここはアースガルズということになるじゃないか。もしかしてわたしは、奴らから解放されていなかったのだろうか。それなら説明が付く。付いてしまう。クソったれな連中にまた記憶を弄ばれているのか。ああ、そうか。そうなのか。わたしはまだ人形のままなのだ。
動悸が激しい。呼吸が荒い。頭がガンガンと鳴り響く。肩が上下に揺れる。
待て。違う。大丈夫だ。俺はここにいる。地球に俺は帰ってきた。明は本物だ。考えるな。今は、考えてはいけない。一人になれ。一度一人になって冷静になれ。
レティシアに誠が囁いた。変身魔法を使うことにより生まれる過去の人格を元に作られた誠が、恐慌状態に陥り始めたレティシアを宥めようとしていたのだ。
それはまるで自慰行為以上に自己完結の、ともすれば悪趣味とも言われかねない出来事だった。
だが、脳に直接響く自分の言葉は、辛うじてレティシアに己を取り戻させることに足りた。ここがかつて己のいた悪辣な世界じゃないと認識することができた。
冷静になれ。
繰り返される文言が、レティシアの意識を繋ぎ止めている。
「……帰ってくれ」
掠れた声で絞り出す。
明はようやく誠が発した言葉をしっかりと聞いた。彼は壊れたように呻き声を上げていた親友を置いていけるほど薄情ではない。薄情ではないが、
「……頼む……帰って、くれ」
身を引き裂かれるような掠れた声に鬼気迫るものを感じ、心配の声は封じられた。
痛ましいものを見るように、明は顔をくしゃりと歪める。
どうして誠がこうなってしまったのか、明は自身の言葉を省みたがそれがどうしてもわからない。もしや魔法が使える家系だったと隠していたことが気に食わなかったのかもしれない。そう当たりをつけてみるも、どうにもしっくりこないと首を捻った。
それだけじゃないはず、と彼は思った。
「わかった。またいつか」
明はこれ以上に長居は誠に負担を掛けるだけと判断し、そっとドアに向かった。ギシリと音が鳴るのを、レティシアは虚ろな意識で聞いていた。
レティシアは返事をしない。キィッと、長い間油を差していない木製のドアが声をあげる。明は誠を見ている。何を自分は間違えたのか、後悔しているように見えた。
そもそも彼には負い目があった。それは誠を助けられなかったという負い目。魔術結社の中枢部に食い込んでいる五十嵐家の力を持ってしても誠を助けられなかった。全力だったとか、やるだけのことはした、などという言い訳をするつもりはない。唯一、魔法の痕跡を発見できた自分にこそ助けられる可能性があったというのに。
むざむざ親友を見捨ててしまっていた。
誠が帰ってきたと聞いたとき、彼の胸中には喜びよりも安堵が上回っていた。それと同時に助けることができなかった不甲斐なさ、悔恨。
誠に再会してみれば、怪しげな雰囲気を身に纏い、長年の努力を嘲笑うかのような異次元の魔力量をその身に宿していた。
そうだ。きっと自分は嫉妬していたのだと明は自嘲する。
だから、魔法を使えない、などという見え見えの嘘を吐かれた時あんなにも腹が立ったのだと、自分の幼稚さと屑っぷりに笑いが出そうになる。親友などと、お笑い草だ。
人は一度ネガティブに考え始めると、際限無く真っ暗闇の虚空に落ちていく。自身を非難することは、ある意味で逃避し、ぬるま湯に浸かることと同義だった。
しかし彼は自分がキレた時に、最も感情を占めていた事実を忘れている。
明は出ていく。レティシアは何も言わない。ドアが閉まった。明はドアに力無く凭れる。レティシアはぶつぶつと何事かを呟きドアを見つめる。一連の動作は、流れるように行われ、二人の間に見えざる亀裂が大きく走った。
──なあ、そんなに僕は信用できないかい──
言葉に出来なかった想いは伝わることなく、寂しげに空気と混ざり合い溶けるように消えていった。
これから大体この程度の分量で毎週更新になると思います




