指揮刀
「いけねえっ!」
市川は唇を噛みしめた。側にいた新庄プロデューサーは、必死にどこかへトンズラを決め込もうと、逃げ口を探している。
洋子といえば……とっくの昔に姿は欠片もない。市川が叫んだ瞬間、雲を霞と逐電したのだ。
「その場を動くなよ!」
指揮刀を振り翳した騎馬隊長は、さっと馬から降りると、猛然と演壇に駆け上がって、市川を目指して殺到する。
市川には、何もできない。ただただ、自分を目掛け、怒りの炎を両目に燃え上がらせた騎馬隊長の顔を見詰めているだけだ。
指揮刀の切っ先が、市川の喉元へ擬された。
「お前は誰だ! 所属は? 名前は?」
真っ赤な顔で、騎馬隊長が矢継ぎ早に質問を重ねる。口許には真っ黒な髭を蓄え、髭先は念入りにポマードで固められて、ピンと両端に撥ね上げられていた。両目に、折角の閲兵式を台無しにされた怒りが、めらめらと燃えている。
市川は、ぱくぱくと口を開くだけであった。答えようとするのだが、喉元に何か塊が込み上げてくるようで、一言も返答する余裕はない。
隊長の視線が、市川の所属を現す肩章に止まった。表情が「意外なものを見る」とばかりに、一瞬ぽかんとした顔つきになる。
「近衛兵か! すると、シン中佐の指揮下にあるのだな?」
シン中佐とは、新庄プロデューサーの現在の呼び名である。隊長の視線が、じろりと新庄に向けられる。
「中佐殿。これは、どういう騒ぎなのですかな?」
隊長の階級は、大尉である。一応は上官だが、新庄の返答如何によっては、タダでは置かない意気込みが溢れている。
新庄はどぎまぎとした態度で、身を強張らせている。やっと口が開いた。
「そ、それが、そのお……この暑さで、ちょっとおかしくなったのではないか、と」
「ふうむ。おかしく、ね!」
隊長は皮肉たっぷりの表情になって、念入りに新庄の顔を、まじまじと見詰める。