ビンタ
「『蒸汽帝国』かあ……」
ぽつり、と市川は呟いた。隣で座り込む山田が、微かに頷く。
「ああ、まさに『蒸汽帝国』の世界だ」
「もうっ! 二人とも呑気な台詞、口にしてばかりじゃないっ! どうなってんのか、教えてよっ!」
二人の目の前に、洋子が苛立った様子で地団太を踏み、叫んでいた。足踏みをする洋子の胸が、ゆっさゆさと揺れるのを見て、市川は慌てて視線を逸らした。
ふと隣の山田を見ると、両目が飛び出ていて、口許はだらりと開かれていた。山田は市川の視線に気付き、顔をこっちへ向けてきた。
どちらともなく「うへへへ……」と笑い声を上げていた。
「馬鹿っ!」
ずかずかと洋子が近づくと、素早い手の動きで二人の頬を張り飛ばした。
きいーん、と耳鳴りがして、市川の目の前を極彩色の星や、稲妻が乱舞した。
洋子は真剣に怒っていた。
「何考えているのよっ! 何が起きているのか、あんたらには判っているの?」
山田がゆったりとした口調で話し掛けた。殴られた頬を、もそもそと撫でている。
「何が起きているのか、さっぱり理解できていないのは、おれも同じだよ。洋子ちゃん」
最初に目覚めた酒場をほうほうの態で逃げ出し、三人はどうにか人目を避け、建物の裏手を伝ってこの空き地に逃げ込んだ。
周りに聳える建物は総て裏側を向け、窓は一つも開けられていない。
都市計画によくある、エア・ポケットのような空き地らしい。
裏側の壁には、無数の配管がくねくねと葉脈のように伝い、建物と建物の間の空中には、蜘蛛の巣のような電線が張り巡らされていた。