屋上
【タップ】の屋上には、びゅうびゅうと唸り声を上げる風が吹き渡っている。
空を見上げると、幾層にも重なった雲が、アニメの多重マルチ撮影のような動きで、生き物のように飛んでいく。
吹き渡る風が、市川の長い髪を巻き上げ、五十キロもない細い身体をぐいぐい押した。
だんだんだん! だんだんだん!
新庄プロデューサーが、気違いのように何度も屋上の演出部屋のドアを叩いている。
「木戸さん! 今すぐここを開けろ! 絵コンテはどうした? 打ち合わせは……」
市川は不意に襲った立ち眩みに、ぶるっと頭を振った。一瞬、ぼうっとなっていた。
思わず両目をごしごしと右手で擦り「あれ?」と呟いた。
妙だ……この違和感は?
そうだ、自分は眼鏡を架けていない! いや、そもそも、眼鏡を架けていたっけ?
ぼんやりと市川は周囲を見渡す。
ここはアニメの制作会社【タップ】の屋上だ……。おれは『蒸汽帝国』と言うアニメ・シリーズの作画監督をやっている……。
一々確認しないと、自分が何者だか判らなくなるような不安に襲われていた。ふと気付くと、自分の手を、誰かがぎゅっと握りしめているのを感じる。
目をやると、そこには洋子……色彩設計の宮元洋子の顔があった。洋子と市川の視線が絡まりあう。お互いの手がしっかりと握られているのを見て、かーっと顔が赤らむ。
が、手は離さないでいた。なぜか、こうしているのが当然、と思っている自分がいた。
洋子の胸元に目が行き、市川はまたまた自分の顔が赤らむのを感じていた。洋子の胸って、こんなにでかかったか? 信じられないほどの膨らみは、彼女の顔ほどもありそうだ!
よせ! 今はそんな場合じゃない!
市川は慌てて周囲をもう一度、見回す。
洋子の後ろには山田……美術監督の山田栄治の姿があった。
怒鳴っているのは新庄プロデューサー……新庄平助【タップ】代表取締役。
なぜ自分は、こう何度もお互いの名前や、職種を確認しているのだろう?
なんだか、長い旅行に出ていたような感覚が、身内に残っている。