ボタンの乱れは心の乱れ
夏祭りに彩音を誘うつもりだったのに、拓海は恥ずかしくてまだ声をかけられていなかった。
すでに祭り当日なのに、である。
補習でたった一人きり教室の窓から見上げれば、夏空の白い雲が映える。
――この数日、彩音に会えなかったんだから、誘う機会が無くても仕方なかったんだよな。
ところが、『ひょっとして、彩音の今日の予定はとっくに決まっているんじゃないだろうか』と今さらながら気付くと、特大のため息が漏れた。
机に突っ伏す。
彩音はかわいい。文句なしにかわいい。おしとやかで話し方も穏やかだし、誰にでも優しい。そしてすでに弓道部の次期エースと目されている。袴姿の凜としてクールな彩音は、女子からも人気だと聞く。いわんや、男子をや。
もうみんな、彩音を祭りに誘っているに違いない。そう思った瞬間に嫉妬心が湧き上がる。
そんなんだったらもっと早くに誘えば良かったと思っても、後悔先に立たず。
校舎裏の木立から響く蝉時雨。ワンワン響くセミの声で、拓海の頭の中はかき乱されるばかりだった。
「お、拓海いたいた! 夏休み補習は捗っているかネ?」
ガラッと音を立て開いた扉から、日焼けした制服姿の女子が教室に駆け込んできた。部活の朝練が終わって着替えてきたのだろう、制汗剤の微香性シトラスが拓海の鼻をくすぐる。
「なんだ、真琴か」
「何だとはなんだ。見目麗しいレディに対して、失礼なヤツめ」
「本物のレディが自分のことを『レディ』なんて言うわけないだろう」
「私がソムルズ王国伯爵令嬢の転生者だと知っての無礼か」
腰に手をやり、真琴は大げさにふんぞり返る。
真琴が最近はまっているという『鍵屋の娘に転生した伯爵令嬢、金庫の中身と一緒に敵国王子のお心も頂戴いたしますわっ!』という作品の影響だろう。面白いからと勧められたものの、内容がとっちらかり過ぎて理解が追いつかず、拓海はまだ序盤しか履修できていなかった。
「なんなら『お嬢様』でも良いぞ」
「お嬢様っていうのは彩音みたいのを言うんだよ。真琴には似合わねぇって」
いつものようにガハハと真琴が笑い飛ばすのを拓海は期待していたのだが、真琴は目を伏せた。
「……だよね。知ってる」
「おい、どうした?」
「あたしがお嬢様なんて似合わないことぐらい、知ってる。シャツの第一ボタンだってしてないし」
「そういう問題かよ」
「ソムルズ王国伯爵令嬢の箴言『ボタンの乱れは心の乱れ』」
「はいはい、さすがは転生された伯爵令嬢様」
真夏にシャツのボタンを外すのはほぼ亜熱帯と化した我が国におけるサバイバルとしての知恵である。人によっては胸元近くまで開けているぐらいだ。実際、拓海もこの暑さに第二ボタンまで外している程だし、目の前の真琴も第一ボタンは外していた。
誰が好き好んで真夏に第一ボタンをしめているんだろう……と思った瞬間、拓海の脳裏に彩音の姿が浮かんだ。
真夏でも、いや、真夏だからこそ、折り目正しく第一ボタンまでしめる。それを自然にできるのが彩音だった。確かに、真の『お嬢様』は第一ボタンでさえ疎かにしてはならないのだろう。
「そういえば、彩音を今夜のお祭りに誘うんじゃなかったっけ。どうだった?」
「ええと……」
「なによ、目を逸らして。……ははぁ、もしかしてふられた?」
「いや。実は……誘えてない」
「ありえない。まったくもう、だらしないんだから」
「誘うにもここんところ全然、彩音に会えなくてさ」
「メッセージおくればいいでしょ。LINFでもペケでもnoneneでも繋がってるでしょが」
「でも、こういうのは直接会って伝えた方が……」
「じゃあ仮にあたしとお祭り行こうって時でも、メッセージでは誘わない?」
「どうだろう。……確かに、メッセージで済ますな」
「くぅぅっ! そういうところだよ、そういうところ! ええい、まどろっこしい!!」
真琴はキッと正面から拓海を見つめた。
「拓海、二択。リアリティーショーとかでよくあるヤツよ。今すぐ、どっちか決めて。メッセージ送って彩音を今夜のお祭りに誘うか、彩音はあきらめて、あたしとお祭りに行くか」
「突然なんで……」
「なんでって、もう見てらんないからに決まってるでしょ。さ、どっち?!」
「待て、まずは落ち着けよ」
そういう拓海の方が全く落ち着きを失って、目をキョロキョロさせていた。
「あのさ拓海。……あたしもデリケートな話だと思ったから、今日までちゃんと言えなかったけど。拓海、最近本当にかっこ悪いし情けない。なんか浮ついてて、骨抜きで。昔はそんなんじゃなかった」
怒っているのだろうか。真琴の頬は上気して、拓海を見つめる瞳は、なんだか泣きそうに潤んでいるようにさえ見えた。
でも普段とは全く違う気迫。
「で、どっちなの?」
適当にふざけたり、茶化したりできない状況にあることに、今さらながら拓海は感づいた。
もう何日も前から、彩音にさっさとメッセージを送れば良いことぐらい、拓海も当然、気付いていた。
そもそも、彩音とは幼なじみである。
家も近所でよく遊んでいたし、メッセージもやりとりしていた。
最近、どちらともなくメッセージを送らなくなってしまったのだが、祭りに誘うにしても、これまで通りにメッセージすれば良かったのだ。
だが、いざメッセージを書いてみると、ぎこちなく、どこか違和感しかない。なんだか自分とは別物な気がして、すぐに消してしまった。
そして拓海は気付いてしまった。どうしても、彩音に対して『これまで通り』ができなくなっている。
同じように幼なじみの真琴とは、今でも相変わらず、というか、むしろ以前よりも頻繁にメッセージもやりとりしていた。前より頻繁に二人で遊びに行くし、なんなら悩みの相談まで普通にしている。本当にかけがえのない友人だ。
同じ幼なじみだったはずなのに、彩音と真琴、どうしてこんなに変わってしまったのだろう。
あるいは、変わってしまったのは自分の心の中で、二人は変わっていないんだろうか。
思考がグルグルと同じ問いを繰り返す。
変わったのは自分?
それとも彩音? 真琴?
……よく分からない。
そして結局、拓海は彩音にメッセージは送らず、真琴にメッセージする。ああでもない、こうでもないと結構遅い時間まで真琴とやりとりをして、遊ぶ約束をして、そのまま眠りにつく。
そんな日々が続いていた。
だが、こうして自分もずっと悩んでいたのだ。
さんざん、真琴が『聞かせろ』と言うから彩音のことも相談した。
それを今さら、『格好悪い』とか『情けない』と真琴に言われたのは正直、腹立たしいし、悔しかった。
頑張って、とか、お前ならできる、とか言っていたのは、俺をおだてるだけだったのか。
思っていた以上にマジメに悩んでいて感心した、とか言っていたのも、口先だけのおべんちゃらだったのか。
真琴だけは親友だと思っていた。それなのに、人がまじめに悩んでいるのを、コイツは野次馬根性で、眺めて、煽って。あまつさえ、身近なリアリティーショーとして楽しんでいたのか。
真琴はうっすらと笑みを浮かべ、拓海の方を見ていた。
――裏切り者め。
拓海は、急に頭の芯がひんやりとしてきた感覚を覚えた。
携帯を取り出し、メッセージアプリを立ち上げる。画面に表示された宛先は彩音だった。
――二択だって? ふざけるな。選択肢は初めから彩音一択だ。真琴、誰がお前なんか、祭りに誘うか。俺だけじゃない。人のことをおもちゃ扱いしていたお前なんか、お前なんか。だれも誘うわけないだろうがよっっ!!
打ち込んだ彩音へのメッセージの本文は、淡々としていた。
今日の祭りに行かないか、という用件のみ。
だが、これまでウジウジと悩んでいたのが不思議なぐらい、呆気ないほど簡単に、ものの十秒もかからず彩音へのメッセージは書き上がっていた。
メッセージの送信ボタンを押す直前。
怒りと悔しさとでグチャグチャな熱い狂気と、ぐるっと回って冷酷なまでに冷え切った脳髄の衝動に揺れる拓海の心に、一瞬の静寂が訪れた。
ふと、携帯から顔を上げる。
拓海の目の前には、目は真っ赤で今にも泣きそうなのに、満足げな笑みを浮かべた真琴の顔があった。
……あれ。俺……何しているんだろう。
拓海を支配していた熱い狂気と冷徹が、霧散した。
不思議な静寂。
蝉時雨は相変わらずやかましい程なのに、それがはるか遠くに感じられる。
明るい夏の昼間が、裏返って靄につつまれたように感じる。
なんで真琴は、こんなにも哀しそうに笑っているんだろう。それも、満ち足りた様子で。
なんで、歓びと失望の入り混じった目をしているんだろう。
なんで、すぐ目の前にいるはずなのに、遙か遠くに行ってしまったように感じるんだろう。
なんで、なんで。
拓海は、急に怖くなった。
全てが繋がったような感覚と同時に、大事な何かの消える予感がした。
そんな恐怖を覚えた直後、蝉の大合唱と、真夏の直射日光と、それから蒸すような暑さが一気に押し寄せてきた。
拓海は静かにキャンセルボタンを押した。
そのまま、もう一度、宛先を選び、改めてメッセージを書く。
『今日のお祭り、俺と一緒に行ってくれませんか』
今度は迷わず、送信ボタンを押した。
「済んだぜ、真琴」
「あはっ……。やっぱ一瞬だね」
何かを堪えていたような吐息とともに、真琴は力なく笑った。
その直後に、驚いた様子で携帯を取り出す。
「え? ……なんで?」
「……俺、やっぱチキンだ」
「そんなのとっくの昔に分かりきってたことじゃん。で、チキンだから彩音を誘うことができず、あたしを選んだってわけ?? まったく失礼もここに極まれり、ね」
真琴は腕組みをした。いつも通りにみえるが、目は笑っていない。
「違うよ。……俺、真琴のいない世界が怖かったんだ」
「へ?」
一瞬真顔になった真琴が吹き出す。
「何それ。まさかの突発性厨二病?」
「うっせぇ……。ああ、厨二病で結構」
「拓海の突発性厨二病発症……。ガハハっ!」
「笑い声でかっ!」
真琴はお腹を抱えてひとしきり笑って、ようやく落ち着きを取り戻した。
「腹筋痛い。片腹痛し……」
「そんだけ笑えばいい筋トレにもなるだろうよっ。ったく」
「……でも、いったいどういう心境の変化なの」
拓海は頭をかく。
「それはその……。俺も正直、よくわかんない」
「何それ。呆れた」
「だけど、一つだけ分かった。とにかく俺は、真琴と祭りに行きたい。……ダメか?」
拓海に真っ直ぐに見つめられ、首筋まで真っ赤になった真琴が、無言でコクン、とうなずいた。
「ソムルズ王国伯爵令嬢の箴言『人の心は量り難し』」
「なんか意味深だね」
「……しっかりエスコートなさいよ」
「はいはい、伯爵令嬢様」
遠くの神社からは祭り囃子が風に乗って聞こえはじめていた。




