まんめいさま
従兄弟の和明兄さんが二十歳代前半だった頃の話。
和明さんが住んでいるところは山深いところで、子供の頃から山や谷川でアケビや栗や鮎をとって食べるのが好きだった。
ある晩、和明さんはふと谷川の蟹が食べたくなった。サワガニではなく岩の下にいる、地元ではオオガニ、と呼ばれている二十センチ程の蟹である。
オオガニは夜行性のため、和明さんは夜遅くにヘッドライトや懐中電灯を持って出かけた。
オオガニがよくいる場所の途中には地元の人たちが
“まんめいさま”
と呼んでいる、神様を祀った小さな社がある。
まんめいさまは主に山での行き来の安全をお願いする神様だが、他には“歯”の神様でもあり、まんめいさまの社にお供えしてある箸で食事をすると虫歯が治るとされ、虫歯が治ると代わりに新しい箸を社にお供えする。また、虫歯治療ではなくとも何かの願掛けでも箸をもらって帰り、願いが叶えば箸を折って代わりの箸をお返しする、とされていた。
和明さんは山や谷川に入る時はいつもまんめいさまにお参りしていた。その日もまんめいさまにお参りしてから谷川に入り、オオガニをとった。
納得のいく数がとれ、和明さんは帰る事にした。
もう深夜であったが、慣れている山道である。
まだ二時にはなっていなかったので、和明さんは早く帰れば一寝入り出来るだろうと、真っ暗な道を歩いていた。
そしてしばらくして気づいた。
自分がどこを歩いているのかわからなくなっていた。
子供の頃から歩き慣れた山道なのだが。
さぁて、と和明さんはあたりを見回しながら立ち止まった。
こういう時は焦ってはいけない。焦ってはいけない……
そう思いながらも気は焦り、ゾワゾワとした得体の知れない恐怖感も押し寄せてくる。
来た道を振り返ると月明かりの下、黒い木々の影の間からまんめいさまの社のあたりが見え、そこまではなんとか戻れそうだった。
和明さんはまんめいさままで戻り、社の前に立つと帰り道の無事をお願いし、お供えの箸を一膳もらって懐に入れた。
それから再び山道を下って行くと、今度はちゃんと家路につく事が出来た。
家にたどり着いた時はすでにすっかり朝になっていた。まんめいさまのところからは、いつもなら三十分もあれば帰って来られるのだが。
やれやれ、と家に入ると台所の方からはほんわかと朝食のにおいがした。
「母ちゃん、帰ったで」
和明さんは台所の玉簾をくぐりながら言った。
「母ちゃん」
しかし、台所には誰も居なかった。コンロの鍋からは味噌汁の湯気が立っており、台所のテーブルには食べかけのご飯茶碗や皿が乗っている。
が、誰も居なかった。ただ自分のうしろで玉簾がチャラチャラと鳴る音が周りに響き、壁の時計が秒を刻むカチカチという音が聞こえていた。
「母ちゃん?」
隣の居間をのぞくとテレビが点いており、いつもの朝の番組をやっていた。御膳の上にはお茶の入った湯呑みがいくつか出ていた。
だが誰もいなかった。
父も母も祖母も弟も妹も。
「……」
和明さんはテレビの音だけが響くもぬけのからの家の中を眺めた。そしてふと気がついて家の外に出た。
和明さんは玄関先で懐からまんめいさまの箸を取り出し、まんめいさまの方を向いてパンパン、と手を打つと
「ま、ままままんめいさままんめいさま、ありがとうございました、ありがとうございましたっ、ありがとうございましたっっ!無事家に帰りました。お、お、お返しはまた後ほどいたしますっっ!」
と言いながら箸を折った。
パキン、
と箸が音を立てて折れると
周りの気配が何か変わった……気がした。
和明さんが再び家に入ると
台所には母親が流し台に向かって立ち、テーブルでは弟と妹が食事をしていた。
居間からは父親が新聞を手に出て来て
「おぉ、なんねぇ、お前。今帰ったんか。夜っぴでとるほど、蟹がおったか」
と呑気な顔をした。
奥の仏間では祖母が仏壇に向かって手を合わせていた。
「ごはんよ」
台所で母親が和明さんを呼んだ。
和明さんは母親に味噌汁を出されながらテーブルの前に座り、大きくため息をついた。
和明さんはその日のうちに父親とまんめいさまの元へとお参りに行った。
お供えの箸を持って。
まんめいさまは今もお祀りされている。




