在
1話完結です。
彼は、生まれたときから強かった。力というより、世界との距離が近かった。触れれば応え、踏み出せば道が生まれる。人々はそれを畏れ、同時に頼った。彼自身も、それを当然のこととして受け入れていた。ただ一つ、彼には恐れているものがあった。名を失うこと。存在した痕跡がどこにも残らなくなること。誰にも語られず、誰の記憶にも留まらず、ただ消える。それだけは避けたかった。
その日、彼は同行者と出会った。荒野でも都市でもない、意味の定まらない土地――境界だった。彼は、初めて自分と同じ速度で歩く存在を見た。言葉は多くなかったが、同行者は彼が世界をどう見ているかを理解していた。力ではなく、在り方を見ていた。
二人は共に歩いた。怪物を倒し、道を越え、名もない場所に名を与えた。その旅は語られるものになる、と彼は確信し始めていた。自分は忘れられない。そう思えた。
変化は静かに訪れた。同行者は次第に歩みを遅らせた。傷でも呪いでもない。ただ、自然が季節を移すように身体が衰えていった。ある朝、同行者は倒れた。熱でも寒さでもなく、呼吸はあるのに世界との繋がりが薄れていく。彼が助けようとすると、同行者は首を振り、「これは、運命だ」とだけ告げた。
数日後、同行者は息を引き取った。怒りも恨みも残さず、ただ静かに。彼は叫ばなかった。代わりに、同行者の姿や声、仕草をひとつずつ思い出そうとした。忘れてはならない、と思った。
朝になると、同行者はいなかった。彼はその場に立ち尽くし、探すという行為がどこから始まるのか分からなかった。歩き出すと人の気配はあったが、声をかけても返事は遅れ、視線は合わない。肩が触れても誰も振り返らない。違和感は外ではなく内側にあった。同行者の顔を思い浮かべようとすると輪郭が曖昧になり、声を思い出そうとすると別の音にすり替わる。それらが薄れるたび、世界もまた彼を捉えきれなくなっていった。
彼は二人で歩いた道を辿ろうとしたが、途中で迷った。通ったはずの道が思い出せない。同行者と来たという確信だけが残り、理由は残らなかった。距離だけが身体に残り、意味は残らなかった。
やがて彼は、別の境目に行き着いた。それ以上先は道として成立していない。踏み出すことはできるが、その瞬間に何かが完全に失われると分かった。そのとき、同行者の声が遅れて浮かんだ。――進め。その言葉だけは失われなかった。声の主の姿が曖昧になっても、その存在だけは確かにそこにあった。
彼は、その場に留まることを選んだ。終わりを受け入れたわけでも、諦めたわけでもない。忘れてしまう前に、確かめる時間が必要だった。世界は何も語らず、押し戻すことも迎え入れることもなく、彼をそのままにしていた。
名を呼ぶ声はなく、記される言葉もない。それでも彼は、まだ消えてはいなかった。同行者の存在と、「進め」という言葉が、彼を世界に繋ぎ止めていた。
彼は境目に立ち、自分に名を与えた。誰かに呼ばれるための名でも、語られるための名でもない。ガルム。
世界に残るための名だった。彼は動かなかった。同行者を忘れた時、この名も、この境界も、すべて消えるだろう。それでも今は、可能性だけは、手放さなかった。




