自分ごとのように自慢し、他人ごとのように非難する
自分とは何も付き合いのない誰かが世界の大舞台で活躍したり、自分が所属しているわけでもない企業や団体が大きな功績を上げたりすると、それを自分ごとのように誇らしく感じることがある。例えば、メジャーリーグで日本人選手が活躍したり、老舗の国内企業が海外の有名企業を買収したりするニュースに触れて高揚感を覚える人は少なからずいると思う。
もっと身近な例だと、自分の子供が賞をもらうとか、自分の出身校の部活動が全国大会で優勝するなどといった場合を想像すれば良い。
子供が賞を取るために親も一緒に切磋琢磨したというのであれば、子供の成果を自分のことのように喜ぶのはある程度理解ができる。
しかし、出身校の部活動となるとどうも違和感がある。その部活動に今まさに所属しているならともかく、卒業した部活のOBだけでなく、在校時はその部活動と何ら関わりがなかった人でさえ、出身校が同じというだけで自分のことのように誇らしげに語る姿を何度か目撃したことがある。
自分自身も同じような心境になることがあるのだが、どうも理屈に合わないと感じることがしばしばである。自分が何かすごいことを成し遂げたわけでもないのに、何を根拠に得意げな気持ちになっているのだろうか。
同族意識というものがあるからだろうか。日本人として初めての快挙などといった称賛の報道はよく見かける。同じ国に生まれ、同じ国で育ったものが活躍するのは同じ国民として誇らしいという感情を刺激する報道の仕方だ。しかし、同じ国の人間でも育ってきた環境は千差万別だ。自分とかけ離れた環境で生きてきた人間であっても、生まれが同じというだけで同族意識を持つことができるのか疑問だが、多くの人は国籍が同じということを重視しているようだ。仮に、海外で生まれ国籍はそのままで日本で活動し、何か大きな成功をした人間に対しても同じような心境になるのだろうか。
どれだけ自分とかけ離れた存在であっても、自分と何か一つ分かりやすい共通点があれば、自分をその存在に近しいものと思い込む能力が人間にはあるのかもしれない。国籍というのもわかりやすい共通点の一つなのである。
一方で、犯罪を犯したり、非常識な行動を取ったりした個人や団体に対しては、当事者以外の外野からも猛烈な非難が浴びせられる。良いところは自分ごとのように誇り、自慢するのに対し、悪いことが起きた場合は他人ごとのように無責任な発言、行動を取ることを厭わない人間が多数いるのは知っての通りである。
実際、他人ごとなのである。だから他人ごとのように非難することが悪いとまでは言わないが、そうであれば、他人の功績も他人ごとであるというスタンスを貫くのが筋ではないか。
都合の良い時だけ親しげな隣人として振る舞い、都合の悪い時はよそよそしい他人のフリをするというのは、何だが人として大切なものを失う態度であると思う。勝ち馬に乗って自分を大きく見せようというさもしい感情が透けて見えてくるのだ。
それに、他人の功績で気を大きくし、自分を大きく見せることに慣れ切ってしまうと、分不相応な行動で取り返しのつかない事態を引き寄せる恐れがある。様々な誘惑が待ち構えている世の中にあっては、身の程を弁えるというのが自分の身を守る一番の方策だと考える。自分は自分、他人は他人という基本を忘れずにいたい。 終わり




