第9話 美しい面相
赤幕市の雑居ビル地下にあるそのBAR【がしゃらば】。和妖、洋妖のアイテムを取り揃え飾った物珍し気な雰囲気のなか、提供される種類豊富な美味しいカクテルと、同時にバーテンダーから聞ける刺激的な怪談話を求めて客はここに足を運ぶという。
今、黒いドアに付いた一本のしゃれた白骨の取手を掴む。茶色の野球帽を目深に被ったその男は、もう四度目の来店だ。
未知であったこの店の扉も、平然とその手に開かれ、緑と紫の暗めのライトに照らされた既視感のある様相が彼の視界へと広がってゆく。
袖のゆったりとした黒い着物をめかし込む白髪のマスター、その名は巻。
いつものカクテルを注文した客の金閣寺は、カクテルが出来上がるまでの間にもカウンターごしにマスターと話をしていた。
金閣寺が積極的に持ちかけた怪談話の内容は────二人の大学生がコンビニでアイスを買った帰りに入ってしまった迷路のように入り組んだ夜の路地で、突然道という道から現れた無人で走る自転車たちに、延々追いかけられ続けるという────誰かの経験した怪奇体験を少しアレンジしたものであった。
「自転車にまつわる怪談か。全身に包帯を巻いた謎のミイラ人間が自転車に乗り呪詛を呟きながら追いかけて来るやら、自転車をこいでいる最中、急に尻が痛くなったと思ったらサドルには醜い人面がありソイツに尻を噛まれていたやら、大なり小なりその手のおかしいものは色々耳にすることはあるが? 君のいう無人の自転車が勝手に動くとすれば……なるほど、それはきっと【狐火】だ」
「きつねび?」
コーヒーを淹れながらマスターは、色々と自転車にまつわる怪談話の例を挙げてゆく。そして何か思いついたように【狐火】そう渋い声で呟いていた。
金閣寺はマスターの言う【きつねび】が分からず、おうむ返しのように聞き返した。
「狐が口から吐くと言われている青白い玉のような火のことだ。狐の魂が宿っているとも言われている」
「狐が吐く……狐火?」
「ふかぼりすると……要するに、そうだな。狐の嫁入りは知っているか」
「狐の嫁入り? それってたしか、晴れているのに突然雨が降ったりすることだっけ?」
それなら分かると金閣寺は答えたが、自分で答えておいて首を傾げていた。同じ狐とつくものの、こっちは天気雨、さっき言っていた狐火との関連性があまり浮かばないからだ。
「あぁー、アハハ。それも人が責任を転嫁した末の狐の嫁入りと言われるものだが。俺が語りたいのは、暗闇に列をなし見える怪火のことだ。それが提灯をさげて夜道をゆく人間の嫁入り行列に似ているから、狐の嫁入り。そう呼ばれる。ちなみにその怪火の一つ一つがさっき言った狐火だ」
「嫁入り行列……」
「まぁ、ピンと来ないのは分かるぞ。そんな光景は現代じゃありゃしないものだ」
「はぁ、あの、俺がピンと来ないのはそっちじゃなくて」
「あぁ、そうだったな。だから君が言うそれは現代版狐火と言ったところだ。狐火には物に乗り移りそれを動かす能力がある。狐は人を化かすのが好きだからな。だからその狐火が自転車のライトにでも乗り移っていたというところだろう」
「なるほど……あの、ちなみに、化かすってどれぐらいの?」
「あぁ? あぁー、どうだろうな? まぁ命までは──取らないだろう。一般的に言われているのは、人間を驚かすか気を取らせている間に別の一匹が、何か物を咥えて持ち去るぐらいの被害だ。それが財布か何か知らないが盗まれたものは諦めることだな。狐は己に無礼を働いたヤツに執着するというからな」
「はぁ……じゃあ、ちょっとその執着とは……ちがうか」
「お? はは、ご期待に添えなかったようで」
金閣寺にはやはり狐の執着と、あの錆びた自転車の執念が同じとは思えない。
つい、そう、顎に手を当て金閣寺が独りごちていたところ。そのぼそりと呟かれた独り言を耳に入れたマスターは、冗談めかすようにお返しした。
「いや、そうじゃなくて……ただ、あ、そうだ。前に言っていた鈴を鳴らしたりとか、そういうのは効果ありそうかなって。その自転車に狐か何かが取り憑いていても、その……強引に鳴らしちまえば?」
取り繕うように金閣寺は話を変えた。追ってきた無人の自転車の鈴を強引に足の爪先で鳴らしたことを思い出す。
「ほぉ、この前にちょろっと話した魔除けの鈴の怪談話を覚えていたのか。たしかにそれは奴らには効果的だ。逆に驚かされると狐火は、『パッ!!』と耳の形の火を立てて消えてしまうと言うからな。だから狐たちは常に人を化かすための修行を怠らないらしい。ははは、なかなか可愛い奴らだろう」
「それってぇ、マジなんすか?」
「さぁな。試してないのか?」
試してないのかと問われれば、無我夢中で試した。だが、あの時の怪奇体験をそのまま赤裸々に明かしすぎるも金閣寺には躊躇われた。
「はは……ところで、いつから詳しくなったんですか。そういうの?」
「あぁ。ちょうど、今の君ぐらいの時かな」
もしかして、自分の年齢を見透かされているのか。目元までかかる白髪から覗いた黒い瞳と目が合い、金閣寺は焦ってしまった。
なんとか驚き歪んだその表情を、取り繕おうと、金閣寺が困った時の苦笑いに変えようとしていると──
「すこし、化かしてみるかい?」
マスターは誘う。注文の品のカフェ・ロワイヤルはもうあと一工程で完成する。
ティースプーンに乗せた何かが染みた一粒の角砂糖に、今、マスターの手先から受け取ったライターで、おそるおそるも火をつけた。
灯されたその火は、青白く。さきほどの怪談話の狐火を連想するようで。
スプーンに乗せた青い火が、グラスの中の冷たいコーヒーの中に沈んでいった時──
マスターは微笑った。
巻と名乗るこの白髪の男はどこか自分には到底ない妖しい魅力を持つ。不気味ではあるが、出鱈目でもある。気さくにも話してくれるのは、嘘と本当どちらか、あるいはどちらも備えている。そのように見えてしまう。
こんなあやしげな店に幾度か足を運んでしまったのは、もっと怪異のこと、その片鱗を、出鱈目でもなんでもいいので彼が知ろうとした結果だろう。
まだ若い身の彼が誘われたのは妖しくも新たな世界か。それとも、一歩二歩と踏み入れれば沈みゆき混ざりゆくもの。あるいは、ゆっくりと掻き立てながら彩られてゆく深い混沌の色、そんな何者かの手に化かされてきたあやふやで偽にまみれた世界か。
渦巻き混ざりゆく白くて甘いそのミルクが何なのか知らない。砂糖を燃やした青い火の演出に、何が仕込まれ染みていたのかも分からない。
グラスの水面に近づけた鼻で、匂いを嗅いでも分かりゃしない──。
金閣寺歩は、カウンターにそっと置かれたそのコーヒーカクテルをぐっと飲み干した。
積み木遊びをする光景はもうそこにはない。一時の熱のある流行を見せたタワーゲーム、ジェシカ、その遊びもまた移ろいやすい人間たちの好奇心を常に満たすことはできず、日が経つにつれ色褪せるように自然と廃れていった。今では教室端のロッカーの上に積まれてある、誰の手に崩されることもないひっそりと完璧に聳え続けるインテリアだ。
「ウソじゃないウソじゃない、だから見たんだってぇー」
一つの噂話というものが声を高め流れ始める。その噂話の内容はというと、この学校に「めちゃくちゃイケメンがいる」らしく、しかしその名前は覚えていないと、彼女、山﨑もよりが昼休みの1-Dの教室で、そんなあやふやな情報をいつものグループに向けて喧伝していた。
そんなにイケメンというのなら名前を知らなくてもすぐに見つかるはずだ、とっくの昔に校内の女子たちの噂にもなっているはずだと、冷静に考えた上で周りの仲間は口々に言う。
しかし、容姿端麗の逸材ならばすでにどこかの芸能事務所にも入っていることだろう、それで彼は忙しくて普段学校になかなか来れないのだと、山﨑もよりは譲らずにそうもっともらしく主張する。
やはりグループの皆がほんのりとそのイケメンの存在について疑いだすが、それでも校内で見たのだと山﨑は大袈裟に言うのだ。
「おいおいイケメンなら既にここにめちゃくちゃ取り揃えているだろうが」
今そんなちゃらけた台詞を誰が吐いたのだろうか。宗、金閣寺、中川。その集いにいる男子といえば、その三人だけだ。
自身ありげに立てた親指で自分の面を指差す坊主頭は、茶髪の男に何故か寄りかかる。
女子たちはそこに雁首揃えた男どものことを、まじまじと品定めするような目で見ながら、求められた感想を述べていく。
「まぁ、目、鼻、口とか、類似するパーツはめちゃくちゃあるじゃん? ふふっ」
湊が皮肉をほんのりまじえて、くすりと自分で笑いながら言う。三人のパーツをつんつんといつもの指先で触りながら、一つ一つの出来栄えを確かめているようだ。
「ここに取り揃えたそれらよりも品質が高いってことじゃない? そのめちゃくちゃイケメンって」
阿部がそっけなくそう言う。それらのパーツの組み合わせではないのかもしれないが、山﨑が噂する容貌の分からぬイケメンなる者のことを、今ある男子三人の面をサンプル代わりに眺めながら分析していく。
「そうそう! それらよりも! なんというかこうオーラからして、こうっ! ……もうちがうのっ!」
山﨑もよりが首を縦に何度も元気に頷く。彼女が見たのは、今目の前に揃えられてあるその水準のイケメンではないというのだ。
「……」
富宮麗華は困惑し黙る。口は災いのもとだと知っているようだ。何を述べるわけでもなく事態をやり過ごすように見守っている。
「だってよ!」
「何が『だってよ!』だ。自爆して巻き込んでんじゃねぇぞ。──って頭かくなッ褒めてねぇ。遠回しが一番恥ずかしいんだよ、ばか」
金閣寺が言い出しっぺの宗にツッコむ。宗は軽口にも余計なことを言ってはまたいつもの自爆と誘爆の結果を繰り返し招いている、学習する気はないようだ。
「品質はなかなかだと思うがな? ははは」
中川透が冗談めかして笑う。余裕げかつ能天気なその友人の笑みに、金閣寺はイエスやノーとも言えず、ツッコむ気も失せた。
〝面の話は災いのもと〟そんなものはどこで聞いた台詞でもないが、そう思った金閣寺はなるべく余計な口を閉じた。
イケメンであれ普通であれなんであれ、誰かの思うありのままの評価を受け止める。例えまじまじと観察するように見られて、しつこい指先に触られても、お好きにどうぞと言わんばかりに、金閣寺歩は普通の面を保ち落ち着いているようだ。
「ぼーっとしてんの? ていっ──あ」
ちょっかいを出していた湊の小指が、あくびをしていた彼のその呼吸を乱した。
寛大な振りをしていた金閣寺が一転してその形相を怒らせると、驚いた湊は彼のブレザー袖で悪戯しすぎたその小指を拭い笑った。
金閣寺歩の身に、いや鼻内に起きた笑わずにはいられない事態に、グループの皆が吹き出すように笑っていると──
「イケメンって、どんな人?」
今通った声は誰の声か。後ろからすらっと伸びた細くて白い手が、山﨑もよりの左肩に乗っている。
忽然と教室に姿を現した藤乃春が振り返る山﨑に、そう、問うていた。
グループの皆の時がいつかのように一瞬止まる。意外な人物の意外な発言とは、それほどに威力を持つ。
どこかミステリアスな存在である彼女がそんなことに興味があったのか。誰も予想だにしなかった反応だ。
まさかその手の話に彼女が食いつくとは、金閣寺は少し驚いた表情で、今やってきた藤乃春の方を見た。
「おいおい藤乃さん! イケメンならここ、ここォ!」
「ん? ────その通りのようね、宗海斗くん、ふふ」
「だ、だっえよ~!?」
「おいリップサービスって知ってるか、──頭かくな」
目に付いた女子の片っ端からその冗談を言うつもりなのか。自信気に仕掛けてはやられてを繰り返す宗に、金閣寺はまた呆れたように言っていた。
七人はまたいつもの和気あいあいとした雰囲気に戻ってゆく。山﨑は目にしたというそのイケメンのことを、グループに途中参加した藤乃にもまた一から大袈裟に教えるように喧伝している。
そんな騒々しい雰囲気の中、彼らのグループの一人である女子生徒、富宮麗華は独り息を潜めたように大人しくしている。
口数が少ないのはいつものことながら。彼女は何故かチラチラと盗み見るように、今怠そうに机上に肘ついた彼、金閣寺歩の左の袖口辺りに、視線を注いでいた。
外れそうに、ぷらぷらと宙を揺れている。ほつれた赤い糸に吊られたそのブレザーのボタンをじっと────
やはり彼女が気になるのは、その宙吊りの煌めき。彼が歩く度にあまりにも無防備に揺れるその金色の欠片が、窓から差す陽の光に鈍く反応している。
「き、金閣寺さん」
「あ? なんだ……って富宮か。おう、どうした?」
5時間目の終わり、移動教室で向かっていた校舎東館四階の廊下で、富宮麗華は金閣寺歩の背に、声をかけた。
「ブレザーのそで……」
「ブレザーの、それ? なんか付いてるか? あっ! もしかしてアイツら俺の背中にまたなんか意味のねぇもん貼り付けて──」
「じゃなくて、ぶっ、ブレザーのそでっ……!」
「ブレザーの、そでっ!? な、なんだ……」
「ひだりっ……!」
「ひだ? あっ──」
富宮が指を差して示した左腕の袖を、左腕を折りたたみ上げながら、金閣寺は己の目で窮屈そうにも確認する。
その臙脂色の衣にだらりとお辞儀するように垂れた金色の綻びを、一つ、彼は見つけてしまった。
▼
▽
金閣寺は鍵当番を任され戸締りしていたそのコンピュータ室のドアをまた開け、富宮と共に中へと入っていった。
椅子に腰掛けた富宮がポケットから取り出した小さいポーチのような形の容れ物には、裁縫キットがみっちりと詰まっていた。富宮はそれらを慣れた手つきで扱い、彼から拝借した赤いブレザーの袖へと糸のついた針をするすると通していく。
白いカッターシャツ姿で待つ金閣寺は、そんな集中する富宮の手つきを観察するように眺めながら、時々静かに頷いては、感心していた。
「あれ? 金閣寺さんこのブレザー……いつものと、ちがう……?」
彼女、富宮麗華は何故か「金閣寺さん」と彼のことを呼ぶ。彼自信も好きなように呼んでもいいと彼女に言ったので、少し距離感を感じるもののそんな細かいことは特に気にならない。
「金閣寺くーん!」や「カクジ」「きんきん」はたまた「金閣寺」、彼には色々な呼ばれ方がある。「金閣寺さん」もまた沢山あるその内の一つであった。
そしてその金閣寺の着ていたブレザーがいつもと違う気がするという富宮の勘と指摘は当たっていた。というのも彼はこの前陥るように味わった怪奇体験で、必死にこいでいた黒い自転車の前籠の中にブレザーを一着詰めたまま忘れていたからだ。
前籠に詰めたブレザーは未だ行方知らずで取り戻せない。それにあんな命危うい体験をしていて、ただの一着のブレザーを取り戻そうなどとも彼は思うに至らなかった。
そんな忘れ物のブレザーのことを思い出した金閣寺は、ふと、がしゃらばのマスターが詳らかに語っていた狐火の話を思い出す。もしかするとあの黒い自転車が助けてくれた駄賃代わりに前籠に詰めた品を持っていってくれたのかもしれないと、彼はそう心のどこかで思った。
今、富宮が面倒をみてくれているこの二着目のブレザーは、古い。
彼自身、仕方なく新たなブレザーの発注をかけようと思ったものの、一年D組の担任の先生の助言や紆余曲折あって学校からの好意でお借りしているものだからだ。ボタンが少しほつれて取れかけていたのも、きっとそれが理由だろう。
「あぁ、それは学校から借りたヤツだからな」
「ふぇ!? わすれちゃったとか?」
「あぁー、まぁ。忘れたというか、うーん……そのうち見つかるかもしれねぇ。なんかそんな気もする」
「──? そうなんだ……あ! はい。金閣寺さん」
「え、もうできたのか」
「う、うん。ちゃんとやったつもり……」
金閣寺は、いま糸を切った小さな鋏をしまった富宮から、修繕の施された一着のブレザーを受け取った。
問題のほつれていた左の袖口の飾りボタンは、目立たない赤い糸で縫われていた。真鍮製のその金ボタンにあしらわれている模様の向きまでも他のボタンと同じく正しいように付けられている。
少々、他と比べてそのボタンはしっかりしすぎているようにも見えたが、それもまた彼女の手先が器用すぎた故だろうと、金閣寺は手早く修繕されたブレザーの出来栄えに何度も頷きながら感心した。
「おぉ、すげぇな富宮。サンキュー!」
「べつに、そんな……」
金閣寺は礼を言い、富宮は謙遜する。
だが金閣寺は知っている。彼女がこの手の作業を得意なことを。
「あ、たしかさ。羊毛……フェルトだっけ、やってるって言ってたよな。前にスマホの写真で色々俺に見せてくれたやつ」
「う、うん。やってる……。羊毛フェルト、あってる」
以前、彼女に金閣寺は羊毛フェルトの作品を撮り収めたものを見せてもらったことがある。富宮の趣味の一つであるという
犬や猫、動物などを模った立体作品をふわふわとした質感で自由な発想とともに作ることのできる羊毛フェルト。彼女が先ほどのような裁縫作業が得意なことにも通じる共通要素が、そこに多いにあるのだ。
「だよな。羊毛フェルト、羊毛フェルト……あ、それってさぁ、俺なんかにもできそうかな?」
「う、うん。金閣寺さんなら、できるよ」
「俺なら? まじ! まじか? うーんでも、細かいのでいうと中川はもちろん宗とか阿部とかも得意っぽいよな。山﨑は……アイツはたぶん違うな。湊はギリギリできそうではあるけど、アイツ突然ふざけるから、やっぱ針とか持たせると一番あぶねぇな。──主に俺が! てか既に刺されたし、なんてな? ははは」
金閣寺は己の鼻を指差しながら冗談を放ち笑っている。
「う、うん。あはは……!」
富宮も彼の今した仕草に釣られたように笑った。あの昼休みのアクシデントを思い出さずにはいられない。
一通り咲かせた笑い声も落ち着くと、おもむろに手持ちの臙脂色を纏う。彼はその深い色を自身のシルエットに馴染ませるように体を動かしながら、もう一度縫われた部分を黒い目で確認した。
左袖の金色をその長い指でかるく弾く。まるで完全であることをアピールするように、彼は普通に微笑んでみせた。
「じゃ、出るかっ」
「う、うんっ」
金閣寺と富宮は訪れたパソコン室を再び戸締りし、後にした。
再び四階の廊下を渡りゆく。左隣をついていくように歩く彼女は、彼の赤い袖に留まる金の煌めきを目にする。
そして、その裏の目立たず見えない──縫い付けられた赤い糸の出来栄えに、彼女はひっそりと微笑んだ。
静寂に包まれた校舎を一人の人物が歩いている。夕暮れに染まる窓際を通り過ぎるその姿は息をのむほどに美しかった。その見目麗しい存在が変哲のない廊下を通りゆくだけで、不思議と周りの空気まで澄んでいくように感じられた。
その人は、この学校指定の臙脂色のブレザーとは異なる、珍しい紺色の詰襟を身に纏っている。
三つ編みに眼鏡をかけた図書室帰りのとある女子生徒は、緊張の面持ちで三冊の本を胸元に抱えながら歩いてゆく。
ゆっくりと、ゆっくりと、向こうから歩いてくる美しいものが、彼女の視界に大きく、そして鮮明になっていく。
その人と廊下を歩きすれ違ったとき、『カツん────』と、背方に何かが落ちる音が一瞬した。
ほんのわずかな音だったためか、その人は物が落ちたことに気付かないようで、そのまま歩き続ける。
音に反応し振り返った女子生徒は、床に落ちた小さな落とし物を見つけてしまった。
「あのー、今、何か落とされましたよ」
しかし、その人は何も言わない。ゆっくりと首を横に振った。
女子生徒が教えても拾う素振りは見せずに、振り返ったその人は再び、夜空のように高くて美しい紺色の背姿を見せて去ってゆく。
「すごい、綺麗……」
ほんの短い時間であったが、その顔を間近で見た女子生徒の心臓は激しく高鳴っていた。
わずかなやり取りで対面し窺えたその面差しは、とてもこの世に住む者とは思えないほどの、圧倒的な美しさであった。まるで今抱えている三冊の本の中の登場人物である、夜空の国の王子様のように現実味のない幻想的な美しさと、気品に満ちた佇まいをしていた。
小説の文章でしか見たことのないその尊い存在が、彼女の思い描き焦がれる想像の中から顕現したようで、なおも胸の鼓動がおさまらない。
廊下に落ちたありふれた金色の飾りさえ、彼の残した煌めく星の欠片に見えた。
女子生徒は握っていたその右手を開き、今、拾い上げたばかりの金のボタンを見つめる。
人目がないのをいいことに彼女は思わずそれを拾い上げてしまった。だが、もっと彼に触れてみたい、そう思ってしまったからか。
少し古びたその落とし物のボタンを反対の指でつまもうとした。
しかし、つまんだボタンは離れない。力を入れて引っ張ってみても、まるでぴったりとくっついているように手の上を離れない。
不思議に思った彼女は、震える指でボタンの裏を覗き込もうと、手のひらとボタンの間に凝らした目を滑り込ませた。
なんと、そのボタンは彼女の皮膚に縫いつけられているように、彼女の手の感覚に深く、絡まり、留まっていた。
訳が分からず、混乱する。
彼女は驚きの形相で固まり、焦燥に駆られた。
そして何故かまるで時がトまったように、身体が硬直し動かない。だが、ボタンを乗せたその手から流れる汗は止まらない。
現実か、唐突か、震えながら硬直するその身は、どうしようもない恐怖を味わう。
恐怖と共に冷や汗と震えを増した彼女は、途端に頭がくらくらとして、視界がぼやけ目眩する。目が離せずにいたその手の上のボタンに、意識がスベテ吸い込まれていくような感覚に襲われた。
『カツん────』
やがて、小さな音が、もぬけの廊下に響いた────。
コツ、コツと足音が近づいてくる。
現れたのは、その音の主。彼は静かに長い手を伸ばし、金色のそれを拾い上げた。ボタンについた赤い汚れをそっと冷たい指先に拭いながら、その口元には静かな笑みが浮かんでいる。
今、宙に舞っていた一枚の紙を手に取った。その薄い台本を片手に読みながら、静まり返る廊下を渡りゆく彼の背姿は、まるで夕焼けの熱にその背を焼かれてゆくように、赤く深く染まっていった。
手にしていたその薄っぺらの台本は、彼の心を満たせない。
窓外へ吹く風へと、白く散りゆくように流されていった────。