第7話 えんえんさいくりんぐ
道島えりを後部座席に乗せ、金閣寺歩は黒い自転車を無我夢中でこいだ。
道島えりを襲った得体の知れない錆びた自転車。別の種の恐怖をまた目の当たりにした彼が、安堵することはない。経験し慣れることもない。今もなお浸り続ける恐怖の中で、彼は道端に置かれていた黒い自転車を疑う事なく借り、ただ前へ前へとその細い車輪を走らせつづけた。
ふと、おそるおそるも振り返ると、あちらは随分とスローペース、遠くの方に豆粒ほどの大きさの錆色が見える。
これでは追いつかれない。どこかが破損したのだろうか、錆びた自転車に道島を襲ったときのような狂気じみた勢いはない。
これだけ離せば、おそらく大丈夫だろう。だが油断はしない。あの屋上から降って来たコインの化物のように、いつどんな方法で忽然とその姿を現してもおかしくはないのだ。
それからしばらく、二人を乗せた黒い自転車はパンクやトラブルに特に見舞われることはなく。乗り手のこぐスピードは常に全力とはいかないがペースをできるだけ落とさずに、後方の錆色をさらに引き離しながらこの一本道の道路をずっとゆく。
しかしいくらこいでもこの道の先にあるはずの最初の信号にすら辿り着かないことに、金閣寺は奇妙に感じた。自転車通学の時はいつも通るこの道を、もしもこのハイペースで進んでいたならば────彼が体感的にそれをおかしいと思うのは当然のことであった。
「はぁっ、はぁっ……どうなってやがる」
金閣寺は、一時、自転車を止めた。あたかも立ち止まるぐらいの冷静さを持ち合わせているようにふるまった。
金閣寺が見上げると、相変わらず晴れているのか曇っているのか分からない暗色の赤に天は支配されている。
灰白のモヤはこの道全体を霞ませるように覆っている。
いっそ脇道に入ってみようとも考えたが、彼の左の人差し指が僅かに痛み疼く。例えそれが偶然に伴った小さな痛みであっても、彼にとっては、その脇道に逸れればもっと恐ろしい結末が待ち構えているように思えてならなかった。
念のために、脇道へと左の指をゆっくりと差してみた。絆創膏の裏側はやはり僅かに騒いでいるようでならない。
できるだけ不穏な色の薄い方を進むしかない。確証などはないが、これが通い慣れたいつもの道の切れ端ならば、真っ直ぐに行けばいずれ目的の場所へと辿り着くだろう。
金閣寺はまた停めていた自転車を走らせた。しかし、彼が息が切れるほどにこいでも辿り着かない。そんな訳などありはしないが、この黒いアスファルトの道があたかも永遠につづいているようにも思えた。
奇妙さを超えて不穏。不穏を超えて、不安を感じざるを得ない。もう5分、いや10分。彼が自転車をいくら必死にこいでもこの道は彼の行く方を阻もうとはしない。だが着実に彼の心の隙間に不安の種の数を増やしていく。
そこで「何か目印はないのか」と、熱くなってきた邪魔なブレザーを自転車の前籠に詰めた金閣寺歩は辺りを見回した。ただがむしゃらに進むだけではこの道は解決しなかった。ならば目印があれば、今度はそれを頼りに進んでみようと、彼は額の汗をシャツの袖で拭いながら考えた。
そして、ふと右の歩道の方を探り見つけたのは一本の電柱。その電柱の下には、どこか見覚えのある痛々しい事故の傷跡────
怪訝なその表情を深めた金閣寺と、その傷跡を再度見てしまい表情を強張らせた道島は、まさかと思いながらも同時に後ろを振り返った。
『ぎこぎこぎこ……』
豆粒ほどの大きさであった後方の錆色が今は何倍も大きく視える。確実にスピードを上げ追ってきている。ペースが上がってきている。あの軋む車輪の音の間隔が詰まってきた。
しかも事態はそれどころではなく、〝増えている〟。錆びついたモノや、新しいモノまで、無人の自転車たちが道路の横幅を覆い尽くす程に群れていた。
道島えりはその光景を知っているが息を詰まらせ恐怖する。金閣寺歩はその光景を知らない、そんな冗談を決してその見開いた目に受け入れてはいられない。
「ひっ、はっ、っ……ま、また……!?」
「冗談……だろ!?」
見覚えのある電信柱、果たしてこの奇妙な一本道はループしているのか、分からない。あのノロノロ進んでいたはずの錆びた自転車が、無機質な仲間をぞろぞろと呼び寄せるなど到底その原理を理解できない。
何の執念か怨念か、おびただしい程の数、その無人自転車たちの群れては成す〝恐怖の波〟が、『ぎこぎこぎこぎこ……』と歪んだ音を重ねさざめいている。
アスファルトを支配し進み始めたその波はとどまらない。二人の乗る一台の黒い自転車の元へと呑み込まんばかりの勢いで、スピードを上げ押し寄せてきた────。
二人を乗せた黒い自転車は必死で逃げる。後方から一斉に押し寄せてきたあの自転車の波の速さには僅かに勝るものの、波の中から突き抜けてきた何台かの活気ある自転車は前をゆく黒い自転車よりも速い。
乗り手の金閣寺はそれでもペダルを必死でこぐ。しかし、二人乗りのスピードでは無人で走行する身軽な自転車にはいずれ追いつかれてしまう。
そして、ついに不意に現れてはアスファルト上を並走し襲ってきた一台の無人の自転車。
じりじりと幅を寄せてきたその銀の自転車の無遠慮な前籠を、横目に驚き睨んだ金閣寺はどうしようもなく蹴飛ばした。
「ガシャリ」、悲惨な音が横から後ろにアスファルト上を倒れ流れていく。
乗っている人がいないならば、そのお構いなく寄せてきた前籠を蹴られても仕方がないものだ。相手に蹴る足はなくて助かったと、緊張の息を吐きながら金閣寺は呟く。つい無我夢中にも足を出してしまったが、結果その反射的な判断が功を奏したのだ。
「ま、まだ後ろ……!?」
しかし、まだ後ろ近くに何台かの身軽な自転車たちが付いてきている。道島えりが彼の代わりに振り返り、目視しながら震える声でそう言う。
そしてまたも横からぬるりと一台、いや二台、速度を上げて現れた。
並走する無人の自転車はまるで左右から押し潰すように二人の乗る黒い自転車に対し、幅を寄せてきた。
明らかな悪意を孕んだその二輪の危うい行為に対し、金閣寺は自分の乗る黒い自転車の鈴を鳴らした。だがそんなものは意味がない。彼は何を思ってそんなことをしたのか。挟まれた窮地にただただ動転していたのか、それでどうにかするつもりだったのか。
並走し挟まれた金閣寺は、あえて減速を試みたりしたものの、スピードに勝る無人のその二輪がついて来れないわけはない。前籠を蹴り上げ追う一台を退けた先程と打って変わり、彼のやる事為す事試みる事が今度はすべて裏目の愚策と化した。
「チッ──くっそ!!」
そしてついに、大きく右に幅寄せしぶつかろうとしてきた左方のベージュの自転車。
危険運転で迫る捨て身の接近に対して、金閣寺は片手を離してその寄ってきたベージュの自転車のハンドルを掴んだ。だがしかし、それは無人とは思えない生命力を感じる程の粘りと執念と重みを見せて、金閣寺の掴んだ手ごと右方へと重く押し込んできた。
訳がわからない力で押し込んでくる、当てが外れた、このままではぶつかる。焦燥の最中である金閣寺は一か八か────
『じリンッ』
ハンドルを掴んでいた手は、やがて銀色の鈴を掴みそれを鳴らしていた。
すると急に鈴を鳴らされたベージュの自転車は失速し、フラフラと前輪と後輪を蛇行させながら、やがて──もっと悲惨な音色をアスファルトの上でかき鳴らした。
「──!? ハァハァっ……な、なんで鳴らさねぇのか、おかしいと思った! ハッ……! ──って、来るな!!!」
その鈴は魔除けの役割か、だとするとありがたい欠陥だ。
手元まで迫る危機にがむしゃらに繰り出した金閣寺のその試みが、なんと一つ成功してしまった。
いや、二つ──
金閣寺は息吐く暇なく右からずけずけとやって来た紫の自転車に、右の蹴りをお見舞いした。思ったよりも柔軟に伸び上がったその悪戯なつま先は、左ハンドルの鈴にヒットし、また『じリンっ』と滑稽な音色を上げた。
やはりその怪異は自転車特有の欠陥を抱えている、そうに違いない。一度の成功体験にとどまらず、金閣寺は即座に続けて二台目も魔除け代わりの鈴を蹴り鳴らした。よっぽどその蹴りが効いたのか、紫の自転車はチェーンを腸のように地に引きずりながらやがてバラバラに自壊していった。
しかしそんな喜びも束の間、今度横に並び現れたのは、鈴が装着していないスポーティなタイプだ。
そうとは知らず金閣寺が今蹴り上げた癖の悪い足は空を切ってしまった。前籠すら備わっていない骨組みのようなスポーツバイクが出てくるなど聞いていない。
蹴りどころのない俊敏なスポーツバイクと普通の黒い自転車、それも二人乗りをしている状況では、その執拗な追跡を引き離せるわけはない。
何度もぶつかろうとしてきたスポーツバイクに、金閣寺はさせまいと必死に抵抗するものの左足の膝を強く打ってしまった。
「痛ッ──!?」
打ち付けた左膝から痺れ広がる鈍い痛みを堪えながら、金閣寺はそれでも足掻いた。また距離を取っては勢いをつけてぶつかろうとしてきたスポーツバイクのハンドルを、左手で掴んだ。
さらに左足の底を、中央のフレームを踏みつけるように押し込んだ。これ以上の無茶な体勢は取れない。しかし普通の自転車に跨り必死に抵抗する金閣寺のことを嘲笑うかのように、スポーツバイクはその妖しげな馬力を上げ、右へ右へと黒い自転車ごと押し込み返し歩道側へと追い詰めてゆく。
このままでは、もう──。必死に足掻く男の顔は、流す玉のような汗を疾走する風に散らしていく。
その時、『すぽっ』何かが抜ける間抜けな音が左方から響いた。
何が起きたのか。彼の後方から目一杯伸ばされた細い手が、スポーツバイクのサドルを抜き取っていた。
すると追い詰めていたはずのそのスポーツバイクは、突如、制御不能に陥り走行するバランスを欠いて、失速しながら右にずっと流れていった。そのまま二人の背方で、歩道に乗り上げそれが倒れていく音が響いた。
「はぁっ……はぁっ……べ、ベルをツケねぇからだ!! ケツなし野郎!!!」
緊迫の場面を思わぬ手で乗り切った金閣寺は、道端に吐き捨てるようにそう叫んだ。
そして高揚したそのままの流れで、ハイタッチをしようなどという考えが今一瞬、黒い自転車に乗り合わせたお互いによぎったものの。
後ろの道島えりの顔を鋭い目付きで金閣寺歩は振り返り睨む。
やがて、今、彼女が投げ捨てようとしていたその一つのサドルを、じっとりと汗ばんだ己の手に寄越すような仕草をした。
道島えりは手にしたサドルの柄の方を、迫り来た新手の自転車、その後輪の隙間へと勢いよく差し込んだ。
また一台、二台、無遠慮なアタックを仕掛けてきた無人の自転車たちが、無遠慮な人間たちの手や足により失速し、流れるアスファルトに砕けていった。
後部座席の道島えりの手も借りて、金閣寺がこぐ黒い自転車は追手を一時やり過ごすことに成功した。
しかし、振り返れば自転車の波。以前よりも近くであの軋む音の合唱が、二人の背にぶつかり、耳の奥を嫌な音色でざらつかせる。
一台や二台、走行不能にしたところで焼け石に水とでも言いたいのか。まさに軍勢ともいえるその無機質な群れが、共通の意思や律を持ったかのように執拗にその一台の黒い自転車のことを後ろから追い立てつづけている。
後ろから来るプレッシャーはまるで異様。ただの無機質な自転車たちが放つものではない。
片時も予断を許さない状況に、金閣寺は冷や汗を拭う暇も惜しみ、自転車を前へ前へと愚直にも逃れようとこぎつづけた。
しかし──
「なにっ……アレ……!?」
「はぁはぁ……んだ? ──なっ!?」
また状況を確認すべく、己の恐怖を押し殺し、後ろを振り返った道島えりは、以前と様変わりしつつあるその異様に蠢く光景に恐怖する。
道島の震える声に釣られて振り返ってしまった金閣寺もまた、アスファルト上に律を持って成されていくその馬鹿げた執念の表れに、驚きの色を隠せなかった。
波の最前列に躍り出た一等速い三台の無人自転車が、縦一列の形になってそのスピードをぐんぐんと上げた。
さらに後続もその三台の流れにつづき、細長い行列をぶつかることなく走行しながら形成していく。
横に大挙し広がっていた有象無象の波が今、黒い自転車の尻を完全に狙うように、風を裂く効率の良い縦長の陣形を取る。
先頭をゆく車体を交代しながら走るその無機質の集団は、目論見通りに全車体の平均速度を速めた。
もはや向かうベクトルは一つ、明確な殺意を募らせ体現した死のベクトルが、黒い自転車の尻へとじわじわと迫って来ている。
このままでは追いつかれる。今度は一台や二台の規模ではない。数十台以上を侍らせた無人自転車たちの執念が、槍のように鋭く成り。前方に見える一台のはぐれた黒い自転車を、いや、黒く汚れた彼女の臙脂色のブレザー背、多量の汗に透けた彼の薄い白シャツ、その奥に鼓動する心臓までを、一気に貫かんばかりの勢いだ。
鼓動する金閣寺歩の心臓はもう、針で突けば割れてしまう程の極限の緊迫を孕み、なおも忙しく鼓動する。
「もう駄目かもしれない」────差し迫る恐怖のベクトル、追い上げて来る狂気の車輪どもの音に、彼の心は暗く濡れ溺れ、彼の心臓は痛いぐらいに速まり震え胸を打つ。
ペダルを踏む彼の足は既に当然、ハンドルを握る腕さえももうほとんど力が入らない。
何もかもが一気に重くなる。心まで、足まで、体まで。
しかし、彼に一つだけ、まだ試みる術があるとするならば────
それはある種、彼が試算してしまうされど悪魔の誘惑のようで、
それはある種、彼の指先に癒着した恐怖の対象でもある。
金閣寺は左指にきつく巻かれてあった絆創膏に酷く乾いた唇を押し当てる。そしてねちゃつく嫌な味を思い切って歯で噛みながら、その絆創膏を半分剥がした。それが彼にとっての最後の手段であり、それと同時に織り交ぜたのは最後の冷静さ、人間らしさだ。
寸前先に伴うものが同じ激痛ならば、黙って死の方を選ぶ馬鹿はきっといない。〝彼女〟に屋上で言われたように覗きたくて覗くわけじゃない。ただ、恐ろしくも彼はそれに頼り、やるしかなかった。
ズキズキと痛む指から、今ゆっくりと封を解き、疼き渦巻く風の暴を解放する。
剥がした瞬間に左指から漏れ出た風の息吹に勢い余った金閣寺は、ハンドルのブレーキを右手で強く握り締めた。
無茶なブレーキに後輪を滑らせ左にターンし、ずっと勢いのまま横滑りしていく黒い自転車は、左のサイドスタンドを勝手に下ろし青い火花をアスファルトに擦り描く。
奇しくもその横滑りの体勢は今、目標を指差す。左の人差し指が示す明確なベクトルを、後ろから迫る恐怖のベクトルにぶつける。
恐怖怪異におそれながらも指を差す。それだけで指内から渦巻く風は活気を帯びる、マジナイになる。
後ろから押し寄せる縦一列の集団は、唐突に吹く風に押された。先頭をゆく自転車は彼の指先に辿り着かない。狂気のスピードを打ち消すほどの暴風が、一直線に吹き及ぶ。
衝突寸前であった前籠の頭はひしゃげ上空に弾け飛び、先頭をゆく無人自転車が、車輪を逆回転させ後ろへと流された。
錆色と無機質の縦長の列が倒れてゆく。悲惨な音を連ね重なるドミノ倒しのように、次々と無人自転車は後続にクラッシュしながら横転していく。
「ッ──!?」
金閣寺は剥がれかけで暴れはためく絆創膏を、なんとかその指に巻きつけ直した。
すると、今もなお横滑りしていた自転車は奇妙な風のエンジンを失い減速していく。やがて、自転車のサイドスタンドがそれ以上擦り減ることはなく、役割を果たしたようにぽっきりと折れた。
完全に止まった黒い自転車に乗り合わせた二人は黙す。隣り合ったまま呆然と後ろの有様を眺めた。
道島えりにとっては信じられない光景。何が起こったか分からない、小刻みに揺れる彼の指先をおもむろに見つめ、まだ落ち着かない彼の息遣いを心配そうに聞いていた。
金閣寺歩にとっては恐るべき結果だった。それを半分剥がしただけで、得られた結果はおおよそ人間が引き起こせるものではない。
まだ彼の手には、悪戯にくすぐり渦巻くような気持ち悪い感覚が残る────。
ただただ、あの時味わった土にへばりつくほどの大きな痛みを彼は恐れた。
金閣寺歩はもう一度しっかりと、開けてしまったその封を自分の左指が赤く変色するほどに、押さえつけた。
不安気に見つめていた彼の左の指先を今、静寂に通り吹いた一つの風が撫でた。
「あっちだ──」
金閣寺はおもむろに指を差した。それは今まで進んでいた方向と真逆の道。
なぜその方角を指差したのか。彼にもはっきりとは分からないが、彼の指先が感じた風の報せる方はきっとあっちなのだ。
このまま真っ直ぐ進むより逆走する。そうすればこの延々とつづく不可解な道のマジナイが解けるかもしれない。そして、それを試すチャンスは今だろう。彼は冷静に立ち返り、そう考えた。
道島えりは静かに頷いた。彼の考えてやるままに任せる、それが一番なのだと彼女は恐怖の最中にも彼を頼り理解していた。
やがて、横にして停まっていた黒い自転車はそのまま後方へと逆走を始める。
軋む音が不気味に鳴る荒れた道をゆく。横転した無人の自転車たちは気を失ったようにまだ立ち上がらない。
倒れた車輪やペダルが上げるその不気味な音に、道島えりは思わず顔を顰める。
しかし、そこに敷かれているのは刺々しい茨の道ではない。ただ多数の自転車が風の機嫌で転んだだけだ。自転車置き場などでよくある風景だ。そんなことを自分の心に言い聞かせながら、黒い自転車を操る金閣寺はとにかく急ぎ、倒れた無人自転車たちの横を恐怖を押し殺し駆け抜けた。
寝そべっていた不吉に囁く景色をやっと追い越して、何もないアスファルト道を前へ前へと二人を乗せた自転車は急ぎゆく。
しばらく真っ直ぐに変哲のない道を突き進むと、辿り着けずにいた灰白の霧に近付き、その霞む景色の中へと突入することができた。
この先はきっと──金閣寺は、また指を立てて流れる風に当ててみる。気のせいかもしれない、気休めかもしれないが、ここが正解の道なのだとこの指に纏わる風が教えてくれているような気がする。
さっきのあの様子だと無人の自転車たちに追われる心配はないが、これはウイニングランでもない。だが、きっとこの先に違いない。そうであってほしい。とても簡単なことだったのだ。脇道でも坂道でもない逆の道が正解の道、この灰白の景色が自分たちが今まやかしを脱している最中であると証明しているのだ。
金閣寺はペダルにしっかりと両足をかけた。そう思考をポジティブに循環させていると不思議と彼の疲労した体にも元気が湧いてきた。
この霧を抜けると、彼が強く信じ思い描いたようないつもの空いつもの景色がきっと見えてくるはずだ。
得体の知れない希望が確かな希望に変容していく。前へ前へと夢中に霧中を突き進む彼の表情が僅かに弛んだ。そんな時──彼の視界を覆っていた灰白の霧が赤黒く濁った。
そしてさらに後ろから何かが、聞こえた。その音は速い。
二人は振り返る。黒い自転車が霧をのけ通ってきた曖昧な轍を、錆色の風がなぞるように走っていた。
猛烈にスピードを上げ襲ってきたのは、二人に見覚えしかない錆びた自転車。
「ひっ!?」
「なっ!?」
追ってくる追ってくる。殺意を孕んだその錆び風が、ガタガタと前輪を地に揺らし、やがて前輪をウィリーさせるほどのスピードで。
後ろを覗いていた金閣寺は心臓を針で不意に突かれたように酷く驚き、必死に自転車をこぎだした。
焦燥に駆られた金閣寺は前を向いて自転車をこぎつづける。されど、後ろから風を唸らせ、回転させる車輪の勢いが、彼の恐怖心とさらなる焦燥を掻き立てる。
あまりにも狂気じみた追走、あまりにも執念深い殺意。何がその錆びた自転車を駆り立てるというのか。金閣寺が感じていた希望の風など、後ろから今猛烈に吹き荒れる錆びた突風に吹き飛んでいく。
『ギギギギギぎぎぎ』
火花を上げながら走る剥き出しの車輪が鳴いている。悪魔のように嗤っている。死神の鎌のように構えた前輪が、黒い獲物を追っている。
そして、狂気に満ちたスピードに乗った錆びた自転車は、前輪を大きく上げながら、ついに飛びかかった──。
二人の頭上を覆う影は暗く、散りゆく霧は血のように赤く、躊躇なく舞い降りる錆色の死の鎌は────鈍い大きな衝撃音を奏でた。
△△
▲▲
『カラ……カラ……』
ゆっくりと音を立てるその車輪は、錆びている。されど車体はそこになく、何かから外れた物だけが一輪そこに落ちていた。余韻のように寂しげに回る横倒れの車輪は、ユラユラと揺れ、その勢いを少しずつ失っていく────。
落ちていた謎の車輪の近くには、逆さに【徐行】と書かれた看板が、稲穂のように頭を垂れている。補修が必要な状態だ。
シンバルのように鳴った激しい衝突音と共に、投げ出された二人の体は乗っていたはずの黒い自転車に乗っていない。硬くて熱い夏のアスファルトの上に、生肌の頬をのせていた。
とても穏やかな静寂の中、二人を忙しく追うものはもういない。
駆け抜けていた霧は晴れ、かすむものは何もない。光を浴びた目を擦り、今二人の視界に映るその全てが鮮明だ。
ありふれた車のクラクションが後ろから、ぼんやりと耳に響いた。窓を開けて身を乗り出しながら何かを喋っている。
起き上がった二人の男女は唖然呆然と、立ち尽くす。そして、やがて、一番光が強く感じられる方向に目を向けた。
赤空ではない、本日は夏の午後の曇り空。
溢れる思いは込み上がる。上を向いているはずなのに、それでも溢れてしまって止まらない。
曇りでも雨でもない、勝利でも敗北でもない、
その見上げる空の青さに、ただただ、道島えりは涙した────。