第6話 死の自転車
アスファルトを我が物顔で支配し押し寄せる錆色の行進。浜風は追い風となり幾多の車輪を加速させる、不吉な風。
そんな操るように吹く風に乗り無人で動き出したのは古びた自転車たち。突如後方に群れて現れたそれらに、道島と加藤は恐怖した。
『ぎこぎこぎこ……』
赤空の下に響く不協和音は止まらない。歪な車輪群が間抜けな音を立てながら前へと進みつづける。
振り返り恐怖に固まっていた道島と加藤は自分たちの乗る自転車をとばした。ペダルを必死に踏み、ただただ逃げ続ける。
しかし彼女らがスピードを上げるほどに、不協和音は騒ぎ重なり速くなる。
必死に自転車をこぎ逃げる彼女らの背がぞわりと風に撫でられる。後ろから響くその不快に軋む音の数々が、押し寄せる波のように常に彼女らの耳をざらつかせ、恐怖・焦燥させる。
震える足でペダルに体重を乗せる度に滝のように流れる汗が、背を湿らせる。追ってくる不吉な風が二人の背にぶつかり、冷たく、冷たく、鼓動する心臓の根までも冷やす。
なおも背にさざめく幾多の車輪の迫る恐怖が、人間たち二人に正気でいることを許さない。
一向にこの一本道の先にある最初の信号にたどり着かない。左側には変わり映えのないグレーの塀と地には平坦なアスファルトが延々とつづく。
二人が自転車をいくら必死にこいでも、霧がかったようなぼやけた彼方が見えつづける。
それでも必死にこぐしかない。後ろから押し寄せつづける錆びついた不協和音を置き去りにするまで、二人は必死にペダルを踏み、アスファルトを駆け抜けた。
耳に纏わりつく錆びついた音色に、急かされた心臓の鼓動が速まる。こぐ足がだんだんと重くなる。それでも、振り返れないほどの恐怖に支配された女子高生たちはこぐことをやめられない。
そしてようやく、前方にいつまでも見えていたぼやけた景色、霧の中へと二人の自転車は突入した。
灰白く濁り煙る視界不良の景色の中、ペダルに乗せた足、サドルに乗せた体、汗ばむ手が滑らないように握り続けたハンドルだけを頼りに、二人を乗せた自転車は前へと流れ進む。
やがて、死に物狂いで稼働させた、張り裂けそうなほどの心臓の音が鮮明になる。
気付けばかすむ灰白の霧が風に流れて薄まっていく。耳に聞かされていたあの不協和音も、もうない。
肌色の太腿から汗が流れ垂れる。足が棒になるほどにこいだ疲れた足を休めていく。
そしていま左に『カラカラカラ』と響く車輪の音、同じようにスピードを緩めた音、それは確かに友人の自転車の音。同じように視界不良だった濃霧の中を抜けて来たに違いない。
道島えりは乱れていた息を整えながら、強張っていた表情を緩ませ、左隣を振り返り見た。
白いシャツは肉感のないぺらぺら、
足首のないローファーは、ペダルの上でバランスを保てず、黒い道路に落ち、
紺色のプリーツスカートは自転車のサドルに巻き付くように引っかかる。
僅かばかりに形作っていた人形のシルエットは不安定な煙のようで、留まることができず、風に失せた。
友達の乗っていた自転車は失速していき、やがて、フラフラと揺れながら変哲のないアスファルトの上に倒れた。
風に吹き飛ばされた濡れた白い布切れ、赤いネクタイ。
横倒れの自転車の上に覆い被さる黒く汚れた臙脂色のブレザー、千切れ破れた紺の布切れ。
何が起こったのか分からない。乗っていた自転車を停めた道島えりは、ただ呆然と友達の自転車がそこに倒れてゆく様を見ていた。
そこに友達の姿はない。そこに人間の姿はない。そこにあるのは、見覚えのある横倒れた自転車と、風に攫われたにんげんの残骸だけ。
受け入れられない、何かが攫われて彼女の目の前で消失した。道島えりの呼吸音が荒くなる。汗が流れる、息が詰まる、とてもとても整理などできない目まぐるしく錯綜する感情に──
「はっ、はっ、はっ、……きゃーーーーー!!!」
彼女はその場で頭を抱えながら、ただただ叫んだ。
道島えりの上げた悲鳴に、残骸からの返事はない。
横倒れになった加藤かおりの自転車の車輪が、『カラカラ……』と、ゆっくりその余韻を失いながら、沈黙した────────。
回る車輪の動きが止まる。残骸は何も言わない。後輪のカバーに貼られた剥がれかけの赤いシールは、誰かの番号、誰かの名前。
立ち尽くす少女が独り、それをとても悲しい目で見つめていると、
『ぎこ……ぎこ……』
灰白のモヤの中から軋む音を立て、ゆっくりと現れたのは、一台の錆びた自転車。とても見覚えのあるその不格好な自転車。
これは夢か幻か、悪夢か。恐怖と悲しみと虚無感で真っ白になった頭ではもう分からない。しかし、虚無感をその錆びついた恐怖が上回り、その場に留まることを拒んだ道島えりは必死に逃げた。夢に違いないと信じて、この追ってくる恐怖すら疑って、かすむ不確かな霧の中へと背を見せながら逃げた。
こんな普通の帰り道、いたって普通の平日に、身の毛のよだつ恐ろしいことばかり起こるのは何故か、道島えりには分からない。訳が分からない。
いっそ、今見てきたこと感じたこと体験したこと何もかもをこのまま置き去りにする。何も考えずにただひたすらに、この霧の先を抜ければきっと元通りになっている。そうに決まっている。
確証などない。正気でもいられない。それでも彼女は、そう信じて振り返らない。
霞む景色の中を前へ前へと自転車を急ぎこぎ続けた。透明の粒が目尻から、風に零れ流れていく。
そして今、ほら、元通りの道に────
ローファーが着いたアスファルトは硬く冷たく、サドルから降り見上げる空は赤く妖しく。
見覚えのある電柱が右前のそこにある。電柱の下の歩道には、────ない。
痛々しい傷跡が歩道に刻まれている。何かが電柱に激しく衝突したそんな恐ろしい痕跡だけが、まるで抜け殻のように。
今、後ろから吹いてきた冷たい風に、自転車を降りた道島えりは、振り返った──
振り返ったその瞬間、道島の眼前に錆びた剥き出しの車輪が迫った。
道島の顔をひしゃげた前籠の影が覆う。前輪を持ち上げたまま走った錆びた自転車は、そのまま彼女を目掛けて猛スピードで襲いかかった。
⬛︎
決して置き去りにすることはできない
決して逃れることはできない
決して思い出すことはできない
いかなる道をゆけどその運命を捻じ曲げることはできない
ただ真っ直ぐに、錆びた剥き出しの車輪の執念が、カノジョに一体化するように──追いついた
⬛︎
振り返れば、死の間際。恐怖する間もなく、恐怖という感情をこしらえる間もなく、凍てつく体は振り返ったまま動かない。
飛び込んできたのは死そのもの。弱き存在は、己の存在が刈り取られるその刹那の運命を悟ることもなく。
容赦のないスピードで自転車が衝突する、まるで肉体から魂ごと吹き飛ばしてやらんばかりの勢いで。
アスファルトに呆然と停まっていた白い自転車が、猛烈に迫る錆びた自転車の狂気に吹き飛ばされた。
平穏を隠れ蓑に過ごせど、遅れて追いついてきた死から逃れる術はない。
白い自転車が、冷たいアスファルトの上で『カラカラ…』と虚ろな音を立てて────
アスファルトには激しく衝突した錆色と白い残骸。横倒れの自転車同士は重なり、カラカラと音を立て揺れている。
唐突に押し寄せた理不尽な死の運命、回想さえ許されない立ち尽くす死の刹那、唐突にその身を攫われたのは──
ぎゅっと絞り閉じていたその湿った目を開けると、男の人の顔が見える。彼女はそのどこか見覚えのある茶髪の男の人の胸の中にいた。
(たしかこの人の名前は……かいきんペアのきんの人)
道島えりはその男の顔を憶えている。
(掲示板にたくさんの友達と映っていて、ゼンブ同じピースをしている人、少し羨むように見ていた気がする、そんな人)
道島えりはその男のことを幾らか知っている。
(──ペア……?)
道島えりは戸惑った。
黒髪の少女、道島えりの上に倒れ込むよう重く覆い被さっていたのは、かいきんペアのきんの人──金閣寺歩。
同じ穏林高校の制服。臙脂色のブレザー、白いカッターシャツを着た男子生徒が、アスファルトに仰向けになっていた道島えりの目と鼻の先に、脈絡無くも何故かいたのであった。
「あっぶねぇ……入れたと思ったら、いきなりなななんだ……!? って今はそうじゃねぇ……だ、大丈夫か?」
「へ……う、うん。なんと……か」
助けるにあたり勢い余って女子に覆い被さっていた体勢を解き、金閣寺は道島のことを気遣いそう言った。
道島はなんとか大丈夫だと、たどたどしく意思表示をするも。
しかし、訳も分からず危機に訪れたばかりである金閣寺のその緊迫した表情よりも、間近に面する彼女の表情は大丈夫そうには見えない。黒髪をびっしょり濡らすまでのひどい汗をかき、目元は腫れており、青白い顔をしている。
恐怖の色合いの異なるお互いの顔を見合わせていた、そんな時──
『ぎ……ゴ……』
何かが動いた音が聞こえた。金閣寺がその音の鳴る方に振り返ると、白い自転車と激しく接触していたあの錆びた自転車がまた、ひとりでに立ち上がろうとしていた。
さらに歪んでいた前輪が、メキメキと、音を立て円くなろうとする。錆びた自転車はアスファルトに悲惨に散った欠片、パーツをゆっくりと謎の引力を伴いかき集め、妖しい塵を虚空にただよわせながらその姿らしきものを復元していく。
ズキズキと彼の左指が疼くのは、それが尋常ならざるモノだと彼よりも分かっているからか。
ただただ唖然と、その錆びついた瘴気のようなものを纏いだした異様な光景を見ていた金閣寺は、焦燥し正気を失っていた己の頭を平手で叩いた。
そして慌て周りを見渡し、黒い自転車が霞む道端に一台停まっているのを見つけた。
「アレは自分の乗ってきた自転車か──?」灰白のモヤになっている付近に目を凝らした金閣寺は、どちらにせよ決断した。
「ッ──とにかく乗れ!! こっちだ!!」
「え、あッ……!?」
道島が頷く間も待たず、金閣寺は彼女の手を引いていく。
道島は金閣寺の向かうベクトルに引っ張られていく。繋がれたその彼の左手が、立つこともままならなかった彼女の足に不思議と電流を流した。
汗ばむ手は繋いだ手、どちらの恐怖で湿った色なのか、混じり合っては分からない。瀕する危機に同調するように手のひらから馴染む。
道島えりは、よろけながらも彼に任せて共に硬いアスファルトを走った。
やがて近づく程にその視界先の灰白のモヤがゆっくりと晴れ、遠くで見つけた時よりも鮮明に見えてきた黒い自転車。
金閣寺は黒い自転車のサイドスタンドを蹴り上げた。だが何度蹴り上げても動かないそのサイドスタンドは、まるで頑丈な鎖に繋がれたように硬かった。
「チッ──!! ふざけん……ナッ!!!」
思わぬ足踏みに、舌打ちをした金閣寺は顔を歪める。だが、それでも彼は諦めきれない──目一杯の力で、もう一度強く蹴り上げた。
渾身の力で蹴り上げられたサイドスタンドは面していたアスファルトに、まるでライターが火を付けたように、青い火花を発した。
やっと上がったサイドスタンド。金閣寺は急ぎ黒い自転車に跨った。
兎にも角にもこれで行くしかない。破れていたサドルカバーに一抹の不安を抱きながらも、金閣寺は後ろに控えていた道島えりに手招くよう合図した。
金閣寺の見開きすぎたその必死な目と、急かす仕草に、心配そうに突っ立って見ていた道島えりは駆け寄った。
金閣寺は、後部に備わっていた平らな荷台に道島がしっかりと乗ったことを確認する。
そして、黒い自転車は重いペダルを踏まれながら、今巡り合わせた二人の男女を乗せてゆっくりと進み始めた。
発進した黒い自転車は必死にこぐ男子生徒に踏まれ急かされて、やがてスピードにのっていく。未だ、後方から不穏に軋みつづけるあの音を、とにかく置き去りにするスピードで黒い自転車は走りつづける。
産まれるように時間をかけ、再び立ち上がった一台の錆びた自転車。
其処に寝そべる白い残骸には目もくれない。剥き出しのホイールが、アスファルトを引っ掻きながら、弧を描くようにターンしやがて向き直った。
赤く暗く照らされた殺風景な一本道のアスファルトには、不吉な浜風がまた吹きはじめる。
『ぎこ……ぎこ……』
遠い、二人の乗る黒い自転車の後を今ゆっくりと、ソレは追いはじめた────。