第29話 ドライヤー
赤いインクが染み出し、白濁とした湯の色を変えていく。
浮かぶだるまたちから漏れ出た不穏不吉な赤モヤが、白を穢し、湯の中をもくもくと流れ意思を持ったように迫る。
手を伸ばすように迫る──そのだるまから漏れ出た冷たく気持ちの悪い気配に、振り返る阿部は言葉を失った。
ただ、得体の知れない恐怖心にその震える身を突き動かされ、彼女は浸かっていた湯の中から飛び出した。
きっと何かの間違い。見間違い。
駆け出した濡れた足跡が、やがて脱衣所の空間にたどり着く。阿部は自分のロッカーを恐る恐る開け、慌ててしまっていた私服に着替えた。
気が動転し慌ててしまった彼女は、「いつものように、いつものように……」と、まじないを唱え、胸に手を当てながら、呼吸を落ち着かせようとする。
心を落ち着かせた彼女は鏡の前の椅子に掛ける。財布を逆さに振り、小銭を白い台の上に全て散らし広げながら、震える手に取った10円玉をゆっくりと挿入口に投入した。
起動したドライヤーで髪を乾かしていく。
送風される風が彼女の冷えた髪と頭を、温め馴染ませていく。
何かを振り払いリセットするかのように、彼女は俯きながら首を左右に振った。
ドライヤーの音が、人気のない脱衣所の不気味な静けさを流していく──。
冷えていた髪と頭が半分ほど乾いた。再びゆっくりと顔を上げ、彼女は前方の鏡を見つめた。
やはり間違い、見間違い。鏡に映る異物はない、半乾きの現実にも鏡ごしの反転したセカイにも、映る異物の姿はなかった。
まだ小さく乱れていた息遣いに気付いた。流れ続けるドライヤーのスイッチを強から弱に変えて、合わせるように整えていく。
異常のない周囲に安堵した彼女が、ぬるい吐息を長く吐き出した。その時────
耳に吹くドライヤーの音が、不意に重なった。阿部は左を振り向いた。
誰もいない、未使用だったはずの左奥のドライヤーが起動していた。
静かな空間に重なる未知の恐怖に駆られた阿部は、さらに手前下方から聞こえた振動音に、びくりと驚き目を向けた。
白い台の上に置いたままにしていた小銭の数が減っている──そんな気がして仕方がない。
やがて、重なり合う音が厚みを増した。
右も左も、隣も後ろも、次々に無人のドライヤーが起動していく。
訳がわからないうるさい重奏に、椅子に腰をかけた阿部は立ち上がることもままならない。四方八方を囲み伝えひびく恐怖未知の音に、押しつぶされるように震えるこの身が縛られる。
「機器の故障に違いない……」呟く心も冷静でいられない。彼女がもう一度前方の鏡を確認すると、
ひとつ、ふたつ、みっつ……濡れたナニかが、伸びている。重なり高く伸びている。
人ではない人の顔を模したその奇妙な面たちが、濡れた頭をドライヤーで乾かすように、そう真似をするように──。
ぎろりと睨む、水に滲んだ黒い眼からは逃れられない。
見たくもないその異物の存在を再び認識をしてしまったのは、彼女の心に拭えぬ不安・恐怖・疑念が見せる幻影か。そんなことは知る由もない、分からない。
阿部は、ただただ恐怖した。片手に強く握っていたドライヤーが手から離れ落ちた。
鏡越しに目が合っただるまたちから目を背ける。右方に椅子から転げ落ちるように、阿部加奈は脱衣所の鏡の前から逃げ出した────。




